第十九改正日本薬局方の一般試験法〈2.63〉誘導結合プラズマ質量分析法には、装置性能を確認するための一文が置かれています。
酸化イオン生成比,すなわち 140Ce16O+/140Ce+ が0.03以下,及び二価イオン生成比,すなわち 140Ce2+/140Ce+ が0.05以下となることが望ましい. (第十九改正日本薬局方 一般試験法〈2.63〉4.2)
装置を立ち上げたらセリウム溶液を流して、この二つの比を見る。多くの現場で毎朝やっている確認です。ふつうは「基準内に入った、よし」で終わります。
ですが、この 3 % と 5 % という数字は、「そのぶんは化けてよい」という許可でもあります。そして化けた先には、別の元素が待っています。
CeO+ は m/z 156 に出ます。そこは 156Gd の場所です。140Ce の天然存在度は 88.45 %、156Gd は 20.47 %。酸化物生成比が上限の 0.03 ちょうどだとすると、セリウムが 1 mg/L ある試料は、ガドリニウムを一切含まなくても m/z 156 に Gd 換算で 130 µg/L 相当の信号を出します。Ce 濃度の 13.0 % です(筆者計算、感度を同等と仮定)。
二価イオンのほうはもっと露骨です。Gd2+ は m/z 78 に現れ、そこは 78Se の場所です。局方が許す 5 % を当てはめると、ガドリニウムはセレンの 4.3 % に化けます。MRI 造影剤を投与された患者の血清には Gd が mg/L 桁で入っていることがあり、そのときセレンの測定値は真値の 17〜86 倍になりうる(筆者計算、後述)。実際、この現象を扱った査読論文が 2015 年に Analyst に出ています。
コリジョン・リアクションセルは、こうして化けたものを消す装置だと説明されることが多い。ですが、いま現場で使われているマスシフト法は、まったく逆のことをしています。セルの中で意図的に酸化物を作って、その酸化物のほうを測る。 プラズマで 3 % できてしまう酸化物が欠陥なら、セルで 62 % 作る酸化物は機能です。同じ反応が、片方では抑えるべきもので、もう片方では利用するものになる。
その使い分けを可能にしたのが、四重極をもう1本足すという構成でした。本記事では、ヘリウムが何を使って干渉を分けているのか(質量ではありません)、四重極を増やすと何が変わるのか(感度でも分解能でもありません)、そしてその代償がどこに出るのかを、局方原文とメーカー一次資料と査読論文の数値で追います。
この記事の読み方
- 1〜2 節:干渉の分類と、「分解能で分ければいい」がなぜ通らないかの計算。ICP-MS を使い始めた人向け。
- 3〜4 節:コリジョン(He KED)とリアクション(オンマス/マスシフト)の原理。ここが本記事の中心です。
- 5〜6 節:MS/MS でなければできないこと。Q1 の役割と、「動かすのは分析種とは限らない」という発想。
- 7〜8 節:代償(感度・時間・ガス)と、2026 年時点の装置動向。導入検討中の方はここから読んでも構いません。
- 数値はすべて出典を付けています。筆者が計算した箇所は「筆者計算」と明記しました。
ICP-MS の装置構成そのものについては 元素分析法の全体像 を、規制側の要求は 元素不純物とICP-MS を先に読むと、本記事の位置づけが見えやすくなります。
0. 局方が置いた二つの比を、濃度に翻訳する
まず本記事の芯を先に置きます。
酸化物 3 % の意味
局方〈2.63〉が装置性能の目安に選んだのはセリウムです。セリウムは希土類のなかでも酸素との結合が強く、プラズマ中で最も酸化物になりやすい元素のひとつです。だから「Ce で 3 % 以下なら、他の元素はそれ以下だろう」という最悪値チェックとして機能します。この選び方自体は合理的です。
問題は、その 3 % が誰の場所に落ちるかです。
| 項目 | 値 | 出典 |
|---|---|---|
| 局方が許す CeO+/Ce+ | 0.03 以下 | JP19〈2.63〉4.2 |
| 140Ce の天然存在度 | 88.45 % | IUPAC |
| 140Ce16O+ の m/z | 156 | 計算 |
| m/z 156 にいる分析種 | 156Gd(存在度 20.47 %) | IUPAC |
筆者計算:Ce 濃度を C とすると、m/z 156 に現れる偽信号は C × 0.8845 × 0.03。これを Gd 濃度に換算すると ÷ 0.2047 で、C の 0.130 倍。
Ce 1 mg/L → 見かけの Gd 130 µg/L(Ce 濃度の 13.0 %)
きちんとチューニングされた実機の酸化物生成比は 1 % 未満です。Agilent の技術ノートは、この研究で使ったプラズマ条件を「CeO+/Ce+ 比 1 % 未満のロバストな条件」と記述しています。1 % で計算し直すと 4.3 %。それでも、Ce が Gd の 20 倍あれば、Gd の測定値はほぼ全部 Ce 由来ということになります。
二価 5 % の意味
四重極は m/z で分けるので、二価イオンは質量数の半分の位置に現れます。局方はこれも明示しています。
二価イオンとは,当該の一価イオンの1/2の m/z 値にピークを持つイオンのことで,試料溶液中に測定対象元素の2倍の質量数の同位体を持つ元素が共存する場合に干渉を生じる. (JP19〈2.63〉4.3)
質量数 156 の Gd が二価になると m/z 78、つまり 78Se の位置です。
筆者計算:Gd2+/Gd+ を局方上限の 0.05 とすると、Gd 濃度 C の試料が m/z 78 に出す偽信号は Se 換算で C × 0.05 × 0.2047 ÷ 0.2377 = C の 4.3 %。
ここに実際の臨床データを当てはめます。Bishop らは Analyst(2015, 140, 2842)で、MRI 造影剤による Gd が血清中セレン測定を妨害する問題を扱い、Gd 127 µmol/L(= 20.0 mg/L)と Se 0.127 µmol/L(= 10.0 µg/L)を添加した模擬試料で検証しました。
| Gd2+/Gd+ | 見かけの Se(筆者計算) | 真値 10.0 µg/L に対して |
|---|---|---|
| 0.05(局方上限) | 860 µg/L | 86 倍 |
| 0.01(実機の目安) | 172 µg/L | 17 倍 |
Gd の第二イオン化エネルギーは 12.09 eV で Ce の 10.85 eV より高く、実際の Gd2+ 生成比は Ce のそれより低いはずです。ですからこの 86 倍は上限側の見積もりです。それでも桁が動く。この試料をヘリウムコリジョンモードで測っても、セレンの値は下がりません。 理由は 3 節で説明します。
だからセルは「反応を使う装置」になった
ここまでの二つの計算が示しているのは、干渉が「装置の汚れ」ではなくプラズマという反応場が必然的に作る生成物だということです。8000 K のアルゴンプラズマに水溶液を吹き込めば、Ar+・ArO+・Ar2+・MO+・M2+ は必ずできます。できる量を 3 % や 5 % に抑えることはできても、ゼロにはできない。
それなら、プラズマの後ろにもう一つ反応場を置いて、そこで自分に都合のいい反応を起こすほうが早い。これがコリジョン・リアクションセルの発想です。局方もセルの存在を明記しています。
なお,コリジョン・リアクションセルと呼ばれる室(セル)を真空内の質量分離部の前に配置し,水素,ヘリウム,アンモニア又はメタンなどのガスを導入することにより,後述の多原子イオン類による干渉を抑制できる. (JP19〈2.63〉1.)
