GC-MSの選び方 ― EIライブラリは1化合物1.1スペクトルで足りるのに、MS/MSは47スペクトル要る【2026年版】
質量分析

GC-MSの選び方 ― EIライブラリは1化合物1.1スペクトルで足りるのに、MS/MSは47スペクトル要る【2026年版】

シングル四重極の GC-MS と、三連四重極の GC-MS/MS。カタログを並べると後者が全面的に優れて見える。 だが NIST が公開している二つのライブラリの数字を並べると、そう単純ではないことが分かる。 EI ライブラリは 394,054 スペクトルで 347,100 化合物、MS/MS ライブラリは 240 万スペクトルで 51,505 化合物。 スペクトル数では MS/MS が 6.1 倍多いのに、化合物数では EI が 6.7 倍多い。 1化合物あたりに直すと、EI は 1.1 スペクトルで足りるのに MS/MS は 46.6 スペクトル要る ―― 41 倍である。 この非対称は 70 eV という単一条件に由来し、そのまま「知らない化合物を当てられるか」の差になる。 本記事は NIST のライブラリ統計と EPA Method 8270E の条文を原典で確認し、 MRM が何を手放す操作なのかを、公定法の中での扱いの違いまで含めて整理する。

GC-MS を更新するとき、たいてい最初に突き当たる分岐がこれである。シングル四重極にするか、三連四重極(MS/MS)にするか。

カタログを並べると、答えは明らかに見える。MS/MS は選択性が高く、マトリックスの中から目的成分を取り出せ、定量下限が下がる。価格と保守費用を別にすれば、上位互換に見える。

だが、NIST が公開している二つのライブラリの数字を並べると、話はそう単純ではなくなる。

EI ライブラリ MS/MS(タンデム)ライブラリ
スペクトル数 394,054 240 万
化合物数 347,100 51,505
1化合物あたりのスペクトル数 1.1 46.6

スペクトル数では MS/MS が 6.1 倍多いのに、化合物数では EI が 6.7 倍多い。(比は筆者による計算)

この逆転が、本記事の芯である。MS/MS のライブラリは「深いが狭い」。EI のライブラリは「浅いが広い」。そして実務で効いてくるのは、たいてい広さのほうである ―― 知らない化合物が出てきたとき、当てられるかどうかを決めるのは化合物数だからである。

この非対称には明確な原因がある。EI は 70 eV という単一条件に固定されているが、MS/MS のスペクトルは前駆イオンの種類と衝突エネルギーと装置形式で変わる。だから MS/MS では1化合物あたり何十枚も要る。

本記事は、この数字の意味をほどいたうえで、MRM に移るとは何を手放す操作なのかを、公定法(EPA Method 8270E)の条文まで降りて確認する。

この記事の読み方:1〜2節は二つの装置が何をしているかと、芯になるライブラリの数字です。3〜4節がその理由で、ここが本題。5〜8節は公定法の中での扱いの違い、9〜10節は実務の判断です。専門用語は初出時に短く補足します。

用語補足:EI(電子イオン化)は、気化した分子に電子を当ててイオン化する方式。GC-MS の標準で、通例 70 eV で行う。SIM(選択イオンモニタリング)は、スキャンせず特定の m/z だけを見続ける測定法。MRM(多重反応モニタリング、SRM とも)は、前駆イオンを Q1 で選び、衝突室で壊し、生成イオンを Q3 で選ぶ測定法。保持指標(RI)は、n-アルカンを基準にした保持時間の相対尺度で、装置をまたいで比較できる。

1. 二つの装置は、同じものを測っていない

シングル四重極はフルスキャンで全部の m/z を順に掃くか、SIM で特定の m/z だけを見続ける。三連四重極は Q1 で前駆イオン、Q3 で生成イオンを選ぶため、前駆イオンと生成イオンの両方を先に決めておかなければ動かない
図解:フルスキャンは決めずに記録し、MRM は決めたものだけを見る

まず構成を確認する。

シングル四重極は、四重極が1本である。イオン源で作ったイオンを四重極に通し、全部の m/z を順に掃く(フルスキャン)か、特定の m/z だけを見続ける(SIM)かを選ぶ。

