ネイティブMS徹底解説 ― 横軸の m/z の値が、そのまま「分けられない質量差」になる【2026年版】
質量分析

ネイティブMS徹底解説 ― 横軸の m/z の値が、そのまま「分けられない質量差」になる【2026年版】

ネイティブMSは質量を直接測っていない。測っているのは m/z で、質量は電荷の割り当てから逆算した値である。この構造には計算できる限界がある。質量 M・電荷 z のイオンは、M よりちょうど M/z だけ重い z+1 価のイオンと同じ位置に来る。つまり分けられない質量差の大きさは、そのピークが出ている m/z の値そのものである。AAV カプシドではこの閾値 21〜25 kDa が、VP1→VP3 置換の質量差 21.9 kDa と一致してしまう。

質量分析計は、質量を測っていません。測っているのは m/z、つまり質量を電荷で割った値です。

普通の低分子分析ではこの区別を意識しなくて済みます。電荷は 1 か 2 で、同位体パターンを見れば一目で決まるからです。 しかしタンパク質複合体やウイルスカプシドを折りたたまれたまま測るネイティブMSでは、この区別が そのまま測定の限界になります。ある総説はこう書いています。

ピークは …… 多価イオンとして測定された質量 (m) と電荷 (z) の比、m/z に対応しており、 質量の間接的な測定値を与える。

間接的、というのは「電荷を当ててから逆算する」という意味です。そして電荷の当て方には、 計算で出せる限界があります。

質量 M・電荷 z のイオンは、M よりちょうど M/z だけ重い z+1 価のイオンと、まったく同じ m/z に現れます。 そして m/z ≒ M/z ですから、

分けられない質量差の大きさは、そのピークが出ている横軸の値そのものです。

m/z 24,000 に出ているイオンは、24 kDa 違う分子と重なります。実際に、遺伝子治療ベクターの AAV カプシドでは、この閾値(21〜25 kDa)が VP1→VP3 置換 1 個の質量差 21.9 kDa と 一致してしまいます。分解能をいくら上げても分けられません。

この記事は、その構造を導出して数値で確かめ、では何ができるのかまでを扱います。

この記事の読み方

本記事の読み進め方を示す図。これから学ぶ方は1〜4節、すでに測っている方は5〜9節を読む。数値計算はすべて筆者のもので、外部から借りているのは重なりの条件の定義だけである
図解:これから学ぶなら 1〜4 節、測る立場なら 5〜9 節。
  • これから学ぶ方:1〜4 節を読んでください。ネイティブMSが何を測っているか(1・2 節)と、 なぜ限界が生まれるか(3・4 節)が分かります。
  • すでに測っている方:5〜9 節が実務の核です。対象ごとの閾値(5〜7 節)、電荷を減らす解と その代償(8 節)、電荷を直接測る解(9 節)。
  • 本記事の数値計算はすべて筆者のものです。外部から借りているのは「重なりの条件」の定義だけで、 そこから先は自分で解いて検証しました。モデルと仮定は 3 節に、限界は末尾に書いています。

1. ネイティブMSは何を測っているのか

変性LC-MSとネイティブMSを比べた図。ネイティブMSはタンパク質や複合体を折りたたまれたまま非共有結合を保ったままイオン化する。ピークはm/zに対応しており質量の間接的な測定値を与える。典型的には100から200ミリモルの酢酸アンモニウム中性pHから分析し、揮発性バッファーが必須で5分未満のオンラインバッファー交換が求められる
図解:折りたたまれたまま測る。だから揮発性の緩衝液が要る。

ネイティブMS(native MS)は、タンパク質や複合体を非変性条件――折りたたまれたまま、 非共有結合を保ったまま――イオン化して測る手法です。変性させて測る通常の LC-MS とは、 見ているものが違います。

総説は測定条件をこう書いています。

生体分子とその非共有結合複合体を、揮発性の「生理的」溶液条件 (典型的には 100〜200 mM 酢酸アンモニウム、中性 pH)から分析し、イオン化して気相へ移して検出する。

酢酸アンモニウムを使うのは、揮発性だからです。リン酸緩衝液や塩化ナトリウムのような不揮発性の塩は イオン化を妨げ、付加物としてピークを広げます。だから測定前にバッファー交換が要ります。

