MRM(multiple reaction monitoring、多重反応モニタリング)のメソッド開発は、たいてい「感度を最大にする作業」として説明される。プリカーサーを選び、最も強いプロダクトイオンを選び、コリジョンエネルギーを振って強度のピークを探す。実際、装置の自動最適化ウィザードはそう動く。
だが、この作業には最大化してよい量がひとつもない。
- ドウェル時間を伸ばせば S/N は上がるが、サイクル時間が延びてピーク上の点数が減る
- 点数を稼ごうとドウェルを削れば、イオン統計が痩せて S/N が落ちる
- トランジションを増やせば同時監視数が増えて、その両方が同時に悪化する
- Q1 の分解能を上げれば選択性は上がるが、通過するイオンは減る
- 感度が最大のプロダクトイオンを選ぶと、しばしば選択性が最も低いイオンを選ぶことになる
SCIEX 自身の技術資料は、多重化を3倍にする方法を2つ並べて図示している ―― ドウェルを下げるか、サイクルを伸ばすか。前者はピークのサンプリングを保てるがデューティサイクルが落ち、後者はドウェルを保てるが「ピークのサンプリングが非常に悪くなる」。どちらを選んでも何かが壊れる、という図である。
本記事は、この綱引きの各辺がどれだけの大きさなのかを原典の数字で押さえ、装置の前で何をどの順に決めるかを整理する。バリデーションの受入基準は ICH M10 バイオアナリシス実務、マトリックス効果そのものの機構と対処は マトリックス効果とイオン化抑制の対処 で扱っているので、本記事は装置側のメソッド開発に絞る。
この記事の読み方
- 入門者:1〜3 節。MRM が何をしているのか、トランジションをどう選ぶのか。
- メソッドを作る人:4〜9 節が本題。CE、Q1分解能、ドウェルとサイクルの算術、点数問題。
- 多成分一斉分析をやる人:10〜11 節。スケジュール MRM とクロストーク。
- 急ぐ人:13 節のチェックリスト。
数値はすべて原典(規制文書 PDF・メーカーの技術資料本文)を開いて確認している。裏が取れなかったものは制作メモで明示した。
1. MRM は「感度が高い手法」ではなく「捨てる手法」である

トリプル四重極の MRM でやっていることは、突き詰めると三段階の絞り込みだ。
- Q1:設定した m/z のイオンだけ通す(それ以外は捨てる)
- Q2(コリジョンセル):通ったイオンを不活性ガスに衝突させて壊す
- Q3:生じた断片のうち、設定した m/z だけ通す(それ以外は捨てる)
つまり MRM は、イオンを増やす仕組みをひとつも持っていない。フルスキャンより「感度が高い」ように見えるのは、S(シグナル)が大きいからではなく、N(バックグラウンド)を大量に捨てているからである。MRM の感度の正体は選択性だ。
この理解が実務に効くのは、次の一点においてである ―― 選択性を犠牲にして得た感度は、感度ではない。強度が2倍のプロダクトイオンでも、そこにマトリックス由来の妨害が乗っていれば、定量値は妨害の分だけ狂う。しかも S/N の見かけは良いので、気づけない。
もうひとつ。Q1 と Q3 で捨てているぶん、同じ時間内に測れるトランジション数には上限がある。1本のトランジションを測っている間、他のトランジションは測っていない。MRM のメソッド開発が「時間の配分問題」になるのはこのためだ。
2. トランジションの選び方① ― 強度順に2本、ではいけない

多成分メソッドの作り方として最も広く行われているのは、プロダクトイオンスキャンを取って強度の高い順に2本選ぶ、というやり方である。自動最適化ソフトもそう提案してくる。
ところが、EU の残留農薬分析ガイドライン SANTE 11312/2021 v2 は、イオン選択について踏み込んだ条件を書いている。
「選択されたイオンは、分析種分子の同じ部分からのみ由来するものであってはならない」
「水の脱離や一般的な部分構造の脱離から生じる高質量の m/z イオンは、ほとんど役に立たないことがある」
これは強度の話ではなく独立性の話である。同じ官能基の脱離から生じた2本のイオンは、干渉に対して同じように振る舞う。片方が妨害を受ければ、もう片方も受ける。確認イオンが確認になっていないわけだ。
