GC-MS/MS 残留農薬分析の実務 ― マトリックス効果が「増強」に転ぶGCでは、対処も逆になる【2026年版】
質量分析

GC-MS/MS 残留農薬分析の実務 ― マトリックス効果が「増強」に転ぶGCでは、対処も逆になる【2026年版】

LC-MS/MS のマトリックス効果は「抑制」だが、GC のそれは多くの場合「増強」である。原因も違う。 イオン化の競合ではなく、注入口とカラム先端の活性点をマトリックスが埋めてしまい、 溶媒標準では失われていた分析種が試料中では失われずに済む ―― つまり標準側が低いのだ。 符号が逆なので、対処も逆向きになる。EU の SANTE ガイダンス自身が「マトリックスマッチ検量線は LC-MS より GC でこそ効く」と書いており、GC 固有の解としてアナライトプロテクタントを名指ししている。 ただし 2026 年、EURL-FV が参画した論文が「糖・糖ラクトンを使う従来のアナライトプロテクタントは 反復注入のルーチンには適さない」と報告した。規制側も動いており、SANTE/11312/2021 の v2026 では 同定基準から S/N ≥ 3 が取り消し線とともに消えている。本記事は SANTE v2026・日本の通知試験法と 妥当性評価ガイドライン・告示を原典で開いて確認し、前処理から水素キャリアガスまでを整理する。

残留農薬分析をやっていると、奇妙な経験をする。野菜の抽出液に農薬を添加して測ると、溶媒だけで作った検量線から計算した値が 100% を超える。前処理でどこかから農薬が湧いてくるはずはないのに、である。

これが マトリックス誘起クロマトグラフィー応答増強(matrix-induced chromatographic response enhancement)である。LC-MS/MS を主戦場にしてきた人ほど戸惑う。あちらのマトリックス効果は「抑制」だからだ。マトリックス効果とイオン化抑制の対処 で扱ったとおり、エレクトロスプレーでは共溶出成分が液滴の性質を変え、信号は下がる方向に振れる。

GC では符号が逆になる。しかも原因が違う。イオン化の競合ではなく、注入口とカラム先端の「活性点」の奪い合いである。この一点を理解しているかどうかで、打つ手が丸ごと変わる。

そして 2026 年、この分野は二つの意味で地面が動いた。規制側では SANTE/11312/2021 の v2026 が同定基準から S/N ≥ 3 を落とした。技術側では、20 年間の定番だった糖系アナライトプロテクタントに対して、EU 参照ラボが参画した論文が「反復注入のルーチンには適さない」と正面から異を唱えた。

この記事の読み方

  • 入門者:1〜5 節で「なぜ増強するのか」と、前処理・規制の骨格をつかめば十分。
  • 現場の分析者:6〜11 節が本題。吸着剤選択、アナライトプロテクタントの是非、カラム洗浄の向き、SANTE と日本の基準の差。
  • これから機器を選ぶ人:12〜13 節。ヘリウム枯渇と水素転換、2026 年の新型機。
  • 急ぐ人:14 節のチェックリストだけでも動ける。

数値はすべて出典の原典(PDF・論文本文)を開いて確認している。裏が取れなかったものは 13 節と制作メモで明示した。

1. GC のマトリックス効果は「増強」である ― LC と符号が逆

LC-MS/MSのマトリックス効果は抑制、GCは増強。マトリックスが活性点を埋めるため溶媒標準側が損をする
図解:LC は抑制、GC は増強。増強しているのはマトリックス側ではなく、溶媒標準側が活性点で損をしている

用語を最初に固定する。マトリックス効果とは、共存成分の存在によって分析種の応答が溶媒標準と違ってしまう現象の総称である。LC-MS では通常これが「抑制」として現れるが、GC では「増強」として現れることが多い。

この現象に名前を与えたのは Anastassiades・Maštovská・Lehotay の 2003 年の論文である。要旨に定義がそのまま書かれている。

For susceptible analytes, significant peak quality improvements are obtained when matrix components are present because they fill active sites, thus reducing analyte interactions. This phenomenon is called "matrix-induced chromatographic response enhancement." (感受性の高い分析種では、マトリックス成分が存在すると活性点を埋めてくれるため、分析種の相互作用が減り、ピーク品質が大きく改善する。この現象を「マトリックス誘起クロマトグラフィー応答増強」と呼ぶ)

— Anastassiades, Maštovská, Lehotay, J. Chromatogr. A 2003;1015:163-184

つまり、増強しているのはマトリックス側ではなく、溶媒標準側が「損している」のだ。清潔な溶媒標準を注入すると、注入口ライナーやカラム先端に露出したシラノール基・金属活性点に分析種が吸着・分解して失われる。試料抽出液を注入すると、大量の共抽出成分が先に活性点を埋めてしまうので、分析種は無傷で通過する。

この理解は実務上の帰結を持つ。「システムをきれいにすれば良くなる」という LC-MS の感覚が、そのままでは通用しない。新品のライナーに交換した直後は活性点がむき出しになるため、溶媒標準の側がより大きく損をし、見かけの回収率はむしろ上振れしうる。

ただし「汚れているほど良い」わけでもない。8 節で見るとおり、蓄積した不揮発性マトリックスは熱分解して新たな活性点を生む活性点が埋まっている状態と、活性点が増えた状態は別物であり、この二つを区別できるかどうかが実務の分かれ目になる。

2. どの化合物が食らうのか

すべての農薬が増強を受けるわけではない。効くのは活性点と相互作用しやすい化合物、すなわち水素結合能を持つ官能基(−OH、−NH、P=O、カルバメート、ベンズイミダゾール類など)を持つものや、熱に弱いものである。

2003 年の論文が着目したのもこの点だった。著者らは「水素結合が活性点との相互作用の重要因子であることが示されている」として、強い水素結合能を持つ添加剤を中心に 93 種類の化合物を評価している。