生体分子の nMS 分析では、分析に先立って試料を nMS に適合する揮発性溶液へ「バッファー交換」することが 通常必要であり、オフライン(手作業)で行うと時間がかかる。

この一手間が、ネイティブMSを日常のルーチンにしにくくしてきました。総説は解決策として 5 分未満のオンラインバッファー交換(OBE)を挙げています。

2. 電荷は「隣の電荷状態との間隔」から決めている

電荷状態分布から質量を逆算する仕組みを示す図。m/zは質量Mに電荷zとプロトン質量の積を足して電荷zで割った値で、M割るzにプロトン質量を足したものに等しい。隣り合う電荷状態の間隔はM割るzの2乗にほぼ等しく、間隔と位置の比から電荷が決まり質量が出る。質量を決めているのはピークの位置ではなく隣との間隔である
図解:質量を決めているのは、ピークの位置ではなく隣との間隔。

ネイティブMSのスペクトルには、同じ分子が電荷の違う一連のピーク(電荷状態分布)として現れます。 質量はここから逆算します。

電荷 z のイオンの m/z は次のとおりです(m_p はプロトンの質量 1.00728 Da)。

m/z = (M + z・m_p) / z = M/z + m_p

隣り合う電荷状態の間隔は M/z − M/(z+1) ≒ M/z² ですから、間隔と位置の比から z が決まります。 z が決まれば M が出ます。つまり 質量を決めているのは、ピークの位置ではなく「隣との間隔」です。

ここが要点です。隣との間隔が読めなくなった瞬間に、質量は決まらなくなります。

3. 重なりの閾値は、横軸の値そのものである

重なりの閾値がM割るzに等しいことを示す表と検算。質量80万で電荷65のとき数値解12,307.7とM割るz 12,307.7が4かける10のマイナス12乗の差で一致するなど5例。GroELは65プラス電荷状態を中心に12,340 m/zで検出され質量802,035 Da、閾値は12,339 Daになる
図解:閾値 Δ = M/z = 横軸の値からプロトン1個ぶんを引いた値。

では、どういうときに間隔が読めなくなるのか。原著はその条件をこう定義しています。

ここで m_analyte は電荷 z_n の分析種の質量であり、これは追加質量 Δmass をもつイオンの z_n+1 電荷状態と完全にピークが重なる

つまり、質量 M・電荷 z のイオンと、質量 M+Δ・電荷 z+1 のイオンが同じ m/z に来る条件です。 式にすると、

(M + z・m_p) / z = (M + Δ + (z+1)・m_p) / (z+1)

これを Δ について解きます。両辺に z(z+1) を掛けて展開すると、z·M の項と z²·m_p の項と z·m_p の項が きれいに消えて、

Δ = M / z

が残ります。分けられない質量差は、質量を電荷で割った値です。そして m/z = M/z + m_p ですから、

Δ = (そのピークが出ている m/z の値)− 1.00728 Da

実質的に 横軸の値そのものです。

数値で確かめる

上の式変形が正しいか、二分法で数値的に解いて確かめました。

M (Da) z m/z 数値解 Δ M/z
800,000 65 12,308.7 12,307.7 12,307.7 4×10⁻¹²
148,000 25 5,921.0 5,920.0 5,920.0 −1×10⁻¹¹
50,000 17 2,942.2 2,941.2 2,941.2 −8×10⁻¹²
3,760,000 151 24,901.7 24,900.7 24,900.7 −4×10⁻¹⁰
3,760,000 15 250,667.7 250,666.7 250,666.7 −4×10⁻¹⁰

数値解と M/z は完全に一致します。そして Δ は m/z よりちょうど 1.007 Da だけ小さい ―― プロトン 1 個ぶんです。

実測値で検算する

原著は GroEL(細菌のシャペロニン)について、こう報告しています。

GroEL は 65+ 電荷状態を中心に 12,340 m/z で検出され、観測されたネイティブ電荷状態の包絡は 59+ から 70+ のあいだであった。

この値から逆算すると M = 65 ×(12,340 − 1.007) = 802,035 Da(802 kDa)。 そして閾値 Δ = M/z = 12,339 Da です。横軸の 12,340 とほぼ同じ数字が、そのまま 「分けられない質量差」になっています。