三連四重極(MS/MS)は、四重極が3本ある。Q1 で前駆イオンを選び、Q2(衝突室)でガスに当てて壊し、Q3 で生成イオンを選ぶ。この「選ぶ→壊す→選ぶ」の組を MRM トランジションと呼ぶ。

ここで押さえるべき点は一つである。MRM は、前駆イオンと生成イオンの両方を先に決めておかなければ動かない。決めていないものは、そこに居ても記録されない。

対してフルスキャンは、何が出てくるかを決めずに全部記録する。後から「この時間に何か出ていた」と気づいて、そのスペクトルをライブラリにかけられる。

この差が、ライブラリの差として数字に現れる。

2. 記事の芯 ― NIST の二つのライブラリは、形が違う

EI ライブラリは化合物数 347,100・スペクトル数 394,054 で1化合物あたり 1.1 スペクトル、MS/MS ライブラリは化合物数 51,505・スペクトル数 240 万で1化合物あたり 46.6 スペクトル。EI は浅いが広く、MS/MS は深いが狭い
図解:スペクトル数では MS/MS が多いのに、化合物数では EI が多い

NIST(米国国立標準技術研究所)は EI ライブラリとタンデム(MS/MS)ライブラリを別々に整備している。2023 年版(NIST 23)の規模を、NIST 自身が ASMS 2023 で出したポスターから引く。

EI ライブラリ

394K Electron Ionization (EI) Spectra 347,100 Compounds, 46,954 Replicate Spectra 40 K More Compounds than NIST 20

タンデム(MS/MS)ライブラリ

The NIST23 Tandem Mass Spectral Library contains 2.4 million high- and low- resolution mass spectra of 51,505 compounds including over 11,000 plant metabolites and natural products (NIST23 タンデム質量スペクトルライブラリは、11,000 を超える植物代謝物・天然物を含む 51,505 化合物の高分解能・低分解能スペクトル 240 万枚を収載する)

ここで、EI 側の数字は検算できる(筆者による計算)。

347,100 化合物 + 46,954 レプリケートスペクトル = 394,054

ポスターが別に掲げる「394K スペクトル」と一致する。つまり EI ライブラリは、1化合物につき原則1枚で、そこに1割強のレプリケート(同一化合物の別測定)が足されているだけということである。

二つを並べ直すと、こうなる(筆者による計算)。

EI MS/MS 比
スペクトル数 394,054 2,400,000 MS/MS が 6.1 倍
化合物数 347,100 51,505 EI が 6.7 倍
1化合物あたり 1.135 46.6 MS/MS が 41 倍

MS/MS は、1化合物を登録するのに 47 枚近いスペクトルを要する。だから総スペクトル数は多いのに、カバーできた化合物は 5 万件で頭打ちになっている。

3. なぜ EI は1化合物1枚で足りるのか ― 70 eV という取り決め

この非対称は、装置の優劣ではなく条件の数から来る。

EI では、電子のエネルギーを 70 eV に固定するのが世界共通の取り決めになっている。この値は「そこで感度が最大になるから」という実用上の理由で選ばれたもので、その一点に固定したことで、装置が違ってもメーカーが違ってもほぼ同じスペクトルが出るようになった。だから1化合物につき1枚登録すれば、世界中のどの GC-MS でも照合できる。

公定法もこの前提で書かれている。EPA の Method 8270E(半揮発性有機化合物の GC/MS 法、Revision 6, 2018年6月)は、装置要件をこう定める。

…mass spectra from mass/charge (m/z) 35 to 500 at a rate fast enough to acquire at least 5 (but preferably 10 or more) mass spectra across each chromatographic peak of interest, using 70 volts (nominal) electron energy in the electron impact ionization mode. (…m/z 35 から 500 までの質量スペクトルを、目的のクロマトピーク1本につき少なくとも5枚(できれば10枚以上)取得できる速さで、電子衝撃イオン化モードで公称 70 ボルトの電子エネルギーを用いて取得する)