局方が挙げているのは水素・ヘリウム・アンモニア・メタンの4種。現在の実務ではこれに酸素と亜酸化窒素(N2O)、そして 2026 年には空気が加わります。
1. 干渉は三種類 ― 局方の分類をそのまま使う
対策を選ぶ前に、相手を分類します。局方〈2.63〉4.3 の分類が実務でもそのまま使えるので、これに沿います。
スペクトル干渉(重なる)
(a) 同重体干渉 ― 質量数が同じ別元素。局方は 40Ca に対する 40Ar、204Pb に対する 204Hg を例示しています。これは原理的に質量では分けられません。 後述するように分解能を上げても届きません。
(b) 多原子イオン干渉 ― プラズマやマトリックス由来の分子イオン。局方の例示はそのまま実務の頻出3種です。
Arに起因する 40Ar16O,40Ar16O1H,40Ar2 などの多原子イオンが形成され,それぞれ 56Fe,57Fe,80Se の測定に干渉を生じる. (JP19〈2.63〉4.3)
鉄は最も主要な 56Fe(存在度 91.75 %)が ArO+ に潰され、逃げ道の 57Fe(2.12 %)も ArOH+ に潰される。セレンは最も主要な 80Se(49.61 %)が Ar2+ に潰される。アルゴンプラズマである以上、この3つは避けられません。
多原子イオンはマトリックス由来のものも重要です。塩酸系では ArCl+(m/z 75、As の場所)、ClO+(m/z 51、V の場所)、ClOH+(m/z 52、Cr の場所)、ClCl+(m/z 70・72・74、Ge の場所)が一斉に立ちます。硫酸系なら SO+(m/z 48、Ti の場所)。有機溶媒系なら ArC+(m/z 52)。マトリックスを見れば、どこが潰れるかはあらかじめ分かります。
(c) 二価イオン干渉 ― 0 節で扱ったもの。希土類が多い土壌・食品・地質試料と、造影剤投与後の生体試料で効きます。
非スペクトル干渉(量が変わる)
局方は物理干渉・イオン化干渉・マトリックス干渉を挙げ、マトリックス干渉の傾向を次のように書いています。
この傾向は,共存元素の質量数が大きく,その濃度が高いほど,また,測定元素の質量数が小さいほど顕著に表れる. (JP19〈2.63〉4.3)
つまり「重いマトリックスが、軽い分析種の信号を食う」。これはセルでは直りません。内標準法・標準添加法・希釈で対処する領域です。セルが効くのはスペクトル干渉だけ ― この線引きが、後で「セルを入れたのに合わない」と悩まないために大事です。前処理側の話は 試料分解法の選び方 にまとめています。
2. 分解能では届かない ― 必要分解能を計算する
「重なっているなら分解能を上げればいい」。素直な発想ですし、実際に磁場型(セクターフィールド型)ICP-MS はその道具です。ではどれだけの分解能が要るのか。核種質量は公開値なので、自分で計算できます。
質量分解能 R は R = m ÷ Δm。分析種と干渉種の厳密質量の差 Δm が分かれば、必要な R が出ます。以下は NIST/AME の核種質量から筆者が計算した表です(一価イオン同士なので電子質量は相殺されます)。
必要分解能の一覧(筆者計算)
| 分析種 | 干渉種 | 分析種の質量 | 干渉種の質量 | Δm | 必要 R |
|---|---|---|---|---|---|
| 31P | 14N16O1H+ | 30.97376 | 31.00581 | 0.03205 | 966 |
| 28Si | 14N2+ | 27.97693 | 28.00615 | 0.02922 | 957 |
| 28Si | 12C16O+ | 27.97693 | 27.99491 | 0.01799 | 1,555 |
| 32S | 16O2+ | 31.97207 | 31.98983 | 0.01776 | 1,800 |
| 44Ca | 12C16O2+ | 43.95548 | 43.98983 | 0.03435 | 1,280 |
| 48Ti | 32S16O+ | 47.94795 | 47.96699 | 0.01904 | 2,518 |
| 51V | 35Cl16O+ | 50.94396 | 50.96377 | 0.01981 | 2,572 |
| 52Cr | 40Ar12C+ | 51.94051 | 51.96238 | 0.02188 | 2,374 |
| 56Fe | 40Ar16O+ | 55.93494 | 55.95730 | 0.02236 | 2,502 |
| 63Cu | 40Ar23Na+ | 62.92960 | 62.95215 | 0.02255 | 2,790 |
| 75As | 40Ar35Cl+ | 74.92160 | 74.93124 | 0.00964 | 7,773 |
| 78Se | 38Ar40Ar+ | 77.91731 | 77.92512 | 0.00781 | 9,981 |
| 80Se | 40Ar2+ | 79.91652 | 79.92477 | 0.00824 | 9,693 |
| 111Cd | 95Mo16O+ | 110.90418 | 110.90076 | 0.00342 | 32,415 |
| 40Ca | 40Ar+ | 39.96259 | 39.96238 | 0.00021 | 192,260 |
| 114Cd | 114Sn+ | 113.90336 | 113.90278 | 0.00058 | 197,818 |
この表を、実際の装置が出せる分解能と並べます。
- 四重極 ICP-MS:単位質量分解能(ピーク幅 0.7 u 程度)。m/z 56 では R ≈ 80、m/z 111 でも R ≈ 159 です(筆者計算)。表のどの行にも届きません。
- 磁場型(セクターフィールド型)ICP-MS:スリット切り替えで低・中・高の3段。代表機の公称値は R ≈ 300 / 4,000 / 10,000(10 % 谷定義)です。
つまり磁場型なら、ArO+/56Fe(2,502)や ClO+/51V(2,572)は中分解能で解けます。ここは磁場型の独壇場です。
ところが表の下半分は様子が違います。
- 80Se / Ar2+ は 9,693。 公称最高分解能 10,000 とほぼ同じです。「ぎりぎり届く」は、実務では「届かない」と同義です。しかも高分解能側ではスリットを絞るぶん透過率が落ち、感度は低分解能モードより大きく下がります。最も存在度の高い 80Se を、最も感度の低いモードで測ることになります。
- 111Cd / MoO+ は 32,415。 最高分解能の3倍以上。磁場型でも解けません。
- 40Ca / 40Ar+ は 192,260、114Cd / 114Sn+ は 197,818。 これは同重体で、質量分解能という軸では原理的に届きません。
この表が言っているのは「分解能は万能ではない」ではなく、「質量の軸で解けない相手がいる」ということです。解けないなら、質量の軸から外すしかない。セルはそのための装置です。
なお 111Cd / MoO+ と 114Cd / 114Sn+ が並んでいるのは偶然ではありません。カドミウムは ICH Q3D のクラス1元素で、医薬品で必ず測る元素です。逃げ道の同位体がどちらも塞がれているという事情が、この元素をセル技術の代表的な題材にしています。
3. コリジョン(He KED)― 質量ではなく「大きさ」で分ける
コリジョンモードは、セルにヘリウムのような化学的に不活性なガスを流します。反応させないので、ヘリウムは何も壊しません。では何が起きているのか。
同じ m/z なのに分かれる理由
前提を確認します。56Fe+ と 40Ar16O+ は、m/z も電荷も実質同じです。だから電磁場での挙動も同じ。違うのは形とサイズだけです。ArO+ は原子2個が結合距離ぶん離れて並んだ分子イオンで、単原子の Fe+ より衝突断面積が大きい。