電荷包絡の端まで見ると、59+ で 13,594 Da、70+ で 11,458 Da。電荷が大きいほど閾値は小さくなります。

本記事のモデルと仮定

  • 計算は上の重なり条件の数値解です。借りているのは条件の定義だけで、Δ = M/z の導出と検証は筆者が行いました
  • 電荷の推定には経験則 z = 0.0778 √M(Rayleigh 極限に基づく)を仮定しました。妥当性は 5 節で検算します
  • イオンの脱溶媒和は完全と仮定しています。実際には付加物がピークを広げ、状況を悪化させます
  • 装置の分解能・イオン透過効率・検出感度は考慮していません

4. 分解能を上げても、この重なりは解けない

分解能では重なりが解けないことを示す図。AAV8で質量Mで電荷151のイオンと、質量Mプラス24,901 Daで電荷152のイオンは、どちらもm/z 24,901.6695に来て差は0.00 m/zとなり完全に同一点である。ほぼ無限の分解能をもってしても分離できない
図解:差 0.00 m/z ― 同じ点にあるものは、分解能では分けられない。

「分離できないなら分解能を上げればよい」と考えたくなります。効きません。

AAV8(M = 3.76 MDa)の z = 151 で計算すると、

  • 質量 M、電荷 151 のイオン:m/z = 24,901.6695
  • 質量 M + 24,901 Da、電荷 152 のイオン:m/z = 24,901.6695

差は 0.00 m/z。完全に同一点です。分解能とは「近い 2 点を分ける能力」ですから、 同じ点にあるものは原理的に分けられません。原著もこう書いています。

ほぼ無限の分解能をもってしても分離できない(Δmass において完全なピーク重なりが起きる)。

これは装置の性能不足ではなく、m/z という測り方そのものが持つ構造です。

5. 対象ごとに「閾値」と「不均一性の刻み」を並べる

分析対象ごとに閾値と不均一性の刻みを比べた表。小さなタンパク質と脂質リガンドは閾値2,727 Daに対し刻み700 Daで分けられる。抗体のグリコフォームは閾値4,945 Daに対し刻み162 Daで分けられる。DARが6違うADCは閾値4,945 Daに対し刻み7,896 Daで重なる。GroEL14量体は閾値11,511 Daに対し刻み1,000 Daで分けられる。AAV8カプシドは閾値24,924 Daに対し刻み21,900 Daで境界である
図解:刻みが閾値より小さければ分けられる。大きければ重なる。

実務で問題になるのは、その試料の不均一性の刻みが閾値より大きいかどうかです。並べてみます。

まず仮定した電荷則を検算します。z = 0.0778√M に GroEL の質量を入れると 69.7。 実測の包絡 59〜70 の中に入ります。AAV8 では 150.9 となり、閾値は 24.9 kDa ―― 原著が見積もった「21 ± 9 kDa」の範囲内です。この経験則は使えます。

対象 M (kDa) z m/z 閾値 Δ (Da) 不均一性の刻み (Da) 判定
小さなタンパク質+脂質リガンド 45.0 16.5 2,728 2,727 700(リガンド1分子) 分けられる
抗体(グリコフォーム) 148.0 29.9 4,946 4,945 162(ヘキソース1個) 分けられる
抗体(DAR が 6 違う ADC) 148.0 29.9 4,946 4,945 7,896(薬物6個ぶん) 重なる
GroEL 14 量体 802.0 69.7 11,512 11,511 1,000(小さな結合分子) 分けられる
AAV8 カプシド 3,760.0 150.9 24,925 24,924 21,900(VP置換1個) 境界

読み方は単純です。刻みが閾値より小さければ分けられる。大きければ重なる。

抗体の糖鎖不均一性(ヘキソース 1 個で 162 Da)は閾値 4,945 Da に対して 30 分の 1 ですから、 まったく問題になりません。抗体をネイティブMSで測るのが「うまくいく」のは、この余裕があるからです。

6. ADC はどこから重なるか

ADCが重なり始める条件を示す表と図。DARの差が1なら薬物1個が4,945 Da、2なら2,472 Da、4なら1,236 Da、6なら824 Da、8なら618 Daを超えると重なる。vc-MMAE級のリンカー薬物約1,316 Daなら6個で7,896 Daとなり、抗体の閾値4,945 Daを超えるため分離不能になる
図解:DAR が 6 違う2種は、薬物が 824 Da を超えると重なる。