逆に、有機塩素系のように官能基に乏しく熱的に安定な化合物は、増強をほとんど受けない。同じ一斉分析の中で、増強を受ける化合物と受けない化合物が混在する。だから「全体に係数を掛ける」といった補正が成立しない。これが後述するアナライトプロテクタントやマトリックスマッチ検量線が必要になる理由である。

3. QuEChERS ― 原型と二つの公定変種

QuEChERS原著の手順と、AOAC 2007.01(酢酸系)とEN 15662(クエン酸系)への分岐
図解:QuEChERS の原型と、公定化で分かれた二つの緩衝系

前処理の話に移る。2003 年、Anastassiades らは QuEChERS(quick, easy, cheap, effective, rugged, safe)を発表した。原著(J. AOAC Int. 2003;86(2):412-431)の手順は驚くほど簡素である。

  • 試料 10 g にアセトニトリル 10 mL を加えて単相抽出
  • 無水 MgSO₄ 4 gNaCl 1 g を加えて液液分配を起こす
  • 抽出液 1 mL に対し、無水 MgSO₄ 150 mgPSA(第一級・第二級アミン)25 mg を混ぜるだけの精製(分散固相抽出、d-SPE

PSA は有機酸・一部の極性色素・糖類を除去する。原著が報告した性能は回収率 85〜101%(多くは 95% 超)、併行精度は概ね 5% 未満。そして「刻んだ試料 6 検体を、1 人の分析者が 30 分未満、試料あたり材料費 約 1 米ドルで調製できる」と書かれている。この経済性が普及の理由だった。

その後 QuEChERS は二つの公定法に取り込まれるが、緩衝系が違う

原著(2003) AOAC Official Method 2007.01 EN 15662
緩衝 なし 酢酸系 クエン酸系
試料量 10 g 15 g
抽出溶媒 MeCN 10 mL MeCN 15 mL(1% 酢酸含有) MeCN
MgSO₄ 4 g + NaCl 1 g MgSO₄ 6 g + 酢酸ナトリウム 1.5 g クエン酸塩
d-SPE MgSO₄ 150 mg + PSA 25 mg /1 mL MgSO₄:PSA = 3:1 (w/w) を 200 mg/mL PSA(+必要に応じ C18・GCB)

AOAC 2007.01 の数値は共同試験報告(Lehotay, J. AOAC Int. 2007;90(2):485-520)の記述で、20 農薬・3 マトリックス(ブドウ・レタス・オレンジ)・10〜1000 ng/g の 3 濃度で、7 か国の 13 ラボが参加した試験である。

緩衝を入れる理由は、pH 感受性農薬(酸性側で分解するもの、塩基性側で分解するもの)の回収率を安定させるためだ。逆に緩衝の pH が合わない化合物では回収率が落ちる。後述の 2024 年の系統比較では、クエン酸緩衝系のやや酸性の pH が一部の化合物の低回収の原因ではないかと考察されている。

4. 日本の通知試験法は QuEChERS ではない

日本の通知試験法は中性リン酸緩衝液pH7.0で塩析し積層ミニカラムで精製する
図解:日本の通知試験法は QuEChERS ではない。GC-MS/MS は「使用も可能」という位置づけ

ここは日本で仕事をするうえで重要な分岐点である。厚生労働省の通知試験法「GC/MS による農薬等の一斉試験法(農産物)」は、QuEChERS ではない。原文を開くと手順はこうなっている。

  • 試料量は食品群で変わる:穀類・豆類・種実類 10.0 g(水 20 mL を加え 15 分放置)、果実・野菜・ハーブ 20.0 g茶・ホップ 5.00 g
  • アセトニトリル 50 mL でホモジナイズ・吸引ろ過、残渣にさらに 20 mL、合わせて正確に 100 mL
  • 抽出液 20 mL に NaCl 10 g0.5 mol/L リン酸緩衝液(pH 7.0)20 mL を加えて振とう、水層を捨てる
  • 穀類・豆類・種実類は ODS ミニカラム(1,000 mg)で精製
  • いずれも グラファイトカーボン/アミノプロピルシリル化シリカゲル積層ミニカラム(500 mg/500 mg)で精製、アセトニトリル・トルエン(3:1)で溶出
  • 最終的にアセトン・n-ヘキサン(1:1)で正確に 1 mL、2 µL を注入

測定条件も指定されている。カラムは 5% フェニル-メチルシリコン、内径 0.25 mm・長さ 30 m・膜厚 0.25 µm。昇温は 50℃(1分) − 25℃/分 − 125℃(0分) − 10℃/分 − 300℃(10分)、注入口 250℃、キャリヤーガスはヘリウム、EI(70 eV)

つまり d-SPE(分散)ではなくミニカラム(通液)酢酸/クエン酸緩衝ではなく中性リン酸緩衝である。GCB(グラファイトカーボン)を標準で使う点も QuEChERS の基本形と違う。

留意事項に、実務上見逃せない 3 つの記述がある。

  • (3) 「装置にはガスクロマトグラフ・タンデム型質量分析計(GC/MS/MS)の使用も可能である。」 ―― MS/MS は許容であって要求ではない。通知法の本体は単一四重極 GC/MS を前提に書かれている。
  • (7) 「正確な測定値を得るためには、マトリックス添加標準溶液又は標準添加法を用いることが必要な場合がある。」 ―― 日本の通知法もマトリックス効果を認識しているが、「必要な場合がある」という条件付きの書き方である。後述のとおり EU はここを数値基準で縛る。
  • (2) 「本試験法は別表に示した全ての化合物の同時分析を保証したものではない。」 ―― 化合物同士の相互作用による分解や干渉があるため、分析対象の組み合わせごとに事前検証が要る。一斉法の名前に油断してはいけない。

なお 令和6年(2024年)4月1日をもって、食品衛生基準行政は厚生労働省から消費者庁に移管されている(厚生労働省の当該ページに明記)。試験法の所管窓口が変わっているので、最新の通知を追う先を間違えないようにしたい。