セルにヘリウムを流すと、断面積の大きいイオンほど衝突回数が増え、運動エネルギーを多く失います。セル出口に電位障壁(エネルギーディスクリミネーションのバイアス)を置くと、エネルギーを失った多原子イオンは越えられず、エネルギーの残った単原子イオンだけが通過します。 これが運動エネルギー弁別(Kinetic Energy Discrimination, KED)です。
Agilent の 9500 技術資料はこの原理を一文で書いています。
In contrast, collision cell modes employ an inert gas, such as helium (He), to reduce interferences by exploiting collisional cross-section differences between analyte ions and interfering species using Kinetic Energy Discrimination (KED). (Agilent「Air Cell Mode of the Agilent 9500 ICP-QQQ with Dual-Cell System」DE-012983, 2026)
ここを押さえておくと応用が効きます。He KED は「質量で分ける技術」ではなく「大きさで分ける技術」です。 質量分析計の中にあるのに、質量を見ていない。だから「質量分解能では絶対に解けない同重体」でも、片方が分子イオンでさえあれば分けられる。逆に言えば ―
He KED が効かないもの
(a) 二価イオンには効かない。 M2+ は単原子イオンです。分析種の M+ と同じく小さい。断面積に差がないので、エネルギー差が付きません。Agilent の資料は、効かないだけでなく悪化することがあるとまで書いています。
However, collision cell mode is less effective at suppressing doubly charged ion interferences (M++), and sometimes, KED can even enhance the interferences. (同 DE-012983)
なぜ強まりうるのか。二価イオンは電荷が2倍なので、セル内で同じ電位差からより大きな運動エネルギーを得ます。障壁を越える力が分析種より強い。障壁を高くするほど、分析種のほうが先に落ちるという逆転が起きます。0 節の Gd/Se の話で「ヘリウムでは下がらない」と書いたのはこの理由です。
Bishop らの Analyst 論文は、これを実測で確かめています。ヘリウムモード(He 10 mL/分、オクトポールバイアス −100 V、エネルギー弁別 +7 V)でも、セレン測定における 156Gd2+ 干渉は除去できませんでした。水素を通常の 5.0 mL/分にしても不十分で、9.0 mL/分まで上げるか、酸素マスシフト(78 → 94)に切り替えて初めて解決したと報告しています。
(b) 同重体には効かない。 114Cd と 114Sn はどちらも単原子イオンです。断面積も質量も同じ。KED でも分解能でも分けられません(この場合は 118Sn を別に測って数学的に補正する、いわゆる干渉補正式を使います)。
(c) 感度は必ず落ちる。 衝突するのは分析種も同じです。ヘリウムを流せば分析種も散乱し、エネルギーを失う。He モードの感度はノーガスモードの数分の一になるのが普通で、これは KED の原理的な代償です。
それでも He モードが標準である理由
弱点を並べましたが、He KED は今も既定のモードです。理由は Agilent の 70 元素反応データの冒頭に書かれています。
KED is effective for all polyatomic ion interferences and rarely requires optimization or customization for particular interferences or sample types, so collision mode using He is the most widely applicable approach for resolving interferences in elemental analysis by ICP-MS. (Sugiyama & Nakano「Reaction data for 70 elements…」Agilent 技術ノート)
すべての多原子イオンに効き、相手ごとの調整がいらない。 反応モードは「この分析種にこのガス」という組み合わせを一つずつ決める必要がありますが、He はワンモードで 60 元素以上をまとめて面倒見られます。ルーチン分析で重要なのはこの汎用性です。
4. リアクション ― オンマスとマスシフト、二つの逃がし方
反応モードは、セルに化学的に活性なガス(H2、O2、NH3、N2O、CO2、CH3F など)を流し、イオン分子反応で相手を別の場所へ動かします。動かし方は二通りしかありません。
オンマスモード ― 干渉種を動かして、分析種はその場に残す
分析種が選んだガスと反応しにくく、干渉種がよく反応するときに使います。干渉種は中性分子になるか(電荷を失えば質量分析計から消えます)、別の m/z の生成イオンになって去る。分析種は元の質量のまま検出されます。
典型例が塩素マトリックス中のバナジウムです。35Cl16O+ が 51V+ に重なる。アンモニアを流すと ClO+ は電荷を失って中性の ClO になり、V+ はそのまま m/z 51 で検出されます。
水素は特にアルゴン系イオンとの相性がよく、局方が例示した3つの干渉すべてに効きます。
H2 reacts with argide ions (ArM+) at a relatively fast rate compared to its reaction rate with several interfered elements. It is therefore an effective gas to remove argide-interferences such as 40Ar+ on 40Ca, 38ArH+ on 39K+, 40Ar12C+ on 52Cr+, 40Ar40Ar+ on 80Se+ (同 Agilent 技術ノート)
2 節の表で「必要分解能 192,260」だった 40Ar+/40Ca が、水素なら解ける。質量の軸では届かない相手が、化学の軸では簡単に片付く。 これが反応モードの本質です。
マスシフトモード ― 分析種のほうを動かす
分析種がガスとよく反応し、干渉種が反応しないときは、逆に分析種を動かします。酸素なら Q2 を Q1 より 16 だけ高くする(+16 u シフト)。
- 32S+ → 32S16O+(m/z 32 → 48)。O2+ は O3+ にならないので、m/z 32 の巨大な背景から抜け出せます。
- 31P+ → 31P16O+(31 → 47)。NOH+ から逃げます。
- 75As+ → 75As16O+(75 → 91)。ArCl+・CaCl+・Nd2+・Sm2+ をまとめて置き去りにします。
- 78Se+ → 78Se16O+(78 → 94)。Gd2+・Dy2+・Ar2+ から逃げます。
アンモニアは付加体クラスターを作ります。硫黄・カルシウムマトリックス中のチタンは、Ti(NH3)6+ という6分子も付いたクラスターとして測るのが定石です。質量が 102 も動くので、元の場所の干渉とは完全に無関係になります。
反応が起きるかどうかは熱力学で決まる
どのガスを選ぶかは勘ではありません。反応エンタルピーが符号を決めます。
Bishop らの論文は、セレンと Gd の分かれ目を数値で示しています。