一方、同じ抗体でも抗体薬物複合体(ADC)になると話が変わります。原著は実測を踏まえてこう書いています。

ネイティブの電荷状態と搭載された薬物のより大きなサイズから、隣接する 2 つの DAR(薬物抗体比)0 と 6 の変異体のイオンがピーク重なり窓に入り、 より低分解能の質量分析計では分離不能になると予測される。実験的にも報告されている。

これを自分で計算しました。抗体の閾値 4,945 Da を DAR 差で割ると、薬物 1 個あたり何 Da を超えると 重なるかが出ます。

DAR の差 重なり始める薬物 1 個の質量
1 4,945 Da
2 2,472 Da
4 1,236 Da
6 824 Da
8 618 Da

DAR が 6 違う 2 種が重なるのは、リンカー薬物が 824 Da を超えたときです。 実際の ADC で使われる vc-MMAE 級のリンカー薬物(約 1,316 Da)なら、6 個で 7,896 Da となり、 閾値 4,945 Da をはっきり超えます。原著の実験報告と、独立に計算した閾値が一致しました。

7. AAV ― 閾値と刻みが同じ大きさになってしまった例

いちばん厳しいのが遺伝子治療ベクターの AAV です。原著はカプシドの構造をこう説明しています。

60 量体の AAV カプシド(約 3.7 MDa)は、質量の異なる 3 種類の構造的に交換可能なサブユニット変異体 (VP1、VP2、VP3)から確率的に組み上がり、その結果 1891 通りのカプシド化学量論という きわめて不均一な質量分布が生じる。

そして、こう続きます。

このような粒子の質量と予想される電荷を式に当てはめると、ピーク重なりが起きると予想される Δmass は およそ 21 ± 9 kDa の範囲にある。…… この質量差は、VP1 から VP3 への置換 1 個の質量差 (AAV8 で 21.9 kDa)と一致しており、AAV が示す複雑な干渉パターンを説明する。

閾値と、不均一性の刻みが、同じ大きさなのです。

筆者の計算でも、AAV8(3.76 MDa)の閾値は電荷 151 で 24.9 kDa、140 で 26.9 kDa、160 で 23.5 kDa。 そして 電荷が 172 を超えると閾値が 21.9 kDa を下回ります。ネイティブの電荷包絡はこの値をまたぐので、 包絡の一部では必ず重なります。原著の「21 ± 9 kDa の範囲で重なりが起きる」はこの意味です。

しかも AAV の不均一性は VP 組成だけではありません。別の総説はこう整理しています。

組換え AAV ベクターは複雑な不均一性を示す。すなわち完全カプシド(完全なゲノムを含む)、 空カプシド(ゲノムを含まない)、部分充填カプシド(ゲノム断片を含む)、および宿主細胞・ ヘルパー DNA・プラスミド骨格に由来する混入した遺伝物質である。

そして同じ総説の結論は率直です。

分析法は進歩し続けているが、カプシド内容物を包括的かつ明確に評価できる単独の試験法は存在しない。

8. 電荷を減らすという解 ― そして m/z の上限という代償

電荷低減が閾値とm/zに与える影響を示す表。電荷低減0パーセントで電荷150.9、m/z 24,925、閾値24.9 kDaで境界。30パーセントで105.6、35,606、35.6 kDa。50パーセントで75.4、49,849、49.8 kDa。70パーセントで45.3、83,080、83.1 kDa。80パーセントで30.2、124,620、124.6 kDa。90パーセントで15.1、249,239、249.2 kDa。閾値が10倍になればm/zも10倍になる。通常のOrbitrapの上限約20,000 m/zを大きく超えるためUHMR対応機が必要になる
図解:閾値が 10 倍になる代わりに、m/z も 10 倍になる。

閾値 Δ = M/z は、z を小さくすれば大きくなります。これが電子捕獲電荷低減(ECCR)の原理です。 タンパク質カチオンに電子を捕獲させ、解離させずに電荷だけを下げます。