「70 volts (nominal)」が条文に直接書かれている。この一行があるおかげで、ライブラリという共有財産が成立している。

一方、MS/MS のスペクトルは、同じ化合物でも次の三つで変わる。

  • 前駆イオンの種類(どのイオンを Q1 で選んだか)
  • 衝突エネルギー
  • 装置形式(三連四重極か、イオントラップか、Q-TOF か、HCD か)

NIST のタンデムライブラリのポスターにも、1枚ごとに「Precursor type」「Instrument type」「Collision energy」が併記されている。条件が3軸に広がっているので、1化合物あたり数十枚が必要になる。47 枚という数字は、この掛け算の結果である。

EI の広さは、条件を1つに固定したことの対価として得られている。

4. MRM は「測ると決めたもの」しか測らない

EPA 8270E のスキャン範囲 m/z 35〜500 は幅 465 u で、フルスキャンでは1つの m/z に配分される時間は 1/465。SIM で3イオンだけを見るなら 1/3 になり、155 倍の時間を配分できる
図解:感度の差の大部分は、どれだけの時間その m/z を見ていたかで説明がつく

では、MS/MS は何と引き換えに選択性を得ているのか。

MRM では、Q1 が前駆イオンを1つに絞り、Q3 が生成イオンを1つに絞る。マトリックス由来のイオンは、たまたま同じ前駆→生成の組を持たない限り通れない。これが選択性の正体である。

同時に、感度も上がる。理由は滞留時間(dwell time)にある。EPA 8270E が定めるスキャン範囲 m/z 35〜500 は幅 465 u なので、フルスキャンでは1つの m/z に滞在できるのは全体の 465 分の 1 にすぎない。SIM で3イオンだけを見るなら、1イオンあたり3分の1である(筆者による計算。走査の折り返しなどの時間は無視した単純計算)。

測定法 1イオンに配分される時間の割合 フルスキャンとの比
フルスキャン(m/z 35〜500) 1/465 1
SIM(3イオン) 1/3 155 倍
SIM(5イオン) 1/5 93 倍

感度の差の大部分は、検出器の性能ではなく「どれだけの時間その m/z を見ていたか」で説明がつく。MRM も同じ構造で、トランジションの数を増やせば1つあたりの時間は減る。

そして、ここが本記事の要点である。

フルスキャンは「何が出てくるか決めずに全部記録する」。MRM は「決めたものだけを、決めた時間だけ見る」。後者で感度と選択性を買い、前者で捨てていた時間を取り戻している。買っているものがある以上、手放しているものもある ―― それが2節のライブラリである。

EPA 8270E は、SIM について用途をはっきり限定して書いている。

Selected ion monitoring (SIM) or chemical ionization (CI) mass spectrometry are acceptable techniques for applications requiring quantitation limits below the normal range of electron impact mass spectrometry or to reduce interferences from the sample matrix. (選択イオンモニタリング(SIM)または化学イオン化(CI)質量分析は、電子衝撃質量分析の通常の範囲より低い定量限界を要する用途、または試料マトリックスからの妨害を減らす用途に対して、容認できる技術である)

「低い定量限界が要る」か「マトリックスの妨害を減らす」か。この二つのどちらかに当てはまらないなら、スキャンを捨てる理由はない、と読める書き方である。

5. 公定法は、どちらを前提に書かれているか

EPA 8270E はイオントラップに「NIST ライブラリと一致するスペクトルを出せること」を課し、MS/MS には「目的とする標的分析種についてトランジションを回せること」を課している
図解:同じ公定法が、二つの装置に別の能力を求めている

EPA 8270E の装置の節を読むと、方法全体がフルスキャン EI を土台に設計されていることが分かる。

イオントラップを使う場合の条件はこうである。

An ion trap MS may be used if it is capable of axial modulation to reduce ion-molecule reactions and can produce electron impact like spectra that match those in the EPA/National Institute of Standards and Technology (NIST) library (or equivalent). (イオントラップ MS は、イオン-分子反応を減らす軸方向変調が可能で、かつ EPA/NIST ライブラリ(または同等品)のスペクトルと一致する電子衝撃様スペクトルを生成できる場合に使用してよい)