| 反応 | ΔH | 性質 |
|---|---|---|
| Se+ + O → SeO+ | +0.69 eV | 吸熱(収率が低い) |
| Gd+ + O → GdO+ | −2.39 eV | 発熱(よく進む) |
セレンの酸化は吸熱なので、イオンに運動エネルギーを与えないと進みません。一方 Gd の酸化は発熱なので、エネルギーを下げても勝手に進む。この差を利用して、「セレンはちょうど反応する/Gd の二価は反応させない」という一点にチューニングを合わせる。 同論文の O2 モードは、O2 0.28 mL/分、オクトポールバイアス −3 V、エネルギー弁別 −5 V という条件でした。
エネルギー弁別が負である点に注目してください。3 節で説明した KED の障壁を、反応モードではあえて外しているのです。マスシフトでは生成イオンこそが目的物なので、セル内で衝突してエネルギーを失った生成イオンを通す必要がある。Agilent の 70 元素データの標準条件でも、ノーガスモードの KED は +5 V、反応モードでは −8 V です。コリジョンとリアクションでは、セル出口の設定が逆を向いている ― ここは実務で混乱しやすいところです。
PNNL(米エネルギー省パシフィック・ノースウェスト国立研究所)の French らは、この「イオンの運動エネルギー」を変数として系統的に振った研究を 2024 年に報告しています。オクトポールバイアス(Voct)を +2 〜 −15 V で変えながら、CO2・N2O・O2 の3ガスで 48 元素の生成イオン分布を追ったものです。
For endothermic reactions, product cannot form unless the reactant ion's kinetic energy meets the reaction threshold energy. While for exothermic reactions, decreasing the ion kinetic energy (increasing Voct) still results in product ion formation as enough energy is always available. (French et al., PNNL)
同じガスでも、バイアスを変えるだけで「分析種だけが反応する窓」を作れる。この論文は Pu/U の分離、Sm/Eu の分離という核種分析の難題に加えて、ArO+/56Fe を CO2 で解くという、通常は選ばないガスでの解法を示しています。
5. Q1 を置くことの意味 ― セルに入る前に質量を決める
ここまでの反応モードは、単四重極機(ICP-QMS)でもセルさえあればできます。では四重極をもう1本増やすと何が変わるのか。
答えは感度でも分解能でもありません。Q1 も Q2 も単位質量分解能で、分解能は上がりません。変わるのは一点だけ ―
In MS/MS mode, both quadrupoles are operated as mass filters (unit mass resolution), with the first quadrupole (Q1, positioned in front of the cell) controlling which ions enter the CRC and take part in the reactions. (Sugiyama & Nakano, Agilent 技術ノート)
セルに入るイオンを、入る前に1本に絞る。 それだけです。ですがこの一点が、反応モードの信頼性を決めます。
なぜ絞る必要があるのか ― 到着先に先客がいる
マスシフト法には構造的な弱点があります。分析種を「空いている場所」に動かしたつもりでも、そこは他の元素にとっては自分の場所だということです。
砒素の例が最も分かりやすい。As を AsO+ として m/z 91 で測る。ところが m/z 91 には 91Zr(存在度 11.22 %)がいます。Agilent のハンドブックはこの状況をはっきり書いています。
However, with ICP-QMS, the AsO+ product ion at mass 91 suffers an interference from 91Zr+. … Using the 8900 ICP-QQQ with MS/MS, the 91Zr+ ion is removed by Q1, which is set to the As+ precursor ion mass of 75. (Handbook of ICP-QQQ Applications, 4th Edition)
筆者計算:Zr が As の 100 倍の濃度で共存する試料では、m/z 91 に届く Zr 由来の信号は As 由来の 11.2 倍です(感度を同等と仮定)。1000 倍なら 112 倍。単四重極でマスシフトをやると、この Zr がそのまま加算されます。Q1 を 75 に固定すれば、Zr は最初から入ってきません。
同じ構図が他の遷移でも起きます(いずれも筆者計算、生成比を 1 と置いた上限側の比較)。
| 遷移 | 到着先の先客 | 同濃度共存時の信号比 |
|---|---|---|
| As 75 → 91(AsO+) | 91Zr(11.22 %) | Zr が As の 0.11 倍 |
| S 32 → 48(SO+) | 48Ti(73.72 %)、48Ca(0.187 %) | Ti が S の 0.78 倍 |
| Se 78 → 94(SeO+) | 94Mo(9.15 %) | Mo が Se の 0.38 倍 |
| Ti 48 → 64(TiO+) | 64Zn(49.17 %)、64Ni(0.93 %) | Zn が Ti の 0.67 倍 |
存在度が高い元素ほど「先客」として厄介です。48Ti は存在度 73.72 % なので、硫黄を SO+ で測る系にチタンが混ざると、同濃度でもほぼ同じ大きさの信号を出します。Q1 を 32 に置けば、Ti は物理的にセルへ入れません。
セルの中で新しい干渉が生まれる
もっと厄介なのは、入れてしまったイオンがセルの中で反応して、到着先に新しい干渉を作るケースです。ハンドブックに、コバルト 1000 ppm マトリックス中の砒素という実例が載っています。
セルに Co+ が入ると、酸素と二段階で反応します。
59Co+ + O2 → 59CoO+ + O
59CoO+ + O2 → 59CoO2+ + O
CoO2+ は m/z 91。AsO+ とまったく同じ場所です。しかも元の Co+ はプラズマ中で CoO+ の 10,000 倍の強度があるため、生成する CoO2+ は無視できない大きさになります。
同ハンドブックの比較実験では、Q1 を m/z 75 に固定した MS/MS モードで As の BEC(バックグラウンド等価濃度)は 330 ppt。一方、単四重極モード(Q1 を持たない構成、および m/z 59 付近でローマスカットオフを掛けた構成)では BEC が桁違いに高くなりました。Co+ を完全に排除できたかどうかだけの差です。
同じことがチタンのアンモニアモードでも報告されています。Q1 の通過幅が 0.7 u より広い(例えば 2.1 u)と、49Ti を狙っているのに 48Ti が一緒に入り、セル内で 48Ti(NH2)(NH3)4+ ができて、目的の 49Ti(NH)(NH3)4+ と m/z 132 で重なります。Q1 は「あればいい」のではなく、単位質量で切れていることに意味がある。
Q1 があっても解けない相手
公平に書いておくと、Q1 は万能ではありません。同重体は Q1 でも分けられないからです。