5. 「一律基準 0.01 ppm」が実務を規定する

個別の基準値がない農薬に適用される一律基準0.01 ppmと、GC-MS/MS採用の分岐点
図解:一律基準 0.01 ppm。この濃度で選択性が足りるかが分岐点になる

日本のポジティブリスト制度では、個別の残留基準が定められていない農薬等には一律基準が適用される。その値は告示に一行で書かれている。原本(厚生労働省告示第四百九十七号、平成十七年十一月二十九日)を開くと、こうある。

食品衛生法第十一条第三項の規定により人の健康を損なうおそれのない量として厚生労働大臣が定める量は、〇・〇一 ppm とする。

平成十八年五月二十九日から適用された。0.01 ppm = 0.01 mg/kg である。

この一行が分析の設計をほぼ決めてしまう。基準値が設定されていない農薬 ―― つまり大多数 ―― について、0.01 mg/kg を定量できなければ適合判定ができない。試料 20 g を最終 1 mL に濃縮する通知法の濃縮倍率でも、この水準では十分な感度が要る。単一四重極の SIM で夾雑ピークに埋もれる場面が出てくる。GC-MS/MS が実質的な標準装備になっている理由は、感度そのものより「一律基準の濃度で選択性が足りない」ことにある。

偶然だが、EU 側でベビーフードに適用される既定 MRL も 0.01 mg/kg である。Thermo Fisher の水素キャリアガス応用ノート(AN002225)は、この 0.01 mg/kg を性能確認の目標値として設定している。日欧で狙う濃度は事実上同じところにある。

6. クリーンアップ吸着剤の選択 ― 「洗いすぎ」が回収率を壊す

d-SPE の吸着剤選択は、きれいにするほど良い、が成立しない典型例である。2024 年の系統比較(Molecules 2024;29(19):4656、オープンアクセス)がこの緊張関係を明快に測っている。要旨の一文が要点を突いている。

a clean-up step is recommended, but an over-purified extract can lead to analyte loss due to adsorption to the sorbent. (精製工程は推奨されるが、過度に精製された抽出液は、吸着剤への吸着による分析種の損失を招きうる)

この研究は 98 種の分析種(農薬・医薬品原薬・新興環境汚染物質)を 5 種のマトリックス(ホウレンソウ、オレンジ、アボカド、サーモン、牛肝臓)で、確立された PSA・GCB・C18 と新しい キチン・キトサン・多層カーボンナノチューブ(MWCNT)・Z-Sep®(ジルコニウム系) について GC-MS/MS で評価した。結論はこうである。

  • 洗浄能力が最も高いのは Z-Sep®。UV でも GC-MS でもマトリックス成分を中央値 50% 削減した。
  • 回収率への悪影響が最も大きいのは MWCNT14 化合物が 70% 未満に落ちた。
  • 総合的に最も優れていたのは PSA

MWCNT の落ち方には機構がある。チアベンダゾールの回収率はオレンジで 4%、ホウレンソウで 10%。フルオレン、フェナントレンといった平面状の分析種も大きく影響を受けた。ここに GCB を使うときの根本的なジレンマがある。

GCB は大きな平面分子(クロロフィル、カロテノイドなどの色素)の除去に使われる。しかし GCB を精製に使うと、より大きな平面状の分析種(たとえばチアベンダゾール)の回収率に悪影響が出うる。

平面状のマトリックスを掴む機構と、平面状の分析種を掴む機構が同一なので、原理的に選り分けられない。緑色野菜のクロロフィルを落としたいのに、ベンズイミダゾール系殺菌剤も一緒に落ちる。同研究は、平面状マトリックスの除去に関しては MWCNT より GCB のほうが良い選択(色素除去は同等で、目的の平面状分析種は傷めない)と結論している。

実務的な指針としては、EN 15662 が示す使い分けが依然として妥当である ―― 脂質の多いマトリックス(アボカド、オリーブ等)には C18 を追加色素の多いマトリックスには GCB。ただし GCB を入れる時点で、平面状農薬の回収率は別途検証する必要がある。

7. アナライトプロテクタント ― 標準側も「増強」させて揃える

1 節の理解に戻る。増強の正体が「溶媒標準側の損失」であるなら、標準側にも同じ損失を起こさせないようにすれば、両者は揃う。これがアナライトプロテクタント(AP)の発想である。

2005 年の論文(Maštovská, Lehotay, Anastassiades, Anal. Chem. 2005;77(24):8129-8137)が定義を与えている。

Analyte protectants were previously defined as compounds that strongly interact with active sites in the gas chromatographic (GC) system, thus decreasing degradation, adsorption, or both of coinjected analytes. (アナライトプロテクタントとは、GC システム中の活性点と強く相互作用し、同時注入された分析種の分解・吸着あるいはその両方を低減する化合物と定義されてきた)

2003 年の論文は 93 種を評価し、複数の水酸基を持つ化合物(糖および糖誘導体)で劇的なピーク改善が得られること、なかでも グロノラクトン(gulonolactone)が最も効果的であることを報告した。2005 年の論文は組み合わせを検討し、最適解を示している。

エチルグリセロール、グロノラクトン、ソルビトールの混合物(注入試料中でそれぞれ 10、1、1 mg/mL) が、感受性分析種の損失を最小化し、ピーク形状を有意に改善するうえで最も効果的だった。

これを試料抽出液とマトリックスを含まない検量標準の両方に加えると、両者に同程度の応答増強が起こり、増強効果が実質的に打ち消される。2005 年の論文はさらに、不揮発性マトリックス成分の GC システム内への蓄積という別の悪影響も大幅に減り、堅牢性が向上してメンテナンス頻度が下がったと報告している。

EU の SANTE ガイダンスは、この手法を GC 固有の解として名指ししている(C21)。

An alternative practical approach to compensate for matrix effects in GC-analyses is the use of analyte protectants that are added to both the sample extracts and the calibration standard solutions in order to equalise the response of pesticides in solvent calibrants and sample extracts.