AAV8 で計算しました。

電荷の減少 z m/z 閾値 Δ (kDa) VP 刻み 21.9 kDa
0 % 150.9 24,925 24.9 境界
30 % 105.6 35,606 35.6 分けられる
50 % 75.4 49,849 49.8 分けられる
70 % 45.3 83,080 83.1 分けられる
80 % 30.2 124,620 124.6 分けられる
90 % 15.1 249,239 249.2 分けられる

閾値は 10 倍になりますが、m/z も 10 倍になります。これが取引条件です。

原著の実測はこの表と整合します。

AAV8 カプシドを最大 90 % 電荷低減することで、シグナルは 100,000 m/z を大きく超えて押し上げられ、 ……遺伝物質を積んだカプシドについてさえ、電荷状態の分離と平均質量の決定が可能になった。 装置に小さな改造を加えれば、UHMR 装置は 200,000 m/z を超える電荷低減イオンシグナルを検出できる。

実際の空カプシドのスペクトルは「約 80,000 m/z から 200,000 m/z にわたる幅広い山」として現れ、 そこから平均質量 3.76 MDa が得られました。完全カプシドとの差から求めたゲノム質量は 0.900 ± 0.046 MDa です。

つまり「測れるようになる」代わりに、装置の m/z 上限に当たります。通常の Orbitrap の上限は 20,000 m/z 前後ですから、この領域は UHMR のような高 m/z 対応機でなければ届きません。

9. 電荷を直接測るという解 ― CDMS

CDMSの位置づけと使い分けを示す図。CDMSは1個ずつのイオンについてm/zと電荷を同時に測るため、電荷を間隔から推定せず重なりの問題が生じない。代償はスループットと統計である。刻みが閾値より十分小さければ通常のネイティブMS、刻みが閾値に近いか超えるなら電荷低減かCDMS、質量分布そのものが知りたいならCDMSを選ぶ
図解:使い分けは「閾値と刻みの比較」から決まる。

もうひとつの解が、電荷検出質量分析(CDMS)です。1 個ずつのイオンについて m/z と電荷を 同時に測ります。電荷を推定しないので、そもそも重なりの問題が生じません。

閾値 Δ = M/z は「電荷を隣との間隔から推定する」ことの帰結でした。推定をやめれば、制約も消えます。

代償はスループットと統計です。1 個ずつ測るので、分布を描くには多数のイオンを蓄積する必要があります。 不均一性そのものを分布として見たいときには適していますが、微量成分の検出には向きません。

使い分けの原則は単純です。

  • 不均一性の刻みが閾値より十分小さい(抗体の糖鎖など)→ 通常のネイティブMSで足りる
  • 刻みが閾値に近いか超える(ADC の高 DAR、AAV)→ 電荷低減か CDMS
  • 質量分布そのものが知りたい(空/完全カプシド比)→ CDMS

10. では、何を報告すればよいか

ネイティブMSの結果で報告すべき7項目を示す図。観測したm/z範囲と電荷状態の割り当て、想定される不均一性の刻み、閾値と刻みの比較、電荷低減の有無と程度、バッファー交換の方法と経過時間、緩衝液の組成と濃度、平均質量か分布か。閾値はm/zから即座に計算できるのに報告されることはほとんどない
図解:閾値は m/z から即座に計算できるのに、報告されない。

ネイティブMSの結果を読む・書くときに、最低限そろえるべき項目です。

  1. 観測した m/z 範囲と電荷状態の割り当て。閾値はここから直に計算できます
  2. その試料で想定される不均一性の刻み(糖鎖、薬物、サブユニット置換)
  3. 閾値と刻みの比較。刻みが閾値に近いなら、分離できていない可能性を明示する
  4. 電荷低減の有無と程度。使ったなら、m/z がどこまで上がったか
  5. バッファー交換の方法と、測定までの経過時間
  6. 緩衝液の組成と濃度(酢酸アンモニウムの濃度、pH)
  7. 平均質量か、分布か。CDMS なら積算したイオン数