チタンの例が典型です。Ti を TiO+(48 → 64)で測るとき、Q1 を 48 に置いても 48Ca は一緒に入ってきます(同重体なので)。そして Ca も酸素と反応して 48CaO+ になり、m/z 64 でまた重なる。動かしても一緒についてくる。
ハンドブックの解法は、ガスを2種類混ぜることでした。
Adding hydrogen gas can eliminate the Ca interference by converting CaO+ to CaOH+. TiO+ does not react in the same way with H2 cell gas, so remains as the TiO+ product ion at m/z 64. (Handbook of ICP-QQQ Applications, 4th Edition)
酸素で両方を +16 動かし、水素で Ca だけをさらに +1 動かす。二段階の反応で、同重体を化学的に引き剥がしている。 ここまで来ると、もはや質量分析というより分取化学です。
6. 動かすのは分析種とは限らない ― 干渉側を酸化して逃がす
マスシフトというと「分析種を動かす」と思いがちですが、実務ではその逆がよく効きます。分析種が反応しない元素では、干渉種のほうを動かす。
Agilent の 9500 技術資料が挙げている金の例が分かりやすい。
Unlike As+ or Ge+, Au+ has low reactivity with O2, making mass-shift ineffective. However, the interfering ion, TaO+, reacts efficiently with air to form TaOO+, allowing Au to be analyzed free of interference at its original mass (m/z = 197). (Agilent DE-012983, 2026)
タンタル 0.5 ppm を含む試料で金を測る。181Ta16O+ が m/z 197 で 197Au+ に重なります。金は酸素と反応しないのでマスシフトできない。ですが TaO+ のほうは酸素と反応して TaO2+(m/z 213)へ移動する。金はその場に留まり、干渉種だけが立ち去る。
この説明は別の一次資料で独立に裏が取れます。Agilent の 70 元素反応データ(cps/ppb)から筆者が算出した数値です。
| 元素 | ノーガス M+ | O2 で M+ 残存 | O2 で MO+ | O2 で MO2+ |
|---|---|---|---|---|
| Au | 32,902 | 18,775(57.1 %) | 114(0.3 %) | 4 |
| Hg | 8,205 | 4,710(57.4 %) | 4(0.0 %) | 0 |
| Cd | 10,075 | 6,238(61.9 %) | 55(0.5 %) | 0 |
| Ta | 150,282 | 63(0.04 %) | 5,121 | 75,315 |
| W | 36,381 | 60(0.2 %) | 2,035 | 17,187 |
| Mo | 17,028 | 752(4.4 %) | 956 | 6,125 |
(Sugiyama & Nakano の Table 2A より筆者が比率を計算)
Au・Hg・Cd は酸素をほとんど付けず 57〜62 % がそのまま残る。Ta・W・Mo は元の質量にほぼ残らず、大半が二酸化物 MO2+ まで進む。だから ―
- Cd の MoO+ 干渉:Mo を MoO2+ に進ませれば m/z 111 から消える。Cd はオンマスのまま。
- Hg の WO+ 干渉:W を WO2+ に進ませれば m/z 200・202 から消える。
- Au の TaO+ 干渉:上記のとおり。
9500 の技術資料(2026年)と 70 元素の反応データ(8800 世代)が、まったく別の実験から同じ結論に達している。 一次資料が二本立てで揃っているので、この使い分けは信頼して構いません。
水銀については、そもそも測りにくい元素であることも押さえておく価値があります。ハンドブックは第一イオン化エネルギー 10.44 eV で電離しにくいこと、7 つの同位体に分散していて1本あたりの存在度が低いこと、揮発性が高いことを挙げ、そのうえで「タングステンを含む化粧品などでは WO+・WOH+ が Hg の全同位体に重なる」と書いています。逃げ道がない元素の典型です。
7. 代償はどこに出るか ― 感度・時間・ガス
反応モードはただでは手に入りません。代償を3つに分けて、数値で確認します。
(a) 感度 ― マスシフトは元の信号の 3 〜 6 割になる
Agilent の 70 元素反応データから、主な元素の「ノーガスモードの M+ 感度」に対する「O2 モードの MO+ 感度」の比を筆者が計算しました(同一チューニング条件での比較で、元素ごとに最適化はしていません)。
| 元素 | ノーガス M+ (cps/ppb) | O2 MO+ (cps/ppb) | 残る割合 |
|---|---|---|---|
| V(→ VO+) | 74,095 | 46,960 | 63.4 % |
| Ce(→ CeO+) | 130,831 | 80,926 | 61.9 % |
| As(→ AsO+) | 10,603 | 6,013 | 56.7 % |
| Ti(→ TiO+) | 5,107 | 2,502 | 49.0 % |
| P(→ PO+) | 2,486 | 902 | 36.3 % |
| S(→ SO+) | 6,181 | 2,038 | 33.0 % |
| Se(→ SeO+) | 732 | 204 | 27.9 % |
| Si(→ SiO+) | 16,421 | 2,482 | 15.1 % |
セリウムがここにも顔を出しています。プラズマ中では 1 〜 3 % しか酸化しない元素が、セルの中では 62 % 酸化する。 反応場としてのセルの性格がよく分かる数字です。
セレンの 27.9 % は 4 節の熱力学どおりです(Se+ + O は吸熱 +0.69 eV)。シリコンの 15.1 % は特に低く、この元素では「感度を捨ててでも背景を下げる」判断になります。
(b) 感度が高いモードが、良いモードとは限らない
ここが実務で一番の勘所です。感度(cps/ppb)だけ見てモードを選ぶと間違えます。見るべきは BEC(バックグラウンド等価濃度)と検出下限です。
Thermo Fisher のアプリケーションノート 43404 は、ニッケル 100 mg/L マトリックス中のセレンを2つのモードで比較しています。
| モード | 80Se+ 感度 (cps·L/µg) | BEC (ng/L) | 装置検出下限 (ng/L) |
|---|---|---|---|
| TQ-H2(オンマス) | 9,700 | 38.9 | 10.5 |
| TQ-O2(マスシフト 80 → 96) | 2,200 | 13.2 | 5.10 |
筆者計算:酸素マスシフトは感度が 4.4 分の 1 に落ちるのに、BEC は 3.0 倍、検出下限は 2.1 倍 良い。
信号を 4 分の 1 に減らしてなお検出下限が良くなるということは、背景をそれ以上に減らしているということです。ICP-MS の検出下限を決めるのは信号の大きさではなく背景のゆらぎであり、マスシフトの本当の効能は「感度を上げること」ではなく「分析種を背景のない場所へ連れて行くこと」にあります。
到達値の実例をいくつか挙げておきます。
| 系 | 条件 | BEC / 検出下限 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 20 % 塩酸中の As | ICP-QQQ、O2 マスシフト 75 → 91 | BEC 6.17 ppt / DL 0.73 ppt | Agilent ハンドブック |