8. 2026年の反論 ― 「糖系 AP は反復注入に耐えない」

イチゴを11回連続注入するとベースラインが下がる。極性の不揮発性成分が熱分解して活性を持つため
図解:反復注入でベースラインが下がる。糖系アナライトプロテクタントがルーチンに向かない理由

ところが 2026 年 4 月、EU 参照ラボ(EURL for Pesticide Residues in Fruit & Vegetables, アルメリア大学)の Fernández-Alba が参画した論文が、この定番に正面から異を唱えた(Abo-Gida ら, Molecules 2026;31(9):1449, オープンアクセス)。本文の一文は明確である。

Therefore, the previously reported usage of sugars and sugar lactone as APs is not an acceptable approach for routine repeated GC-MS/MS injections. (したがって、従来報告されてきた糖および糖ラクトンをアナライトプロテクタントとして使う手法は、GC-MS/MS の反復注入をルーチンで行う用途には受け入れられる手法ではない)

根拠となった観察が面白い。イチゴ抽出液を 11 回連続注入したところ、MS のベースラインが上がるのではなく下がった。直感に反する。著者らの説明はこうである ―― イチゴの極性の不揮発性共抽出成分(炭水化物、ペクチン)がガラスライナーとカラム先端に吸着し、高温ストレス下で熱分解する。生じた分解物はさらに高い極性活性を持ち、溶出する成分の数と感度を下げ、溶出を大きく遅らせる。しかも固定相との相互作用も起こしており、イチゴ抽出液の TIC にドデカメチルヘキサシロキサンが現れる ―― マトリックスが誘起したカラムブリードである。

糖系 AP は、まさにこの「極性の不揮発性成分」を意図的に注入し続ける行為にほかならない。単発の注入で活性点を埋める効果と、反復注入で熱分解物を蓄積させる副作用は、同じ性質の裏表である。2005 年の論文が「メンテナンス頻度が下がる」と書いた一方で、2026 年の論文が「ルーチンの反復注入には不適」と書く。21 年を隔てたこの食い違いは、評価している時間スケールの違いとして読むのが妥当だろう。

著者らの代案は 天然アナライトプロテクタント(NAP) である。イチゴには酢酸エチル抽出のフェンネル(ウイキョウ)抽出液を添加した。結果は以下のとおり。

  • バックフラッシュ+フェンネル NAP の組み合わせで、115 農薬が RSD < 3%(0.05 mg/L のマトリックスマッチ標準を 11 回反復注入)
  • イチゴで 195 農薬をすべて LOQ 0.01 mg/kg で検証、0.01 と 0.05 mg/kg における回収率 90〜110%
  • 乾燥ミントでは 154 農薬を LOQ 0.01 mg/kg で検証(32 農薬は 0.05 mg/kg、9 農薬は 0.25 mg/kg を要した)

なお本論文はイチゴと乾燥ミントという特定のマトリックスでの結果である。糖系 AP が全面的に否定されたと読むのは行き過ぎで、「極性不揮発性成分の多いマトリックスを反復注入する運用では再検討せよ」が妥当な読み取りだろう。

9. カラム洗浄 ― バックフラッシュが常に正解ではない

マトリックスの不揮発性成分が極性ならバックフラッシュ、非極性で高分子量なら順流
図解:バックフラッシュは常に正解ではない。極性か非極性かで洗浄の向きが変わる

同じ 2026 年の論文から、もう一つ実務的に効く知見が出ている。カラム末端バックフラッシュ(BF)は万能ではない

一般には、最後の目的農薬が溶出したあとにキャリヤーガスを逆流させ、不揮発性成分を注入口側から排出する BF が「正解」とされる。ところが乾燥ミントでは逆だった。

  • イチゴ(極性の不揮発性成分が主体):BF が有効。短い経路で素早く物理的に除去できる。順流(SF)だと極性成分とその分解物が長いカラムを緩慢に移動する間に固定相と相互作用してしまう。
  • 乾燥ミント(高分子量の揮発性成分+非極性の不揮発性成分=ワックス・脂質):SF のほうが良かった。再現性を満たした農薬数は SF で 161、BF で 131。高分子量成分はキャリヤーガスを逆流させても容易に移動しないためである。

論文の結論部の表現がそのまま指針になる。

efficient column cleaning can be achieved through either back-flushing or the same forward-flow of the carrier gas, depending on whether the non-volatile co-extractives are polar or non-polar. (効率的なカラム洗浄は、不揮発性共抽出成分が極性か非極性かに応じて、バックフラッシュでも順流でも達成できる)

判断基準は「マトリックスの不揮発性成分が極性か非極性か」である。糖・ペクチンの多い果実なら BF、ワックス・脂質の多い乾燥ハーブや香辛料なら SF を試す価値がある。同論文は非極性・不揮発性のマトリックスのほうが本質的に安定で、GC-MS システムへの負荷が小さいとも述べている。

10. SANTE/11312/2021 v2026 ― 同定基準から S/N ≥ 3 が消えた

SANTE v2026の同定基準。プロダクトイオン2本、イオン比±30%、保持時間±0.1分。S/N≧3は取り消し線で削除
図解:SANTE v2026 の同定基準。S/N ≥ 3 は取り消し線とともに消えた

EU で残留農薬の公的管理に用いる分析法の妥当性確認と品質管理を規定するのが SANTE/11312/2021 である。文書番号は据え置いたままバージョンだけ更新する運用で、最新は v2026(EURL サイトでの最終更新 2025-12-02)。全 58 ページ。

MS/MS の同定要件は Table 3 にある。原典の記載はこうである。

検出器 最小イオン数 追加要件
単一 MS(四重極・イオントラップ・TOF) 3 イオン ピークは完全に重なること
MS/MS(三連四重極・Q-trap・Q-TOF・Q-Orbitrap) プロダクトイオン 2 本 イオン比は同一シーケンス内の検量標準の平均から ±30%(相対)以内
高分解能 MS((Q-)TOF・(Q-)Orbitrap) 2 イオン、質量精度 ≤ 5 ppm(m/z < 200 では < 1 mDa) ピークは完全に重なること