とくに 3 番です。閾値は m/z から即座に計算できるのに、報告されることはほとんどありません。 横軸の値を見れば分かる、という点は覚えておく価値があります。

分析者の視点

分析者が持つべき10の視点を示す図。ネイティブMSは質量を直接測っていない、質量を決めているのは隣の電荷状態との間隔である、分けられない質量差はM割るzである、スペクトルを見たらまず横軸の値を読む、分解能を上げても解決しない、自分の試料の不均一性の刻みを見積もる、抗体の糖鎖解析がうまくいくのは刻みが閾値の30分の1だからである、電荷を下げれば閾値は上がるがm/zも同じ倍率で上がる、電荷を直接測れば制約は消える、AAVには単独で完結する試験法が存在しない
図解:10 の視点 ― まず横軸の値を読む。
  1. ネイティブMSは質量を直接測っていない。測っているのは m/z で、質量は電荷の割り当てからの逆算である。
  2. 質量を決めているのはピークの位置ではなく、隣の電荷状態との間隔である。間隔が読めなくなれば質量も決まらない。
  3. 分けられない質量差は Δ = M/z。これは横軸の m/z の値からプロトン 1 個ぶんを引いた値である。
  4. スペクトルを見たら、まず横軸の値を読む。それがその測定の「分解できない質量差」である。
  5. 分解能を上げても解決しない。重なる 2 つは同じ点にあるので、原理的に分けられない。
  6. 自分の試料の不均一性の刻みを見積もる。糖鎖 162 Da、薬物 1 個 1 kDa 級、VP 置換 21.9 kDa。
  7. 抗体の糖鎖解析がうまくいくのは、刻みが閾値の 30 分の 1 だからである。運ではなく余裕がある。
  8. 電荷を下げれば閾値は上がるが、m/z も同じ倍率で上がる。装置の上限とセットで考える。
  9. 電荷を直接測れば制約は消える(CDMS)。代わりにスループットと統計を払う。
  10. AAV には単独で完結する試験法が存在しない。総説がそう明記している。複数法を組み合わせる。

まとめ

本記事の要点を原理と限界と解決策の3列でまとめた図。原理はネイティブMSが質量の間接的な測定であること、閾値がM割るzであること、分解能では解決しないこと、GroELの実測。限界は抗体の糖鎖162 Daは閾値4,945 Daに対し余裕があること、ADCはDAR差6で薬物824 Daを超えると重なること、AAV8の閾値21から25 kDaがVP1からVP3への置換21.9 kDaと一致し電荷172を超えると重なること。解決策は電荷を90パーセント下げると閾値249 kDaだがm/zも249,239に達すること、CDMSは重なりを回避するがスループットと統計を代償とすること、AAVを包括的かつ明確に評価できる単独試験法はないこと
図解:原理・限界・解決策の対応。
  • ネイティブMSが与えるのは m/z、すなわち質量の間接的な測定値である。質量は電荷の割り当てから逆算する。
  • 質量 M・電荷 z のイオンは、M より M/z だけ重い z+1 価のイオンと完全に同じ m/z に現れる。 重なり条件を解くと Δ = M/z、すなわち 横軸の値からプロトン 1 個ぶんを引いた値になる。 二分法による数値解と 10⁻¹⁰ 以下で一致することを確認した。
  • GroEL は 65+ で 12,340 m/z に出る。閾値は 12,339 Da。横軸の数字がそのまま閾値である。
  • 分解能では解決しない。重なる 2 つは差 0.00 m/z の同一点にあり、原著も 「ほぼ無限の分解能でも分離できない」と書いている。
  • 抗体の糖鎖(162 Da)は閾値 4,945 Da の 30 分の 1 で余裕がある。一方 DAR が 6 違う ADC は 薬物が 824 Da を超えると重なり、vc-MMAE 級(約 1,316 Da)では 7,896 Da となって閾値を超える。
  • AAV8 は閾値(21〜25 kDa)と VP1→VP3 置換の質量差(21.9 kDa)が一致する。 電荷が 172 を超えると閾値が刻みを下回り、ネイティブの電荷包絡はこの値をまたぐ。
  • 電荷を 90 % 下げれば閾値は 24.9 → 249 kDa になるが、m/z も 24,925 → 249,239 になる。 原著の実測(80,000〜200,000 m/z の山、平均質量 3.76 MDa、ゲノム質量 0.900 ± 0.046 MDa)と整合する。
  • CDMS は電荷を直接測るので重なりの問題が生じない。代償はスループットと統計である。
  • AAV について、カプシド内容物を包括的かつ明確に評価できる単独の試験法は存在しないと総説は明記している。