同ガイドラインは低質量側にも釘を刺している(m/z < 100 のような低質量イオンは選択性が低い)。一方で「特徴的な同位体イオン、特に Cl や Br のクラスターは特に有用でありうる」とも書いている。
したがってトランジション選択の実務的な順序は、強度順ではなくこうなる。
- 分子の異なる部分から生じる断片を2本以上探す
- そのうえで、マトリックス中で妨害の少ないものを選ぶ
- そのうえで、強度の高いほうを定量イオンにする
強度は3番目の基準である。
3. トランジションの選び方② ― イオン比 ±30% と、その但し書き

定量イオン(quantifier)と確認イオン(qualifier)を決めたら、次に来るのがイオン比による確認である。SANTE 11312/2021 v2 の Table 3 は、MS/MS(トリプル四重極、イオントラップ、Q-trap、Q-TOF、Q-Orbitrap)で SRM/MRM を使う場合の要件をこう定めている。
| 項目 | 要件 |
|---|---|
| 最低イオン数 | プロダクトイオン 2本 |
| 前駆体イオンの分離 | 単位質量分解能と同等かそれ以上 |
| ピーク形状 | 両プロダクトイオンの抽出イオンクロマトグラムのピークが完全に重なること |
| イオン比 | 同一シーケンスの検量線標準の平均に対し、相対 ±30% 以内 |
そして参照イオン比の取り方も指定されている(D9)。参照値は同じシーケンス・同じ条件で測定した溶媒標準の平均。マトリックス標準を使ってもよいが、その場合は当該イオンについて分析種の保持時間に干渉がないことを実証していることが条件になる。さらに、直線範囲を外れた応答は参照イオン比の算出から除外する。
ここまでは広く知られている。見落とされやすいのは、その直後に置かれた但し書きのほうだ。
「これらは識別のためのガイダンス基準とみなすべきであり、分析種の存在または不存在を証明する絶対基準ではない」(D8)
「許容幅を広げれば偽陽性の割合が高くなりうる。同様に、許容幅を狭めれば偽陰性の可能性が高くなる。Table 3 に示した許容幅は絶対的な限界と解釈すべきではなく、経験ある分析者による補完的な解釈を伴わずに、基準に基づく自動データ解釈のみに依拠することは推奨されない」(D10)
つまり ±30% は合否判定の閾値ではなく、目安である。イオン比が 31% ずれたから不適合、29% だから適合、という運用は、ガイドラインが明示的に推奨していない使い方になる。
なお D7 は、もっと基本的なことも要求している ―― 「イオンクロマトグラムが有意なクロマトグラフ干渉の証拠を示す場合、そのイオンを識別に用いてはならない」。イオン比が合っていても、ピーク形状が崩れていれば使えない。
4. コリジョンエネルギーとデクラスタリング電位 ― 化合物ごとに、装置ごとに

プロダクトイオンが決まったら、その収量を最大化するパラメータを振る。コリジョンエネルギー(CE)はコリジョンセルに入る前後の電位差で、ここが大きいほど衝突で受け取るエネルギーが増え、より深く壊れる。
CE の最適値は化合物の物理化学的性質に強く依存するため、化合物ごとに実測して決める以外にない。デクラスタリング電位(DP、メーカーによりフラグメンター電圧・コーン電圧などと呼ぶ)も同様で、こちらはイオン源から出た溶媒クラスターを外す電位である。DP が低すぎればクラスターが残り、高すぎればイオン源内で壊れてプリカーサーが減る。
ここで注意すべきは、最適 CE は「そのプロダクトイオンの収量が最大になる値」であって、「定量に最適な値」とは限らないという点だ。理由は前節と同じで、CE を上げて得た強い断片が、汎用的な脱離(水・アンモニア・一酸化炭素など)由来の低選択性イオンであることがしばしばある。
実務的な示唆をひとつ加えておく(以下は編集側の整理であり、特定の出典に基づく記述ではない)。CE を振ったときの2本のトランジションの応答比の安定性を見ておくと、CE のわずかなずれでイオン比が大きく動く組み合わせを事前に避けられる。そうした組み合わせは、装置間差や経時変化でイオン比判定を落としやすい。CE カーブの頂点より平坦な領域を選ぶほうが堅牢になる場面がある。
5. Q1 の分解能 ― 「単位分解能で干渉が見えない」は「干渉がない」ではない