保持時間の許容は ±0.1 min

ここで v2026 の変更点がある。v2 の Table 3 には単一 MS 行と高分解能 MS 行に「S/N ≥ 3」があり、脚注 d) として「ノイズが認められない場合は、連続する 5 スキャン以上で信号が存在すること」が付いていた。v2026 ではこの「S/N ≥ 3」に取り消し線が引かれ、脚注 d) 自体が削除されている(高分解能 MS 行の「Ion ratio: see D12」も同様に取り消し線)。v2 と v2026 の当該ページを並べて確認した結果である。

実務上の意味は小さくない。ベンダーのアプリケーションノートには、いまも「SANTE は S/N ≥ 3 を要求する」と書かれているものがある(本記事で参照した Thermo Fisher の AN002225 もそう記載している。同ノートは v2026 より前の版に基づく)。監査や査察で根拠を問われる場面では、引用しているバージョンを確認する必要がある。

なお v2026 の主な変更点には、ほかに以下が含まれる(冒頭の変更点一覧より)。

  • サブサンプリングのばらつきが許容範囲内であることを確認する基準を新設(試料の粉砕は十分な均質性を確保すべき)
  • 手順ブランクやブランク試料にバックグラウンドが存在しうる場合の妥当性確認要件を新設(3 つの状況を例示)
  • 抽出・精製中の損失を補正する検量手順を使う場合、マトリックスマッチ検量による回収率試験で絶対回収率を確認しなければならない旨の注記を追加
  • 同定基準を満たせない場合の代替の同定確認手段を Table 3 の脚注 2 に明記

性能基準(Table 4 と G6)は次のとおりで、これは v2 から実質的に変わっていない。

  • 平均回収率 70〜120%併行精度 RSDr ≤ 20%室内再現精度 RSDwR ≤ 20%
  • 例外的に 70〜120% を外れても、一貫していて(RSD ≤ 20%)根拠が確立していれば許容される。ただし平均絶対回収率は 30% 未満または 140% 超であってはならない
  • LOQ = これらの基準を満たす最低添加濃度であり、MRL 以下であること
  • 選択性:試薬ブランク・ブランク対照試料の応答は RL の 30% 以下
  • 検量線:逆算濃度の真値からの偏差は ±20% 以内

そして、マトリックス効果については Table 4 の脚注が閾値を与えている。

in case of more than 20 % signal suppression or enhancement, matrix effects need to be addressed in calibration (信号の抑制または増強*が 20% を超える場合、検量においてマトリックス効果に対処する必要がある)

「suppression or enhancement」と両方向が明記されている点に注目したい。GC を想定した書き方である。

SANTE 自身が「マトリックスマッチは GC でこそ効く」と書いている

本記事の芯に関わる記述が C23 にある。

Compensation for matrix effects in LC-MS is more difficult to achieve because the matrix effects depend on the co-elution of each individual pesticide with co-extracted matrix components, which vary between different commodities. The use of matrix-matched calibration is, therefore, likely to be less effective compared to GC. (LC-MS におけるマトリックス効果の補償はより困難である。マトリックス効果は個々の農薬と共抽出成分の共溶出に依存し、それは品目ごとに変動するからである。したがってマトリックスマッチ検量線の使用は、GC と比べて効果が劣る可能性が高い)

さらに C22 では、GC なら「代表マトリックス検量」―― 単一の代表マトリックスまたは混合マトリックスで、異なる品目を含むバッチを検量できるとしている(厳密なマトリックスマッチよりは精度が落ちるとの但し書き付き)。

これは 1 節の機構から素直に導ける。GC の増強は注入口とカラムの活性点という「装置側の一箇所」で起きるので、埋めてしまえば化合物によらず効く。一方 LC-MS の抑制は個々の分析種と共溶出する成分に依存するので、マトリックスが違えば効き方も変わる。同じ「マトリックスマッチ検量線」という言葉でも、GC と LC では期待できる補正の質が違う。

なお、最も効果的な手段は GC・LC を問わず 標準添加法または安定同位体標識内標準であると C21 は明記している。

11. 日本の妥当性評価ガイドライン ― 真度は同じ、精度は濃度で動く

日本側の対応文書は「食品中に残留する農薬等に関する試験法の妥当性評価ガイドライン」(平成19年11月15日 食安発第1115001号、平成22年12月24日 食安発1224第1号により改正)である。原文の表3 を引く。

濃度 (ppm) 真度 (%) 併行精度 (RSD%) 室内精度 (RSD%)
≦0.001 70〜120 30> 35>
0.001<〜≦0.01 70〜120 25> 30>
0.01<〜≦0.1 70〜120 15> 20>
0.1< 70〜120 10> 15>

EU と比べると構造が違う。

  • 真度 70〜120% は EU の回収率基準と同じ値。ここは一致している。
  • 精度の要求は濃度で段階的に変わる。EU は濃度によらず RSDr ≤ 20% の一律基準だが、日本は 0.1 ppm 超では 10% 未満と厳しく、0.001 ppm 以下では 30% 未満と緩い。一律基準 0.01 ppm の水準(0.001<〜≦0.01 の区分)では併行精度 25% 未満であり、EU の 20% より緩い。
  • 定量限界の要件が明示的:「クロマトグラフィーによる測定では、定量限界濃度に対応する濃度から得られるピークは、S/N 比 ≧ 10 であること」。EU が Table 3 から S/N 基準を落としたのと対照的に、日本は S/N ≧ 10 を LOQ の要件として保持している。
  • サロゲート(真度の変動補正のために添加する安定同位体標識標準品)を使用した場合は、その回収率が 40% 以上であることを確認する。
  • 試験数:真度は添加試料 5 個以上、精度は自由度が 4 以上となる繰り返し回数。
  • 選択性は妨害ピークの面積比で規定される。定量限界が基準値の 1/3 以下なら基準値相当ピークの 1/10 未満、1/3 を超えるなら定量限界相当ピークの 1/3 未満
  • 一斉試験法では基準値がばらつくため、添加濃度を「各農薬等の基準値に近い一定の濃度」と「一律基準濃度」の 2 点にしてよい。