| 同上 | ICP-QMS(単四重極)、He モード | BEC 20 ppt 未満 | 同上 |
| Co 1000 ppm 中の As | ICP-QQQ、O2 マスシフト | BEC 330 ppt | 同上 |
| 超純水中の 25 元素 | 8900 ICP-QQQ、ホットプラズマ | BEC 0.5 ppt 未満 / DL 0.3 ppt 未満 | 同上 |
| 超純水中の S | 8800 ICP-QQQ、O2 マスシフト 32 → 48 | BEC 0.9 ppb / 定量下限(10σ)1.3 ppb | DNP分析センター |
硫黄だけ単位が ppb であることに注目してください。硫黄は3桁ほど別の世界です。理由は第一イオン化エネルギーが 10.36 eV と高くアルゴンプラズマで電離しにくいこと、そして研究室の器具・試薬に硫黄が遍在してブランクが下がらないことの両方です。半導体分野の SEMI 規格 C30-1110 は高純度過酸化水素中の硫酸・リン酸を 30,000 ppt(元素換算で S・P として 10,000 ppt)と規定していますが、ハンドブックは「従来の単四重極 ICP-MS では検出下限が足りず、この2元素は ICP-MS では測られてこなかった」と書いています。
(c) 時間とガス
反応モードは元素ごとにガスが違います。ノーガス・He・H2・O2・NH3 を1回のシーケンスで切り替えると、ガスのパージと安定化に時間を取られます。Agilent は 9500 の発表にあたって、この切り替えを減らすことで取得時間を 33 % 以上短縮したと述べています。裏返せば、従来のマルチガス法はそれだけの時間を切り替えに使っていたということです。
ガスの調達と管理も負担です。高純度の酸素・水素・アンモニア(アンモニアは He 希釈の混合ガスで供給されるのが普通)はボンベと配管、安全管理を伴います。とくにアンモニアと水素は可燃性・毒性の観点で設置条件が付きます。
8. 2026 年の装置 ― 空気をセルガスにする
2026 年 5 月 22 日、Agilent は 9500 ICP-MS を発表しました(6 月発売)。位置づけは「単四重極機からの置き換えを狙う入門機クラスの ICP-QQQ」で、技術的な目玉が2つあります。
デュアルセルシステム(DCS)と Advanced Helium Mode
ひとつは Advanced Helium Mode(AHM) で、複数のチューンモードを1つに置き換えることで取得時間を 33 % 以上短縮するというもの。3 節で述べた「He モードは汎用だが感度が落ちる」というトレードオフに、セル設計側から手を入れた格好です。
Air cell ― 大気をリアクションガスにする
もうひとつが Air cell で、これは発想が新しい。実験室の空気をそのままリアクションガスとして使います。
Ambient air consists primarily of nitrogen (N2, approximately 78 %) and oxygen (O2, approximately 21 %). Operating the DCS in Air cell mode uses O2 in air to reduce interference through ion-molecule reactions. Because N2 is less reactive than O2, N2 primarily contributes to the thermal relaxation of ions. (Agilent DE-012983, 2026年6月1日)
空気の 21 % が酸素なのだから、酸素リアクションに使える。残る 78 % の窒素は反応せず、イオンの熱的緩和(つまりコリジョンガスとしての役割)を担う。酸素ボンベも圧縮機も要りません(大気圧で足りるため)。湿分と炭化水素はフィルターで除き、使わないときは自動バルブで大気との接触を絶つ設計です。
同資料が示す適用例は、本記事でここまで扱ってきた難所そのものです。
| 適用 | 内容 |
|---|---|
| As・Se | REE の二価イオン(150Nd2+・150Sm2+ が As、156Gd2+・156Dy2+ が Se)を、AsO+・SeO+ へのマスシフトで回避 |
| Ge・Gd | Ge は Nd2+・Sm2+、Gd は LaO+・PrO+ の干渉を受ける。どちらも GeO+・GdO+ で回避 |
| S・P・Si | O2+・NO+・N2+ 干渉。Air cell で AHM より低い BEC と検出下限 |
| Au | 干渉側の TaO+ を TaO2+ へ動かし、Au はオンマスのまま |
| Cd・Hg | MoO+・WO+ を MoO2+・WO2+ へ動かす |
Gd の行に注目してください。0 節で「Ce が Gd の 13 % に化ける」と計算したのと同じ種類の干渉(LaO+・PrO+ による Gd への重なり)が、メーカーの適用例として正面から挙げられています。局方の 3 % は机上の数字ではありません。
他社の構成
三連四重極 ICP-MS は Agilent の 8800(2012 年)が最初で、8900(2016 年)を経て現在に至ります。Thermo Fisher は iCAP TQ ICP-MS を出しており、アプリケーションノート 43404 では Ni・Zr マトリックス中の As・Cd・Se を TQ-H2/TQ-O2 で測っています。同社は Reaction Finder という「分析種を選ぶとガスと遷移を提示する」機能をソフトウェア側に持たせていて、メソッド開発の負担(7 節 (c))をソフトで肩代わりする方向です。
ジルコニウム合金中の砒素について、同ノートは単四重極機の限界を的確に書いています。単四重極で酸素を使うと ZrO の生成が進み、干渉も分析種も一緒にマスシフトしてしまう。Q1 がないと「動かす相手を選べない」という 5 節の話が、別メーカーの資料でも同じ形で出てきます。
分析者の視点
原理より実務に効く話を4つ。
1. 同位体比を見れば、干渉が残っているか分かる
「干渉は除去できた」と言い切れる根拠を持っているでしょうか。標準液で検量線が直線でも、試料マトリックス中で干渉が残っていれば値は高く出ます。
鉄なら、その場で検算できます。 57Fe/56Fe の天然比は 0.0231(存在度 2.119 % ÷ 91.754 %)。試料でこの比を測って、自然比から外れていれば干渉が残っています。
筆者式:測定比を Rm、天然比を Rn = 0.0231 とすると、m/z 56 の信号に占める干渉の割合 f は
f = 1 − R_m ÷ R_n
Rm = 0.0180 なら f = 22 %。つまり測定値の 2 割強が ArO+ ということになります(57Fe 側にも ArOH+ が乗るので、これは過小評価側の見積もりです)。
PNNL の French らは、まさにこの方法でチューニングの当たりを決めています。CO2 をセルガスに使い、オクトポールバイアス −5 V のとき 57Fe/56Fe = 0.0232 ± 0.0003(自然比 0.0231)となり、しかもそこがイオン透過率のピーク付近だった、と報告しています。「比が合った」と「感度が高い」が同じ点で成立したわけです。
この考え方は鉄に限りません。2 同位体以上ある元素なら、比が自然比と合うかどうかは常にタダで使える検証手段です。Cd(8 同位体)、Se(6 同位体)、Zn(5 同位体)では特に有効です。
2. セルのバイアスは「感度最大」に合わせるとは限らない
多くのチューニングは分析種の信号が最大になる点を探します。ですが反応モードでは、それが最適とは限りません。