トリプル四重極の Q1 は通常単位質量分解能(おおむね 0.7 Da FWHM)で動かす。これを絞ると選択性は上がるが、通過するイオンが減る。上げ下げのトレードオフとして理解されている。
このトレードオフの実際の大きさを測ったデータがある。Thermo Fisher のアプリケーションノート(Note 380、Kiyonami・Peterman・Miller)は、ヒト血清中の53タンパク質を対象に103本の SRM トランジションを、Q1 分解能を 0.7 / 0.4 / 0.2 FWHM と変えて測定した(Q3 は 0.7 FWHM 固定、TSQ Quantum Ultra、スキャン時間 2 ms と 20 ms)。
結果はこうである。
「Q1 分解能 0.4 または 0.7 FWHM では、監視した標的トランジションの 25% に有意な干渉が見られた」
「0.2 FWHM のデータは、監視した SRM トランジションの 25% に有意なマトリックス干渉が存在することを明らかにした」
単位分解能で測っていたときには、その 25% は見えていなかった。 高分解能にして初めて、そこに干渉が乗っていたことが分かったのである。しかも同ノートは、この改善が「信号強度のごくわずかな低下で達成された」と述べている。
ここから引き出せる実務的な含意は明快だ ―― 単位分解能できれいなピークが出ていることは、干渉がないことの証明にならない。血清のような複雑なマトリックスで、しかも低濃度域を攻めるメソッドを作るなら、開発段階で一度は Q1 を絞って比較しておく価値がある。定常運用を高分解能にするかどうかは別の判断だが、「見えていないだけ」の可能性を潰しておくのは開発者の仕事である。
同ノートはスキャン時間についても実測している。2 ms は 20 ms に比べてスキャン数が2倍得られ、信号強度の低下はわずかだった。そして「uHPLC に伴うような細いピーク幅では、2 ms のスキャン時間が必要になる」と結論している。ここが次節以降のテーマにつながる。
6. ドウェル・ポーズ・サイクルの算術
ここからは時間配分の話になる。用語を先に固定しておく。
- ドウェル時間:1本のトランジションを測っている時間
- ポーズ時間(インタースキャン遅延):次のトランジションへ切り替えるための時間。測定していない
- サイクル時間:リスト上の全トランジションを一巡する時間。1サイクル=クロマトグラム上の1点
- デューティサイクル:ある分析種を実際に測っている時間の割合
SCIEX のナレッジベースは、この関係を式で与えている。
サイクル時間 = トランジション数 ×(ドウェル時間 + トランジション間のポーズ時間)
逆に解くと:ドウェル時間 =(サイクル時間 ÷ トランジション数)− ポーズ時間
そしてポーズ時間は既定で 5 ms(同社機の場合)。示されている計算例はこうだ ―― サイクル時間 1.5 秒(1500 ms)でトランジション100本なら、
ドウェル時間 = (1500 / 100) − 5 = 10 ms
この式が実務で効くのは、ポーズ時間が「トランジション数に比例して積み上がる純粋な損失」だという点である。100本のメソッドなら、1サイクルあたり 500 ms がポーズに消える。サイクル時間 1500 ms のうち 3分の1が測定していない時間ということになる。
デューティサイクルについて、SCIEX の技術資料はこう定義している。
「デューティサイクルはドウェル時間に比例し、同時監視される MRM の数に反比例する。同時 MRM トランジションを増やして多重化を上げると、分析の再現性が低下しうる。したがって、同時 MRM トランジション数を最小化することが重要である」
「トランジションの総数」ではなく「同時に監視している数」が効く、というのがここでの要点だ。10 節のスケジュール MRM は、まさにこの量を下げるための仕組みである。
7. 「1ピーク何点」問題 ― 6〜8点と10点と15点は矛盾していない

ピーク上のデータ点数について、現場で流通している数字はばらばらである。実際、メーカーの公開資料でも数字が食い違う。
| 出典 | 記述 |
|---|---|
| SCIEX 技術資料(Scheduled MRM Algorithm Pro) | 「半値幅で最低 6〜8 点のサンプリングレートを与えるサイクル時間が、LC ピーク積分に最適」 |