イオン比の数値基準がない点も EU との違いである。日本のガイドラインは妨害ピークの面積比で選択性を規定しており、SANTE の「イオン比 ±30%」に相当する条項を持たない。EU 向けの輸出品を扱うラボと国内向けのラボで、確認試験の運用が変わりうる。

12. ヘリウムから水素へ ― DDT が DDD になる

水素キャリアガスでは従来型イオン源で13.04分のDDTがDDDとして同定される
図解:水素キャリアガスの落とし穴。イオン源内の脱塩素で DDT が DDD になる

2026 年時点で GC の最大の実務課題はキャリヤーガスである。ヘリウムの価格高騰と供給不安から、水素への転換が進んでいる。水素は粘度がヘリウムの約半分で、同じ線速度をより低い注入口圧で得られ、高流量でも分離効率を保てる ―― つまり速い。ラボ内で発生器から作れるので供給不安もない。

しかし残留農薬分析には固有の落とし穴がある。水素は反応性ガスであり、EI イオン源内で水素化・脱塩素反応が起きる。

Agilent の技術資料(HydroInert Source Technical Overview, 5994-4889EN)が具体例を挙げている。

Since hydrogen is a reactive gas, hydrogenation and dechlorination reactions can and do occur in the mass spectrometer electron ionization (EI) source.

実例が生々しい。DDT はヘリウムで 13.04 分に溶出する(DDE 12.44 分、DDD 12.88 分)。ところが水素キャリヤーガスと従来型エクストラクターイオン源の組み合わせでは、13.04 分の位置で DDT ではなく DDD が同定された。イオン源内で脱塩素が起きて、別の化合物のスペクトルになってしまったのである。HydroInert イオン源+水素では DDT が 13.04 分で正しく同定され、NIST17.L ライブラリとの一致スコアは 85 だった。

ニトロ化合物も同様である。ニトロベンゼンは水素存在下・加熱下でアニリンへ水素化されうる(m/z 123 → 93)。同資料は従来型ソースで m/z 93 への顕著な変換と著しいテーリングが見られたと報告している。

DDT・DDE・DDD はいずれも日本のポジティブリスト制度の対象であり、通知試験法の対象化合物でもある。「キャリヤーガスを替えただけ」でこれらが取り違えられうるという事実は、水素転換を検討するラボにとって決定的に重要だ。一般論として、水素に切り替えるとヘリウムベースの NIST ライブラリとの一致スコアが落ちるため、社内ライブラリの構築が必要になる ―― という注意書きが従来は付きものだった。水素対応イオン源はこの前提を変えようとしている。

もう一つの現実解がヘリウム消費の削減である。Thermo Fisher の応用ノート(AN002225、Rajski・Kutscher・Ladak)は TSQ 9610 で 180 種超の農薬を水素キャリヤーガスで分析すると同時に、HeSaver-H2Safer 方式を報告している。試料あたりのヘリウム消費を 0.32 L に削減し、標準的な SSL 注入口の 4 分の 1。24 時間 365 日稼働でもボンベ 1 本が約 2 年もつ計算になる。同ノートは「感度も保持時間も影響を受けず、標準的な SSL からの切り替えにメソッド再最適化を要しない」としている。水素を分離のために使いつつ、MS へはヘリウムを少量だけ送るという折衷である。

キャリヤーガスの選択そのものについては ガスクロマトグラフィー徹底解説 も参照されたい。

13. 2026年の機器 ― 島津 GCMS-TQ RX シリーズ

島津GCMS-TQ RXシリーズ。最大25%の感度向上、熱脱着対応マルチモード注入口、冷却待ち40分から5分
図解:2026年7月発表の島津 GCMS-TQ RX シリーズ

装置側の動きとして、島津製作所が 2026 年 7 月 8 日に GCMS-TQ RX シリーズ(GCMS-TQ8040 RX / GCMS-TQ8050 RX)を発表した。公式ニュースリリースから確認できる内容は以下のとおり。

  • フェムトグラム(10⁻¹⁵ g)レベルの検出が可能で、従来機比で最大 25% の感度向上
  • マルチモード注入口(MMI)をオプションで搭載。熱脱着分析に対応する(通常は専用装置を要する)
  • 独自の断熱技術により温度安定性と急速昇温を両立。急速冷却により、メンテナンス待ち時間を 40 分から 5 分に短縮
  • 2026 年 3 月 17 日発売の Nexis GC-2060 との統合を前提とした設計
  • GCMS-TQ8050 RX は新開発検出器(ノイズ低減+高増幅)を搭載。イオン源とフィラメントは従来機の 5 倍超の寿命
  • Peakintelligence for GCMS(AI ピーク処理)によりデータ解析時間を従来の約 4 分の 1 に、Smart MRM+ でメソッド作成を自動化
  • 単一四重極 GC-MS としても使用可能

残留農薬分析の文脈で意味があるのは、感度そのものより後半の 3 点だろう。一斉分析では数百の MRM トランジションを組む必要があり、メソッド作成の自動化(Smart MRM+)は工数に直接効く。9 節で見たとおりマトリックス由来の汚染はメンテナンス頻度を押し上げるので、冷却待ち 40 分 → 5 分とフィラメント寿命 5 倍超は稼働率に効く。MMI の熱脱着対応は、揮発性成分をGCに入れる4つの方法 で扱った導入法を 1 台に統合できることを意味する。

なお、Agilent(7000E/7010D シリーズ)や Waters(Xevo TQ-GC、APGC)についても製品ページの取得を試みたが、いずれも 403 で本文を確認できなかったため、本記事では型番ごとの感度スペックの比較表は載せない。裏の取れない数値を並べるより、機構の話に留める。