「NIST ライブラリと一致するスペクトルを出せること」が、装置を使ってよい条件そのものになっている。

そして方法はライブラリの保有まで求める。

A recent version of the EPA/NIST mass spectral library (or equivalent) should also be available. (EPA/NIST 質量スペクトルライブラリ(または同等品)の最近の版も利用可能であるべきである)

MS/MS についても使用は認められているが、書き方が違う。

An MS/MS detector may be used if the detector has the necessary pumps, collision cell, collision gases, and high-vacuum system capable of performing transitions in product ion scan mode or the selected reaction monitoring mode (SRM) for the target analytes of interest. (MS/MS 検出器は、必要なポンプ・衝突室・衝突ガス・高真空系を備え、目的とする標的分析種についてプロダクトイオンスキャンモードまたは SRM モードでトランジションを実行できる場合に使用してよい)

「for the target analytes of interest(目的とする標的分析種について)」という限定が付いている。イオントラップに課したのが「ライブラリと一致するスペクトルを出せること」だったのに対し、MS/MS に課しているのは「狙った分析種のトランジションを回せること」である。求められている能力が違う。

なお、GC/MS/MS は 8270E では本文ではなくオプションとして位置づけられている。

This method includes the optional use of an alternate carrier gas (hydrogen) and GC/MS/MS.

6. MS/MS に移ると、装置性能の確認方法が変わる

装置性能確認は、フルスキャンなら DFTPP という公定の共通物差しで行えるが、SRM に移るとメーカーが規定する質量精度および質量分解能の基準に置き換わる
図解:SRM に移ると、物差しの出どころが公的文書からメーカーの仕様書に移る

ここが、導入を検討する段階で見落とされやすい。

GC-MS の装置性能確認といえば DFTPP(デカフルオロトリフェニルホスフィン)のチューン判定である。8270E も初期検量の前に DFTPP 基準を満たすことを求めている。ところが条文には、こう書かれている。

NOTE: DFTPP tune checks are not appropriate for CI analysis or tandem MS analysis using SRM. However, the laboratory must demonstrate, prior to the ICAL, that the MS system achieves mass accuracy and mass resolution criteria specified by the instrument manufacturer for the perfluorotributylamine (PFTBA)… (注:DFTPP チューン確認は、CI 分析または SRM を用いるタンデム MS 分析には適切でない。ただし試験室は初期検量に先立ち、MS 系がパーフルオロトリブチルアミン(PFTBA)について装置メーカーが規定する質量精度および質量分解能の基準を達成することを示さなければならない)

SRM に移った瞬間、公定法が与えていた共通の物差し(DFTPP)が外れ、メーカーが規定する基準に置き換わる。

これは「基準が緩くなる」という話ではない。基準の出どころが、公的文書からメーカーの仕様書に移るという話である。実務上の帰結は二つある。

  • 装置間・試験室間で、同じ基準で確認したことを示しにくくなる。DFTPP のイオン存在比のように、誰が見ても同じ表で判定できる物差しが無くなる
  • 適格性評価の記録に「どのメーカーのどの基準に対する適合か」を書く必要が生じる。分光装置の適格性評価と波長校正 で扱ったのと同じ構図が、ここにもある

ちなみに同条文は、SIM についても DFTPP の代替を認めている(PFTBA やメーカー推奨のディテクターチェック)。スキャンから離れるほど、公定の物差しから離れていく。

7. 同定の基準そのものは、同じ土俵にある

照合する相手は自ラボで取得した参照スペクトルであってライブラリではない。±30 % の許容の中に、二次特性イオンと MS/MS トランジションが同居している
図解:EPA は二次特性イオンと MRM トランジションを同じ規則で扱う

一方で、同定の判定基準は MS/MS でも変わらない。8270E の定性同定の条項は、保持時間と参照スペクトルとの比較で書かれている。

11.6.1.1 The intensities of the characteristic ions of a compound must maximize in the same scan or within one scan of each other. (化合物の特性イオンの強度は、同一スキャン内、または互いに1スキャン以内で極大にならなければならない)