| 島津 Technical Report C146-E148A | 「再現性のある滑らかなピーク形状を得るには、1ピークあたり最低10点が必要」 |
| SCIEX アプリケーションノート(Fast LC) | 32本のトランジションのドウェル時間を「1ピークあたり最低15点」になるよう調整 |
6〜8 と 10 と 15。3倍近い開きがある。だが、これは矛盾ではなく単位の違いである。SCIEX の 6〜8 点だけが「半値幅で」と明記していることに注意したい。
ガウス型ピークで換算してみる。半値全幅は FWHM = 2.3548σ、接線法によるベース幅は W = 4σ なので、
W / FWHM = 4 / 2.3548 = 1.70
つまり半値幅で 6〜8 点は、ベース幅で 10〜14 点にあたる。島津の「1ピーク最低10点」とも、SCIEX 自身の「15点」ともほぼ整合する(ベース幅を 5σ で定義すれば 12〜17 点になり、15点にさらに近づく)。
3つの数字は同じことを言っている。 違うのは、どの幅で数えているかだけである。
したがって、この話題で最初に確認すべきなのは点数そのものではなく、「どの幅で数えた点数か」である。半値幅基準の 6〜8 という数字を、全幅に対して適用してしまえば、実際には 1.7 倍のサンプリング不足になる。逆に全幅基準の 15 点を半値幅に適用すれば、必要のないところでサイクル時間を締め上げることになる。
8. 点数が足りないと何が壊れるか ― 実測 %RSD

「点数が足りないと精度が落ちる」は定性的にはよく言われるが、どれだけ落ちるのか。島津の技術報告 C146-E148A が、正負イオン切替を伴う MRM 測定で実測値を示している。
| 条件 | ドウェル | ポーズ | 極性切替 | %RSD |
|---|---|---|---|---|
| 従来型 LC/MS/MS (a) | 5 ms | 5 ms | 500 ms | 36.87% |
| 従来型 LC/MS/MS (b) | 5 ms | 5 ms | 20 ms | 4.62% |
| LCMS-8030 (c) | 3 ms | 1 ms | 15 ms | 2.20% |
同図には「取得点数/ピーク:4〜5点」と「同:10点」が併記されている。
注目すべきは (a) と (b) の差である。ドウェルもポーズも同じで、違うのは極性切替時間だけ。それだけで %RSD が 36.87% から 4.62% へ、8倍改善している。切替に 500 ms を取られると、その時間はまるごとサイクル時間に乗り、ピーク上の点数が削られる。測定していない時間が精度を壊しているわけだ。
同報告は点数と形状の関係も明言している。
「再現性のある滑らかなピーク形状を得るには、1ピークあたり最低10点のデータ点が必要である。取得点数が 4〜5点しかない場合、真のピーク形状から大きく乖離する。ピーク形状の歪みが起きるだけでなく、クロマトグラム自体の再現性が低下し、定量結果と感度に悪影響を及ぼす」
%RSD 36.87% という数字は、バリデーションの受入基準(ICH M10 の真度・精度は原則 ±15%)を大きく超える。サンプリング不足は、前処理やイオン化を何ひとつ間違えていなくても、単独でメソッドを不合格にできる。
9. 多重化の三択 ― 何を壊すかを選ぶだけ
ここまでの各辺を1枚にまとめたのが、SCIEX の技術資料が示す「多重化を上げる方法」の比較である。同資料の図は、次の3条件を並べている。
- A:従来のやり方 ―― 全 LC ラン中で固定ドウェル・固定サイクル。ピークのサンプリングは良好。
- B:ドウェル時間を下げて多重化を3倍にする ―― 「ピークのサンプリングは良好に保たれるが、ドウェル時間とデューティサイクルが損なわれる」
- C:サイクル時間を伸ばして多重化を3倍にする ―― 「ドウェル時間は維持できるが、ピークのサンプリングが非常に悪くなる」
同資料は端的にこう書いている ―― 「ドウェル時間を減らし、サイクル時間を合理的な範囲を超えて延ばすと、データ品質は著しく損なわれうる」。
B と C は、それぞれ 6 節(イオン統計)と 8 節(サンプリング)の破綻に対応している。多重化を上げるとき、分析者が選んでいるのは「どちらを壊すか」であって、「壊さない方法」ではない。 壊さずに済ませたければ、そもそも同時監視数を減らすしかない ―― それが次節である。