French らの論文は、この点を明確に言っています ― 従来の研究は分析種の透過率を最大化するようにバイアスを調整してきたが、分析種/干渉の組み合わせによっては、たとえ分析種の信号が下がっても、干渉の分離に有利な生成イオン分布になる点にバイアスを合わせたほうがよい、と。
7 節 (b) の Thermo の実測(感度 4.4 分の 1 で検出下限 2.1 倍)と、まったく同じ構図です。最適化の目的関数を「感度」から「BEC」に置き換える。 これは反応モードを使いこなすうえでの発想の転換点だと思います。
3. 二つの遷移を同時に測ると、背景の正体が分かる
Agilent のハンドブックに、探偵仕事のような一節があります。高純度塩酸3ロットで砒素の背景を測ったところ、次のようになりました。
| 遷移 | ロット A | ロット B | ロット C |
|---|---|---|---|
| 75 → 75 | 509.3 | 508.4 | 612.7 |
| 77 → 77 | 133.5 | 126.0 | 130.0 |
| 75 → 91(AsO+) | 584.4 | 1172.6 | 3175.6 |
| 77 → 93 | 2.5 | 1.9 | 2.6 |
75 → 75 と 77 → 77 はロットが変わってもほぼ一定。ところが 75 → 91 だけが 5 倍以上ばらつく。
ここで 40Ar37Cl+ の寄与を使います。77 → 93 の信号がすべて 40Ar37Cl 由来だと仮定して 35Cl/37Cl 比から換算すると、75 → 91 に対する ArCl の寄与は わずか 7 〜 8 cps と見積もられます。実測値の 2 桁下です。
つまり 75 → 91 の変動は干渉ではなく、塩酸ロットに実際に含まれる砒素の量そのもの。 マスシフト側の背景が「装置由来か、試薬由来か」を、追加の実験なしに分離できています。
この手口は一般化できます。同位体が複数ある元素では、干渉を受ける遷移と受けない遷移を同時に取得しておく。 後から背景の正体を問われたときに答えられます。
4. 局方の CeO+/Ce+ チェックを、儀式で終わらせない
0 節に戻ります。毎朝の性能確認で酸化物生成比を記録しているなら、その数字はその日の希土類干渉の大きさそのものです。0.5 % の日と 2.5 % の日では、Gd の見かけの上乗せが 5 倍違う。
土壌・食品・地質・磁性材料など希土類を含む試料を扱うラボでは、この値を「合否」ではなくトレンドとして見る価値があります。上がってきたらトーチやコーン、サンプリング深さ、キャリアガス流量を疑う。合格ラインぎりぎりで運用しているなら、それは 0 節の計算をそのまま背負っているということです。
まとめ
- 局方〈2.63〉が置く CeO+/Ce+ ≤ 0.03 は、セリウムがガドリニウムの 13.0 % に化けることを許す数字(筆者計算)。Ce2+/Ce+ ≤ 0.05 は、ガドリニウムがセレンの 4.3 % に化けることを許す。MRI 造影剤投与後の血清を想定すると、セレン真値の 17 〜 86 倍に達しうる。
- 干渉は同重体・多原子イオン・二価イオンの3種。セルが効くのはスペクトル干渉だけで、マトリックス干渉(非スペクトル干渉)は内標準法・標準添加法・希釈の領域。
- 分解能では届かない相手がいる。 ArO+/56Fe は R = 2,502 で磁場型の中分解能で解けるが、MoO+/111Cd は 32,415、40Ar+/40Ca は 192,260(いずれも筆者計算)。質量の軸で解けないなら、化学の軸に移すしかない。
- He KED は質量ではなく衝突断面積で分けている。 だから単原子イオンである二価イオンには効かず、条件によってはむしろ悪化する(Agilent 2026)。それでも全多原子イオンに効く汎用性から、既定モードの座は動いていない。
- 反応モードは オンマス(干渉種を動かす)と マスシフト(分析種を動かす)の二択。どちらが成立するかは反応エンタルピーの符号で決まる(Se++O は +0.69 eV の吸熱、Gd++O は −2.39 eV の発熱)。
- Q1 を足す意味は感度でも分解能でもなく、「セルに入る前に質量を決める」こと。 As を m/z 91 へ動かしたときの 91Zr、Co マトリックスでセル内生成する CoO2+(同じ m/z 91)を、Q1 だけが止められる。
- 動かすのは分析種とは限らない。 Au・Hg・Cd は酸素と反応せず 57 〜 62 % がその場に残り、干渉側の Ta・W・Mo は大半が MO2+ まで進んで立ち去る(筆者計算、Agilent 70 元素データより)。
- 代償は感度。O2 マスシフトで残るのは元の 15 〜 63 %。ただし 感度が高いモードが良いモードとは限らない ― Thermo の実測では感度 4.4 分の 1 のモードのほうが検出下限が 2.1 倍良い(筆者計算)。見るのは BEC と検出下限。
- 2026 年 6 月、Agilent は 9500 ICP-QQQ を投入。実験室の空気(O2 21 % がリアクション、N2 78 % が熱的緩和)をセルガスにする Air cell と Advanced Helium Mode で、ボンベなしの干渉低減と取得時間 33 % 以上の短縮を掲げる。
未確認・限界
- 磁場型 ICP-MS の分解能と感度のトレードオフについて、定量値の一次資料を取り切れていません。 本記事は「R ≈ 300 / 4,000 / 10,000(10 % 谷定義)の3段」という公称値(大学共同利用施設の装置紹介ページ)と、「高分解能側では透過率が落ちる」という定性的な記述にとどめました。「高分解能モードでは感度が 1 〜 2 % になる」といった具体的な数値は、メーカー仕様書の原文を確認できなかったため本文に入れていません。
- 必要分解能の表(2 節)は筆者が核種質量から計算したもので、メーカー資料の表と 1 〜 2 % 程度ずれることがあります。分解能の定義(10 % 谷か半値幅か)によっても必要値は変わります。
- 0 節の「Gd が Se の 4.3 %」「真値の 86 倍」は、Gd2+/Gd+ に局方の Ce 基準(5 %)を当てはめた上限側の見積もりです。 Gd の第二イオン化エネルギー(12.09 eV)は Ce(10.85 eV)より高く、実際の二価生成比はこれより低いはずです。実機での Gd2+/Gd+ 実測値は取れていません。
- 7 節 (a) の感度比は、Agilent が「元素ごとに最適化していない共通条件での比較」と明記しているデータからの計算です。 個別にチューニングすれば各元素の生成イオン感度は上がります。絶対値ではなく傾向として読んでください。
- PerkinElmer・島津製作所・Analytik Jena などの現行機の仕様は本記事では扱っていません。 Agilent と Thermo Fisher の一次資料しか確認できていないためで、他社が劣るという意味ではありません。
- Agilent 9500 の性能値(取得時間 33 % 以上短縮など)はメーカー発表値で、第三者による検証結果は現時点で確認できていません。
- 局方〈2.63〉の引用は第十九改正日本薬局方(令和8年4月10日適用)の一般試験法によります。改正で条文が変わる可能性があります。
用語集
- コリジョン・リアクションセル(CRC) ― プラズマと質量分離部の間に置かれた、ガスを導入できる多重極の部屋。衝突(コリジョン)または化学反応(リアクション)で干渉を処理する。
- ICP-QQQ / ICP-MS/MS ― 四重極 → セル → 四重極の構成を持つ三連四重極 ICP-MS。セルの前後に質量フィルターがある。