14. 実務のチェックリスト

実務のチェックリスト。適合判定の相手、狙う濃度、洗浄の向き、増強の確認、SANTEのバージョン
図解:実務のチェックリスト

ここまでを行動可能な形にまとめる。

設計段階 1. 適合判定の相手は日本の通知法か、EU の SANTE か。性能基準も同定基準も違う。両方に出すなら厳しい側(多くの場合 EU のイオン比 ±30%、精度 20%)で設計する。 2. 狙う濃度は原則 0.01 mg/kg(日本の一律基準、EU のベビーフード既定 MRL)。ここで選択性が足りるかが GC-MS/MS 採用の分岐点。 3. マトリックスの不揮発性成分が極性か非極性かを先に見立てる。果実(糖・ペクチン)なら極性、乾燥ハーブ・香辛料(ワックス・脂質)なら非極性。カラム洗浄の向き(BF / SF)がここで決まる

前処理 4. QuEChERS を使うならどの変種かを明記する(AOAC 2007.01=酢酸系 / EN 15662=クエン酸系)。pH 感受性農薬の回収率は変種で変わる。 5. 吸着剤は足すほど良くない。GCB を入れるなら平面状農薬(チアベンダゾール等)の回収率を必ず個別に検証する。脂質マトリックスには C18。 6. 日本の通知法に従うなら、「全化合物の同時分析は保証されない」ため、対象の組み合わせで事前検証する(留意事項(2))。

検量とマトリックス効果 7. 抑制または増強が 20% を超えたら、検量で対処する(SANTE)。まず増強していないかを確認する ―― GC では回収率が 100% を超える形で現れる。 8. GC ではマトリックスマッチ検量線がよく効く。代表マトリックス検量も選択肢(SANTE C22)。最も効くのは標準添加法か安定同位体標識内標準(C21)。 9. アナライトプロテクタントを使うなら、極性不揮発性成分の多いマトリックスを反復注入する運用では再現性を実測で確認する(2026 年の論文)。糖系 AP を外す判断もありうる。 10. 日本の妥当性評価でサロゲートを使うなら、その回収率 40% 以上を確認する。

装置と運用 11. 水素キャリヤーガスに切り替えるなら、有機塩素系農薬とニトロ化合物のスペクトルを必ず実測で確認する。DDT が DDD として同定される事例がある。水素対応イオン源か、ヘリウム節約方式かを比較検討する。 12. 引用している SANTE のバージョンを確認する。v2026 で S/N ≥ 3 は同定基準から外れている。手順書やベンダー資料が古い版を引いている可能性がある。

まとめ

GC-MS/MS の残留農薬分析でつまずく原因の多くは、LC-MS/MS の常識をそのまま持ち込むことにある。

  • GC のマトリックス効果は多くの場合増強であり、正体は「マトリックスが強いから」ではなく「溶媒標準が活性点で損している」ことである。
  • だから対処も逆向きになる。標準側にも同じ損失(または保護)を与えて揃えるのが基本戦略で、マトリックスマッチ検量線とアナライトプロテクタントはどちらもこの発想に立つ。SANTE 自身が「マトリックスマッチは LC-MS より GC でこそ効く」と書いている。
  • 前処理は「洗いすぎると壊れる」。Z-Sep は最もよく洗うが、PSA が総合的に最良。GCB は平面状マトリックスと平面状農薬を同じ機構で掴むので選り分けられない。
  • 2026 年、二つの前提が動いた。SANTE v2026 は同定基準から S/N ≥ 3 を落とし、EURL-FV 参画の論文は糖系アナライトプロテクタントを反復注入ルーチンから外すべきだと報告した。バックフラッシュも常に正解ではない。
  • 日本と EU は真度 70〜120% では一致するが、精度基準の構造・LOQ の S/N 要件・イオン比基準の有無で違う。どちらに出すかで設計が変わる。
  • 水素転換は速度と供給の解だが、イオン源内の脱塩素で DDT が DDD になりうる。ポジティブリスト対象化合物での実測確認が必須。

用語集

  • マトリックス誘起クロマトグラフィー応答増強:共存成分が GC の注入口・カラムの活性点を埋めることで、分析種の吸着・分解が減り、溶媒標準より応答が大きくなる現象。GC のマトリックス効果の主形態。
  • 活性点:注入口ライナーやカラム先端に露出したシラノール基や金属表面など、分析種を吸着・分解する部位。
  • QuEChERS:quick, easy, cheap, effective, rugged, safe。アセトニトリル抽出+塩析+分散固相抽出からなる簡便な多成分前処理法。
  • d-SPE(分散固相抽出):カラムに通液せず、吸着剤を抽出液に直接混ぜて遠心分離する精製法。
  • PSA:primary secondary amine。第一級・第二級アミン基を持つ吸着剤。有機酸・糖・極性色素を除去する。
  • GCB:graphitized carbon black(グラファイトカーボン)。平面状分子(クロロフィル等の色素)を除去するが、平面状の分析種も吸着する。
  • アナライトプロテクタント(AP):GC の活性点と強く相互作用し、同時注入された分析種の分解・吸着を減らす添加剤。試料と標準の両方に加えて応答を揃える。
  • 天然アナライトプロテクタント(NAP):植物マトリックス由来の抽出液を AP として用いるもの。
  • バックフラッシュ(BF):目的成分の溶出後にキャリヤーガスを逆流させ、不揮発性成分を注入口側から排出するカラム洗浄法。
  • 一律基準:個別の残留基準が定められていない農薬等に適用される基準値。日本では 0.01 ppm。
  • MRL:maximum residue limit、最大残留基準値。
  • サロゲート:真度の変動を補正する目的で試料に添加する安定同位体標識標準品。
  • イオン比:MS/MS で 2 本のプロダクトイオンの応答比。同定の確からしさの指標。