10. スケジュール MRM ― 本質は「同時監視数を下げること」

スケジュール MRM(dynamic MRM、timed MRM などメーカーにより呼称が異なる)は、各トランジションを、その分析種が溶出すると期待される時間帯の前後だけ監視する仕組みである。
効果の本質は「トランジションを速く測れるようになる」ことではない。SCIEX の説明どおり、
「この MRM スケジューリングは、任意の時点で同時監視される MRM の数を減らし、高度な多重化においてもサイクル時間とドウェル時間の両方を最適な水準に保つことを可能にする」
6 節で見たとおり、デューティサイクルを決めるのは総数ではなく同時監視数だった。スケジュール MRM はそこを直接叩く。同資料によれば、この仕組みにより 最大 4000 本の MRM トランジションを1メソッドで走らせられる。
設定に必要な入力は4つだけである。
- MRM トランジション(Q1 と Q3 の質量)
- 期待保持時間
- MRM 検出ウィンドウ ―― LC ピークの継続時間
- ターゲットスキャン時間 ―― 実質的にサイクル時間
そして、スケジュール MRM の唯一かつ最大の弱点は保持時間の変動である。ウィンドウを外れれば、そのピークは部分的に、あるいは丸ごと取り逃がされる。同資料はこの弱点への対処を2つ挙げている。
- 可変ウィンドウ幅 ―― 分析種ごとに個別のウィンドウ幅を割り当てる。「既定の MRM 検出ウィンドウは 10 秒に設定されていたが、この化合物では既定値を 60 秒で上書きした」という例が示されている。run 間のばらつきが大きい、あるいはピーク幅が広い分析種に、広いウィンドウを与える。
- 動的ウィンドウ拡張 ―― 保持時間が動いたときにウィンドウを自動で広げる。
ウィンドウを広く取れば取り逃がしは減るが、同時監視数が増えるので 6 節のトレードオフに戻ってくる。ここでも最大化してよい量はない。
なお、同資料はもう一段の節約手段として MRM トリガー MRM を挙げている。主トランジションを常時監視し、その強度が閾値(例では 300 cps)を超えたときだけ副トランジションを測る方式で、確認イオンのために払うコストを、ピークが出ている間だけに限定できる。
11. クロストーク ― 同じプロダクトイオンを持つ2本に注意

サイクル時間を詰めていくと、もうひとつ別種の問題が顔を出す。クロストークである。
島津の技術報告 C146-E148A は、その機構をこう説明している。
「コリジョンセル内の不活性ガスとの衝突で生成したプロダクトイオンは、セル出口へ向かって移動する。しかしこの過程でイオンは減速するため、次のドウェル時間(測定)が始まった後も、出口への移動がまだ続いている部分がある。これらの残留プロダクトイオンが Q3 を通過して検出器に到達すると、進行中の測定のプロダクトイオンとして誤って検出される。この現象をクロストークと呼び、定性・定量の結果と感度に悪影響を及ぼす」
そして重要な一文がこれである。
「高速分析用に設計されていない装置では、デューティサイクルが低下するにつれてクロストークが増大する」
つまりクロストークは、サイクル時間を詰めるほど悪化する。7〜9 節で「点数を稼ぐためにドウェルとポーズを削る」方向に最適化していくと、その先に待っている落とし穴がこれだ。
危険なのは、異なるプリカーサーから同じ(あるいは近い)プロダクトイオンを見ている2本のトランジションを、リスト上で隣接させることである。代表例は分析種と、その安定同位体標識内標準(SIL-IS)の組み合わせで、プロダクトイオンが共通になることが珍しくない。前のトランジションの残留イオンが、次のトランジションのクロマトグラムにゴーストピークとして現れる。
各社ともコリジョンセルからイオンを押し出す機構(島津の UFsweeper、SCIEX の LINAC など)を入れてこれを潰しており、島津は LCMS-8030 のポーズ時間 1 ms を達成したと述べている。SCIEX も LINAC コリジョンセルにより「非常に短いドウェル時間(5 ms 以下)が使用可能」としている。
実務としては次の2点になる。