- KED(運動エネルギー弁別) ― セル出口に電位障壁を置き、衝突でエネルギーを失ったイオンを止める方式。分けているのは質量ではなく衝突断面積(大きさ)。
- オンマスモード ― 干渉種を反応で除き、分析種を元の m/z のまま測る方式。
- マスシフトモード ― 分析種を反応生成イオン(MO+ など)に変えて、別の m/z で測る方式。
- BEC(バックグラウンド等価濃度) ― 背景信号を濃度に換算した値。「見かけ上この濃度があるように見える」量。検出下限と並ぶ実務指標。
- 多原子イオン ― 2 個以上の原子からなるイオン。ArO+、Ar2+、ClO+ など。プラズマとマトリックスが必然的に作る。
- 二価イオン(M2+) ― 電子を 2 個失ったイオン。m/z が質量数の半分の位置に現れる。
- 同重体 ― 質量数が同じ別元素(114Cd と 114Sn など)。質量分解能でもセルでも分けにくい。
- 酸化物イオン生成比 ― CeO+/Ce+ のような、プラズマ中でできる酸化物の割合。装置の調子の指標であり、同時に希土類干渉の大きさそのもの。
- オクトポールバイアス ― セル内の多重極に掛ける直流電圧。セルに入るイオンの運動エネルギーを決める。反応の起き方を左右する主要パラメータ。
- エネルギーディスクリミネーション ― セル出口の電位障壁。コリジョンモードでは正、反応モードでは負に設定することが多い。
出典
規格・公定法
- 厚生労働省「第十九改正日本薬局方」(令和8年4月10日厚生労働省告示第193号)一般試験法〈2.63〉誘導結合プラズマ質量分析法 — https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/001689414.pdf
- 独立行政法人医薬品医療機器総合機構「日本薬局方(規格・基準)」 — https://www.pmda.go.jp/rs-std-jp/standards-development/jp/0260.html
メーカー一次資料
- Agilent Technologies「Air Cell Mode of the Agilent 9500 ICP-QQQ with Dual-Cell System — Simple and effective interference reduction using ambient air」Technical Overview, DE-012983(2026年6月1日発行) — https://www.agilent.com/library/technicaloverviews/public/te-dcs-air-cell-9500-icp-msms-5994-8987en-agilent.pdf
- Agilent Technologies「Agilent Unveils the 9500 ICP-MS: Redefining Trace Element Analysis」プレスリリース(2026年5月22日) — https://www.investor.agilent.com/news-and-events/news/news-details/2026/Agilent-Unveils-the-9500-ICP-MS-Redefining-Trace-Element-Analysis/default.aspx
- Agilent Technologies「Dual-Cell System with Advanced Helium Mode and Air Cell Technology」 — https://www.agilent.com/en/product/atomic-spectroscopy/inductively-coupled-plasma-mass-spectrometry-icp-ms/dual-cell-system-advanced-helium-mode-air-cell-technology
- Naoki Sugiyama, Kazumi Nakano(Agilent Technologies, Japan)「Reaction data for 70 elements using O2, NH3 and H2 gases with the Agilent 8800 Triple Quadrupole ICP-MS」Technical note
- 「Handbook of ICP-QQQ Applications using the Agilent 8800 and 8900」4th Edition, Agilent publication 5991-2802EN(Agilent のアプリケーションライブラリで配布。本記事は同ハンドブック本文を参照した)
- Marcus Manecki, Daniel Kutscher, Shona McSheehy Ducos(Thermo Fisher Scientific, Bremen)「Accurate measurement of elemental impurities in metals and metal alloys using the Thermo Scientific iCAP TQ ICP-MS」Application Note 43404
査読論文
- David P. Bishop, Dominic J. Hare, Fred Fryer, Regina V. Taudte, Barbara R. Cardoso, Nerida Cole, Philip A. Doble「Determination of selenium in serum in the presence of gadolinium with ICP-QQQ-MS」Analyst, 2015, 140, 2842–2846. DOI: 10.1039/c4an02283a(オープンアクセス)
- Amanda D. French, Kali M. Melby, Kirby Hobbs, Richard M. Cox, Greg Eiden, Eric W. Hoppe, Isaac J. Arnquist, Khadouja Harouaka(Pacific Northwest National Laboratory)「The importance of ion kinetic energy for interference removal in ICP-MS/MS」 — https://www.osti.gov/servlets/purl/2322387
分析受託・公的機関
- DNP分析センター(旧・宇部興産分析センター)「ICP-MS/MSによる超純水中の硫黄の高感度分析」 — https://www.dnp-sci-analysis-ctr.co.jp/documents/i379_127.htm
- University of Southampton, Ocean and Earth Science「High Resolution ICP-MS: Thermo ELEMENT 2XR」(磁場型の分解能モード) — https://www.southampton.ac.uk/oes/research/facilities/high_resolution_icpms_thermo_element_2xr.page
- University of Cambridge, Department of Earth Sciences「Element XR ICP-MS」 — https://www.esc.cam.ac.uk/resources/facilities/equipment-and-instruments/element-xr-icp-ms
核種質量は NIST/AME の評価値、同位体存在度は IUPAC の推奨値を用いて筆者が計算しました。
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