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出典

  1. SANTE/11312/2021 v2026, Analytical quality control and method validation procedures for pesticide residues analysis in food and feed, European Commission DG SANTE / EU Reference Laboratories(全58ページ、EURL サイト最終更新 2025-12-02) https://www.eurl-pesticides.eu/userfiles/file/EurlALL/SANTE-11312_2021-V2026.pdf (同一内容が欧州委員会サイトでも配布:https://food.ec.europa.eu/system/files/2023-11/pesticides_mrl_guidelines_wrkdoc_2021-11312.pdf
  2. SANTE/11312/2021 v2(比較対象) https://www.eurl-pesticides.eu/userfiles/file/EurlALL/SANTE-11312_2021-V2.pdf
  3. M. Anastassiades, S.J. Lehotay, D. Štajnbaher, F.J. Schenck, "Fast and Easy Multiresidue Method Employing Acetonitrile Extraction/Partitioning and 'Dispersive Solid-Phase Extraction' for the Determination of Pesticide Residues in Produce", J. AOAC Int. 2003;86(2):412-431. doi:10.1093/jaoac/86.2.412(PMID 12723926)
  4. S.J. Lehotay, "Determination of pesticide residues in foods by acetonitrile extraction and partitioning with magnesium sulfate: collaborative study", J. AOAC Int. 2007;90(2):485-520(AOAC Official Method 2007.01、PMID 17474521)
  5. M. Anastassiades, K. Maštovská, S.J. Lehotay, "Evaluation of analyte protectants to improve gas chromatographic analysis of pesticides", J. Chromatogr. A 2003;1015(1-2):163-184. doi:10.1016/S0021-9673(03)01208-1(PMID 14570329)
  6. K. Maštovská, S.J. Lehotay, M. Anastassiades, "Combination of analyte protectants to overcome matrix effects in routine GC analysis of pesticide residues in food matrixes", Anal. Chem. 2005;77(24):8129-8137. doi:10.1021/ac0515576(PMID 16351165)
  7. A.H. Abo-Gida, A.T. Aziz, M. Issa, S.M. Taha, A.R. Fernández-Alba, "The Impact of Volatile and Non-Volatile Co-Extracted Matrix Components on the Reproducible Residue Analysis of Pesticides Using GC-MS/MS", Molecules 2026;31(9):1449. doi:10.3390/molecules31091449(オープンアクセス、PMC13164609) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC13164609/
  8. "Systematic Comparison of Extract Clean-Up with Currently Used Sorbents for Dispersive Solid-Phase Extraction", Molecules 2024;29(19):4656(オープンアクセス、PMC11478316) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11478316/
  9. 厚生労働省告示第四百九十七号(平成17年11月29日)「食品衛生法第十一条第三項の規定により人の健康を損なうおそれのない量として厚生労働大臣が定める量を定める件」 https://www.mhlw.go.jp/content/000499352.pdf
  10. 厚生労働省「GC/MS による農薬等の一斉試験法(農産物)」(通知試験法) https://www.mhlw.go.jp/content/001206612.pdf (試験法一覧:https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/zanryu/zanryu3/siken.html
  11. 食品中に残留する農薬等に関する試験法の妥当性評価ガイドラインの一部改正について」(平成22年12月24日 食安発1224第1号。原ガイドラインは平成19年11月15日 食安発第1115001号) https://www.mhlw.go.jp/web/t_doc?dataId=00tb6662&dataType=1&pageNo=1
  12. 厚生労働省「食品中の残留農薬等」(ポジティブリスト制度、および令和6年4月1日の消費者庁への移管について) https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/kenkou_iryou/shokuhin/zanryu/index.html
  13. Agilent Technologies, Agilent HydroInert Source Technical Overview, 5994-4889EN
  14. Thermo Fisher Scientific, Application Note 002225, Ł. Rajski, D. Kutscher, A. Ladak, "Reducing running costs for GC-MS/MS analysis of pesticide residues using hydrogen carrier gas" https://documents.thermofisher.com/TFS-Assets/CMD/Application-Notes/an-002225-gc-h2-carrier-gas-pesticides-food-an002225-na-en.pdf
  15. 島津製作所ニュースリリース "Industry-Leading Detection Performance and Flexibility for Diverse Analytical Needs — Shimadzu Releases the GCMS-TQ RX Series Gas Chromatograph-Mass Spectrometer"(2026年7月8日発表) https://www.shimadzu.com/news/2026/rqlmu84w5ry4eew_.html

制作メモ:ディープリサーチで文献・資料を収集し、編集側で原著・原典を開いて検証のうえ執筆した。

本稿では以下を不採用とした。

  • ディープリサーチが取り込んだ 100 件のソースのうち 1 件は URL を持たない AI 生成の総説文書("Analytical Framework for High-Throughput GC-MS/MS Pesticide Residue Analysis in Food: Methodological Advancements and Global Regulatory Compliance")だった。この文書のみに帰属する数値・表は一切採用していない。
  • Agilent(7000E / 7010D)および Waters(Xevo TQ-GC、APGC)の製品ページは curl・WebFetch とも 403 で本文を取得できず、hpst.cz のミラーも消失していた。したがって型番ごとの感度スペックの比較は行っていない。Agilent の HydroInert に関する記述は、別経路で取得できた技術資料 5994-4889EN の本文にもとづく。
  • Abo-Gida ら(2026)が報告するマトリックス効果の数値(イチゴ −99.96〜−71.65%、乾燥ミント −102〜−72.96%)は、溶媒ではなくインゲン(green bean)マトリックスを基準とした相対値であり、一般的なマトリックス効果の定義と基準系が異なる。誤読を招くため本文では使用していない。
  • SANTE v2026 における「S/N ≥ 3」の削除は、v2 と v2026 の該当ページ(いずれも 12 of 51)を実際に並べて確認した。v2026 では当該記載に取り消し線が引かれ、根拠だった脚注 d) が削除されている。バージョン間の差分として記述しており、EU からの個別の解説文書にもとづくものではない。