- 同じプロダクトイオンを持つトランジションは、リスト上で隣接させない
- クロストークが疑われたら、ブランクに片方のプリカーサーだけを打ち込んで、もう片方のチャンネルに信号が出ないかを確認する
12. 内標準とマトリックス効果 ― どこまでを MRM 側で解くか

MRM の最適化がどれだけうまくいっても、イオン化の段階でマトリックスに抑制されていれば定量値は動く。ここは本記事の範囲を超えるので要点だけ置き、詳細は マトリックス効果とイオン化抑制の対処 に譲る。
ひとつだけ、MRM 側の設計に直接跳ね返る論点がある。安定同位体標識内標準は「同じ時間に溶出して同じ抑制を受ける」ことを前提に効くが、重水素標識では同位体効果でわずかに保持がずれ、抑制の受け方が変わることがある。この場合、内標準は補正できない。¹³C・¹⁵N 標識のほうがこの問題を起こしにくい。
そして MRM 側の設計としては ―― 分析種と SIL-IS はプロダクトイオンが共通になりやすいので、前節のクロストークを必ず確認する。標識位置が壊れる断片を選ぶと、分析種と内標準のプロダクトイオンが同じ m/z になってしまう。標識原子が残る側の断片を選ぶのが原則である。
13. 実務の順序とチェックリスト

装置の前で決める順番に並べ直すと、こうなる。
① トランジションを決める
- プロダクトイオンスキャンから、分子の異なる部分に由来する断片を2本以上選ぶ(強度順ではない)
- 水・アンモニアなど汎用的な脱離由来の断片、m/z < 100 の低質量イオンは選択性が低いことを前提に扱う
- 分析種と SIL-IS でプロダクトイオンが共通にならないように選ぶ(標識原子が残る断片を選ぶ)
② パラメータを振る
- CE・DP は化合物ごとに実測。CE カーブが平坦な領域を選ぶと装置間差・経時変化に強い
- 開発段階で一度は Q1 を絞って比較する。単位分解能で見えていないだけの干渉が、25% のトランジションに潜んでいた実測例がある
③ 時間を配分する
- サイクル時間 = トランジション数 ×(ドウェル + ポーズ)。ポーズは純粋な損失で、本数に比例して積み上がる
- 目標点数は「どの幅で数えるか」を決めてから。半値幅で 6〜8 点 ≒ ベース幅で 10〜14 点
- 効くのは総数ではなく同時監視数。スケジュール MRM でこれを下げる
- 保持時間が動く分析種には広いウィンドウを個別に与える(既定10秒 → 個別60秒のような運用)
④ 壊れていないか確かめる
- 同じプロダクトイオンを持つトランジションを隣接させていないか。クロストークをブランクで確認
- 両プロダクトイオンのピークが完全に重なっているか(重なっていなければ識別に使えない)
- イオン比は同一シーケンスの溶媒標準の平均に対して評価しているか。直線範囲外の応答を混ぜていないか
- ピーク上の点数は足りているか。4〜5点では %RSD が 36.87% に達した実測例がある
⑤ 判定を機械に任せない
- イオン比 ±30% はガイダンスであって絶対基準ではない。SANTE 自身が「経験ある分析者による補完的な解釈を伴わない自動判定のみに依拠することは推奨しない」と書いている
まとめ
- MRM はイオンを増やす仕組みを持たない。感度の正体は選択性であり、選択性を犠牲にして得た感度は感度ではない。
- トランジションは強度順に選ばない。SANTE は「選択されたイオンは分析種分子の同じ部分からのみ由来するものであってはならない」と明記している。同じ部分から出た2本は、同じ干渉を同じように受ける。
- イオン比 ±30% は合否の閾値ではない。SANTE 自身が「ガイダンス基準であり絶対基準ではない」「自動判定のみに依拠することは推奨しない」と書いている。
- 単位分解能で干渉が見えないことは、干渉がないことの証明にならない。ヒト血清中103トランジションのうち、Q1 を 0.2 FWHM に絞って初めて25% に有意な干渉が見つかった実測例がある。しかも信号強度の低下はわずかだった。
- サイクル時間 = トランジション数 ×(ドウェル + ポーズ)。ポーズは測定していない純粋な損失で、本数に比例する(100本・ポーズ 5 ms なら 1サイクルあたり 500 ms)。