そして相対強度の許容がこれである。

11.6.1.3 The relative intensities of the qualifier ion(s) (i.e., secondary characteristic ions, or additional monitored MS/MS transitions) should agree within 30% of the relative intensities of these ions in the reference spectrum. For example, for a qualifier ion with response of 50% of the quantitation ion in the reference spectrum, the corresponding qualifier ion ratio in a sample mass spectrum can range between 20% and 80%. (クオリファイアーイオン(すなわち二次特性イオン、または追加で監視する MS/MS トランジション)の相対強度は、参照スペクトルにおけるそれらの相対強度と 30 % 以内で一致すべきである。例えば参照スペクトルで定量イオンの 50 % の応答を示すクオリファイアーイオンなら、試料スペクトルにおける比は 20 % から 80 % の範囲をとりうる)

EPA は「二次特性イオン」と「MS/MS トランジション」を同じ括弧の中に入れ、同じ ±30 % の規則を当てている。同定の論理としては、どちらも「もう一つ別の観測量が、期待どおりの比で出ているか」を見ているにすぎない。

ただし注意すべき一文が続く。

The reference mass spectrum used for this comparison should be generated by the laboratory using the conditions of this method (typically a mid-level calibration standard). (この比較に用いる参照質量スペクトルは、本法の条件を用いて試験室が自ら取得するべきである(通例、中濃度の検量標準))

標的分析の同定で照合する相手は、NIST ライブラリではなく自分のラボで測った標準品のスペクトルである。ではライブラリは何のためにあるのか ―― 標的リストに載っていないものが出てきたときのためである。2節の「広さ」が効くのはここであって、標的分析の日常業務ではない。この区別を取り違えると、ライブラリの価値を過大にも過小にも見積もる。

8. 保持指標という、もう一本の軸

EI ライブラリにはもう一つ、MS/MS 側にない資産がある。保持指標(RI)である。NIST 23 のポスターはこう掲げる。

492K Retention Index (RI) Values 153K RI Compounds with EI, >40 K Increase AI-RI Estimates for All EI Compounds

RI は n-アルカンを基準にした保持時間の相対尺度で、カラムの種類と昇温条件が揃えば装置をまたいで比較できる。スペクトルが似ている異性体を、溶出位置で切り分けられる。

数字で見ると、実測 RI を持つ化合物は 153,000 件で、EI ライブラリの化合物数 347,100 の 44.1 %(筆者による計算)。残りには AI による推定値(AI-RI)が付く。1化合物あたりの RI 値は 492,000 ÷ 153,000 = 3.2 件で、これはカラム極性や昇温条件の違う複数の測定が登録されているためである。

実務上の意味は明快である。ライブラリ検索のヒットを、保持時間でもう一度ふるいにかけられる。スペクトルの類似度だけで判断すると異性体で間違えるが、RI が大きく外れていれば落とせる。

8270E が保持時間に置く条件も厳しい。

11.6.1.2 The RT should be within ±10 seconds of the RT for this analyte in the CCV run at the beginning of the 12-hour period(delta RT 0.17 minute)

±10 秒=0.17 分。標的分析ではこの窓で切るので、保持時間は同定の一部として最初から組み込まれている。

9. 両方取る ― 同時 Scan/MRM と、その代償

同時 Scan/MRM は1回のサイクルをスキャンと MRM で分け合うため、スキャン側はスペクトル品質を、MRM 側は定量感度を手放す。ピークあたり5枚を割る設定は同定に使えない
図解:中間解はあるが、物理的に無料ではない

ここまで「MRM にするとスキャンを失う」と書いてきたが、現行機にはその中間がある。スキャンと MRM を1回の分析で交互に取得するモードで、島津は Scan/MRM、Agilent は dMRM/scan と呼ぶ。メーカーはこれを「ライブラリ検索可能なスペクトルと、低濃度の定量データを1回の分析で同時に得られる」と説明している。

ただし、これは物理的に無料ではない。4節の滞留時間の話がそのまま効く。1回のサイクルをスキャンと MRM で分け合う以上、どちらに配分した時間も、それぞれ単独で測ったときより短くなる。スキャン側はスペクトル品質(=ライブラリ検索の当たりやすさ)を、MRM 側は定量の感度を、それぞれいくらか手放している。

したがって、この機能の評価は「できる/できない」ではなく、自分の試料で、スキャン側がライブラリ検索に耐える品質を保てるかを実測して決めることになる。8270E が「ピーク1本につき少なくとも5枚、できれば10枚以上」と求める取得点数は、この判断の目安として使える ―― サイクルを分け合った結果、ピークあたりのスキャン数が5枚を割るなら、その設定は同定には使えない。

10. 分析者の視点 ― 決める順序

標的リストが固定されているか、感度が足りないのか選択性が足りないのか、ライブラリの広さが要るか、の順で判断し、装置性能確認の物差しが変わることを織り込む決定フロー
図解:決める順序。上から順に答えれば選択は絞れる

1. 「標的リストが固定されているか」を最初に問う。告示や公定法で測るものが決まっていて、5年後も同じなら MS/MS が効く。測るものが増え続ける、あるいは「何か出ていないか」を見る仕事が混ざるなら、スキャンを手放さないほうがよい。

2. 感度が足りないのか、選択性が足りないのかを切り分ける。8270E が SIM を認める条件は「定量限界が足りない」か「マトリックス妨害を減らす」である。前者だけが理由なら、シングル四重極の SIM で届く可能性がある(4節の滞留時間の比を見れば、SIM だけで2桁稼げる)。マトリックスの中から取り出す必要があるなら MS/MS。

3. ライブラリの広さが要る仕事かを確認する。標的分析の同定で照合する相手は自ラボの標準品であって、ライブラリではない(7節)。ライブラリが効くのは「リストに無いものが出たとき」だけである。その場面が年に何回あるかを見積もる。

4. 装置性能確認の物差しが変わることを、導入前に織り込む。SRM に移ると DFTPP が使えず、メーカー基準に置き換わる(6節)。適格性評価の SOP と記録様式を書き換える必要が出る。

5. 同時 Scan/MRM を当てにするなら、自分の試料で取得点数を実測する。ピークあたり5枚を割るなら、その設定でライブラリ検索をしてはいけない(9節)。

6. 保持指標を同定の軸に加える。RI はライブラリ検索のヒットを落とすのに使える(8節)。ただし実測 RI があるのは EI ライブラリ化合物の 44 % である。

7. 「上位互換」という言葉で選ばない。MS/MS はシングル四重極の上位ではなく、別の問いに答える装置である。問いが「これは何か」なら EI スキャン、「決めたものがどれだけあるか」なら MRM である。

まとめ

  • NIST の EI ライブラリは 394,054 スペクトル / 347,100 化合物、タンデムライブラリは 240 万スペクトル / 51,505 化合物。スペクトル数では MS/MS が 6.1 倍、化合物数では EI が 6.7 倍(2節)
  • 1化合物あたりでは EI が 1.1 枚、MS/MS が 46.6 枚。41 倍の差。EI 側は 347,100 + 46,954 = 394,054 と検算できる(2節)
  • 差の原因は条件の数。EI は 70 eV の一点に固定されており、EPA 8270E も「70 volts (nominal)」と条文に書く。MS/MS は前駆イオン・衝突エネルギー・装置形式の3軸で変わる(3節)
  • MRM は決めたものしか測らない。感度の差の大部分は滞留時間で説明でき、m/z 35〜500 のフルスキャンに対し SIM 3イオンなら 155 倍の時間を1イオンに配分できる(4節)
  • EPA 8270E は SIM を「定量限界が足りない」「マトリックス妨害を減らす」場合の技術と限定し、イオントラップには「NIST ライブラリと一致するスペクトルを出せること」を課す。MS/MS に課すのは「目的とする標的分析種についてトランジションを回せること」(4〜5節)
  • SRM に移ると DFTPP チューン確認が使えなくなり、メーカー規定の基準に置き換わる(6節)
  • 一方で同定基準は共通で、EPA は二次特性イオンと MS/MS トランジションを同じ ±30 % の規則で扱う。ただし照合相手は自ラボで取得した参照スペクトルであって、ライブラリではない(7節)
  • EI ライブラリには 492K の保持指標が付随し、実測 RI を持つのは EI 化合物の 44.1 %。スペクトル類似度の誤りを溶出位置で落とせる(8節)
  • 同時 Scan/MRM は中間解だが無料ではない。ピークあたりの取得点数が5枚を割るなら同定には使えない(9節)