- 「1ピーク 6〜8点/10点/15点」は矛盾ではなく単位の違い。半値幅で 6〜8 点はベース幅で 10〜14 点にあたる(W/FWHM = 4/2.3548 = 1.70)。議論の前にどの幅で数えているかを確認する。
- 点数不足は単独でメソッドを壊す。極性切替を 500 ms から 20 ms に変えただけで %RSD が 36.87% → 4.62% になった実測がある。4〜5点では真のピーク形状から大きく乖離する。
- 多重化を上げる方法は2つあり、ドウェルを削ればデューティサイクルが壊れ、サイクルを伸ばせばサンプリングが壊れる。壊さない方法はなく、同時監視数を下げる(スケジュール MRM)しかない。
- サイクルを詰めるほどクロストークが増える。同じプロダクトイオンを持つ2本、とりわけ分析種と SIL-IS の組み合わせに注意する。
用語集
- MRM / SRM:multiple / selected reaction monitoring。Q1 でプリカーサーを選び、Q2 で解離させ、Q3 でプロダクトイオンを選ぶ測定モード。
- トランジション:プリカーサー m/z → プロダクト m/z の組。
- 定量イオン(quantifier)/確認イオン(qualifier):定量に使うトランジションと、同定確認に使うトランジション。
- イオン比:確認イオンと定量イオンのピーク面積比。同定の判断に使う。
- ドウェル時間:1本のトランジションを測定している時間。
- ポーズ時間(インタースキャン遅延):トランジション切替に要する、測定していない時間。
- サイクル時間:全トランジションを一巡する時間。1サイクルがクロマトグラム上の1点になる。
- デューティサイクル:ある分析種を実際に測定している時間の割合。ドウェル時間に比例し、同時監視数に反比例する。
- 同時監視トランジション数:ある時点で同時にリストに載っているトランジションの数。デューティサイクルを決めるのはこちらで、総数ではない。
- スケジュール MRM:各トランジションを期待溶出時間の前後だけ監視する方式。dynamic MRM、timed MRM とも。
- MRM 検出ウィンドウ:スケジュール MRM で各トランジションを監視する時間幅。
- クロストーク:コリジョンセルから抜けきらなかった前のトランジションのプロダクトイオンが、次のトランジションの信号として誤検出される現象。
- コリジョンエネルギー(CE):コリジョンセルに入る前後の電位差。大きいほど深く解離する。
- デクラスタリング電位(DP):イオン源由来の溶媒クラスターを外すための電位。メーカーによりフラグメンター電圧・コーン電圧とも呼ばれる。
- 単位質量分解能:おおむね 0.7 Da FWHM。四重極の標準的な設定。
- h-SRM:Q1 を単位分解能より絞って選択性を上げた SRM。
- SIL-IS:安定同位体標識内標準。
- FWHM:半値全幅。ガウス型では 2.3548σ。
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出典
規制・ガイドライン
- SANTE 11312/2021 v2「Analytical quality control and method validation procedures for pesticide residues analysis in food and feed」Table 3(Identification requirements for different MS techniques)および D6〜D11。https://www.eurl-pesticides.eu/userfiles/file/EurlALL/SANTE-11312_2021-V2.pdf
メーカー技術資料(一次情報)
- SCIEX「The Scheduled MRM™ Algorithm Pro ― Automated intelligent design of high throughput, high quality quantitation assays」(ドウェル/サイクル/デューティサイクルの定義、半値幅6〜8点、多重化の3条件比較、可変ウィンドウ、MRM トリガー MRM)https://sciex.com/tech-notes/technology/scheduled-mrm-algorithm-pro
- SCIEX ナレッジベース「How to choose the appropriate dwell time/cycle time in an MRM and sMRM method to get enough points per chromatographic peak」(サイクル時間の式、既定ポーズ 5 ms、計算例)https://sciex.com/support/knowledge-base-articles/how-to-choose-the-appropriate-dwell-time-cycle-time-in-an-mrm-and-smrm-method-to-get-enough-points-per-chromatographic-peak_en_us
- M. Kuracina, A. Schreiber(AB SCIEX)「Considerations when using LC-MS/MS Systems with Fast and High Resolution Liquid Chromatography」(32トランジションを「1ピークあたり最低15点」に調整した運用例)
- 島津製作所 Technical Report C146-E148A「Achieving Ultra-High-Speed Analysis with LC/MS/MS」(クロストークの機構、1ピーク最低10点、%RSD 36.87 / 4.62 / 2.20 の実測、UFsweeper、ポーズ時間 1 msec、極性切替 15 msec)
- R. Kiyonami, S. Peterman, K. Miller(Thermo Fisher Scientific)Application Note 380「Targeted Quantitative Protein Analysis in Human Serum, Using High Resolution Multiple Selected Reaction Monitoring Assays」(TSQ Quantum Ultra、ヒト血清中53タンパク質・103 SRM、Q1 0.7/0.4/0.2 FWHM 比較、25% のトランジションに有意な干渉、スキャン時間 2 ms と 20 ms の比較)
制作メモ:本記事はディープリサーチで一次資料の候補を収集したうえで、編集側ですべての数値・引用を原典(規制文書 PDF・メーカー技術資料の本文)にあたって検証して執筆した。半値幅とベース幅の換算(W/FWHM = 4/2.3548 = 1.70、半値幅6〜8点 ≒ ベース幅10〜14点)は編集側の計算であり、いずれの出典もこの換算自体を述べているわけではない。
不採用にしたもの:(1) ディープリサーチが取り込んだ URL を持たない合成文書1件(787ad2b5)。この文書は Q1 分解能ごとの「絶対透過効率」を 2.5 Da で 90〜100%、0.7 Da で 40〜60%、0.2 Da で 10〜15% といった数表の形で提示していたが、実在するどの一次資料にも対応が取れず、しかも同じ主題を扱う Thermo の実資料は「信号強度のごくわずかな低下」と正反対の記述をしていたため、全面的に破棄した。(2) Zeng W, Bateman KP「Quantitative LC–MS/MS. 1. Impact of Points across a Peak on the Accuracy and Precision of Peak Area Measurements」J. Am. Soc. Mass Spectrom. 2023;34(6):1136-1144(doi:10.1021/jasms.3c00077)は、「9秒以下のピークなら7点で十分」と論じているとされる重要文献だが、出版社サイト・紹介記事とも本文を取得できず、検索エンジンの要約以上の確認ができなかったため、本文中のいかなる主張の根拠にも用いていない。7 節の議論は、原典を直接確認できた SCIEX・島津の3資料のみに基づく。(3) Agilent の Dynamic MRM 技術資料は公開 URL が 403 を返したため参照していない。スケジュール MRM の記述は SCIEX の資料に基づく(他社の同等機能は呼称のみ言及)。