用語集

  • EI(電子イオン化):気化した分子に電子を当ててイオン化する方式。通例 70 eV。条件が標準化されているため、スペクトルが装置をまたいで一致する。
  • 70 eV:EI の標準的な電子エネルギー。EPA 8270E は「70 volts (nominal)」と規定する。
  • フルスキャン:指定した m/z 範囲を順に掃いて全イオンを記録する測定法。ライブラリ検索ができる。
  • SIM(選択イオンモニタリング):特定の m/z だけを見続ける測定法。感度は上がるが、見ていない m/z の情報は残らない。
  • MRM / SRM:Q1 で前駆イオン、Q3 で生成イオンを選ぶ測定法。選択性が高いが、決めた組み合わせしか測れない。
  • トランジション:MRM における「前駆イオン → 生成イオン」の組。
  • 滞留時間(dwell time):1つの m/z(またはトランジション)にイオンを数える時間を配分する長さ。
  • DFTPP:デカフルオロトリフェニルホスフィン。GC-MS のチューン判定に使う標準物質。SRM 分析には適用されない。
  • 保持指標(RI):n-アルカンを基準にした保持時間の相対尺度。装置をまたいで比較できる。
  • クオリファイアーイオン:定量イオンとは別に監視し、比で同定を支える二次イオン。

未確認・限界

  • NIST タンデムライブラリの「240 万スペクトル」は概数である。NIST のポスターの記載が "2.4 million" なので、1化合物あたり 46.6 という値も有効数字はその程度にとどまる。EI 側(394,054 / 347,100 / 46,954)は実数が示されており、内部で検算も一致する。
  • NIST 23 は 2023 年版である。本記事執筆時点でこれ以降の版が出ている可能性があるが、NIST の公式ポスターとして数値を確認できたのは 2023 年版までだった。より新しい版では化合物数が増えているはずなので、本記事の比は保守的な側に外れる。
  • EI ライブラリと MS/MS ライブラリは収録方針が違う。EI は GC で測れる揮発性・半揮発性化合物が中心、MS/MS は LC で測る化合物も多く含む。したがって化合物数の比 6.7 倍は「GC-MS の土俵での比」ではない。GC-MS/MS 用に限ったトランジションライブラリの規模は、本記事では確認していない(各社が提供するメソッドデータベースが別に存在する)。
  • 4節の滞留時間の比は、走査の折り返し・イオン源の滞在時間・検出器の応答などをすべて無視した単純計算である。実機の感度差はこの比どおりにはならない。あくまで「差の大部分が時間配分で説明できる」ことを示すための計算である。
  • 9節の同時 Scan/MRM の性能は、メーカーの説明に基づく。実測データで検証していない。「ピークあたり5枚」を判断基準に使えるというのは、8270E の取得点数要件を転用した筆者の提案であって、メーカーや公定法がそう述べているわけではない。
  • GC-MS/MS の定量下限がシングル四重極 SIM に対して何倍下がるかという実測値は挙げていない。メーカーの公表仕様は測定条件(化合物・注入量・マトリックス)が機種ごとに違い、横並びで比較できる形で確認できなかった。カタログの感度表記が比較できない理由は 質量分析計の選び方 ― カタログの S/N 100 は、局方の式で計算し直すと 40 になる【2026年版】 の6節で扱っている。
  • EPA 8270E は米国の方法である。日本の告示試験法・薬局方における GC-MS/MS の位置づけは本記事では扱っていない。
  • イオントラップ型 GC-MS、および GC-Q-TOF などの高分解能 GC-MS は、選択肢として扱っていない。本記事はシングル四重極と三連四重極の二択に絞った。

出典

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