用語集

  • ネイティブMS:タンパク質や複合体を非変性条件のままイオン化して測る質量分析。
  • 電荷状態分布:同じ分子が電荷の違う一連のピークとして現れたもの。質量はここから逆算する。
  • m/z:質量を電荷で割った値。質量分析計が直接測っている量。
  • 重なりの閾値 Δ:ある電荷状態と隣の電荷状態が同じ m/z に来てしまう質量差。Δ = M/z。
  • ECCR(電子捕獲電荷低減):タンパク質カチオンに電子を捕獲させ、解離させずに電荷を下げる手法。
  • CDMS(電荷検出質量分析):1 個のイオンについて m/z と電荷を同時に測り、質量を直接求める手法。
  • AAV(アデノ随伴ウイルス):遺伝子治療のベクター。60 量体カプシドで約 3.7 MDa。
  • VP1 / VP2 / VP3:AAV カプシドを構成する 3 種のサブユニット。組成が確率的に決まるため不均一になる。
  • 空カプシド / 完全カプシド / 部分充填カプシド:ゲノムを含まない/完全に含む/断片を含むカプシド。
  • DAR(薬物抗体比):抗体薬物複合体で、抗体 1 分子あたりに結合した薬物の数。
  • 酢酸アンモニウム:ネイティブMSで使う揮発性の緩衝塩。典型的には 100〜200 mM、中性 pH。
  • UHMR:高 m/z 領域に対応した Orbitrap 系装置の構成。

出典

  1. K. I. P. Le Huray, T. P. Wörner, T. Moreira, M. Dembek, M. Reinhardt-Szyba, P. W. A. Devine, N. J. Bond, K. L. Fort ほか, "To 200,000 m/z and Beyond: Native Electron Capture Charge Reduction Mass Spectrometry Deconvolves Heterogeneous Signals in Large Biopharmaceutical Analytes", ACS Central Science 2024, 10, 1723–1731. doi:10.1021/acscentsci.4c00462(オープンアクセス) ―― 重なり条件の定義、Δmass ≈ 21 ± 9 kDa、VP1→VP3 置換 21.9 kDa、GroEL 65+ @ 12,340 m/z、 AAV8 の 90 % 電荷低減と 80,000〜200,000 m/z、平均質量 3.76 MDa、ゲノム質量 0.900 ± 0.046 MDa、 1891 通りの化学量論、ADC の DAR 0 と 6 の重なり。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11363327/
  2. L. M. Sternicki, S.-A. Poulsen, "Toward routine utilisation of native mass spectrometry as an enabler of contemporary drug development", RSC Medicinal Chemistry 2025. doi:10.1039/d5md00617a(オープンアクセス) ―― 「質量の間接的な測定値」、100〜200 mM 酢酸アンモニウム・中性 pH、バッファー交換と 5 分未満の OBE。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC12319726/
  3. L. F. Earley, S. Nelson, A. Dolinar Češarek, D. Dobnik, "It's what's on the inside that counts: Capsid content as a critical quality attribute for AAV characterization", Molecular Therapy Advances 2026. doi:10.1016/j.omta.2026.201765(オープンアクセス) ―― 完全/空/部分充填カプシドと混入遺伝物質、「包括的かつ明確に評価できる単独の試験法は存在しない」。 https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC13312189/

数値計算は筆者による。モデルと仮定は 3 節に、限界は「未確認・限界」に記載した。

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未確認・限界

本記事の限界を示す図。計算はモデル計算であり自身の試料の予測値として使ってはならない、電荷の推定に用いた経験則は仮定値で溶液条件等で変わる、イオンの脱溶媒和は完全と仮定している、分解能を有限にしたときの重なり窓の幅は定量しておらず判定は楽観的な評価である、ADCのリンカー薬物質量は代表値の仮定で824 Daという閾値のほうが筆者の計算結果である、CDMSのスループットや必要イオン数や不確かさは定量していない、日本薬局方等の公定書にネイティブMSの一般試験法は見当たらない
図解:計算はモデルである。自分の試料の予測値にしない。
  • 本記事の計算はすべてモデル計算であり、自分の試料の予測値として使ってはならない。方向と大きさの 感覚を得るためのものである。
  • 電荷の推定に用いた経験則 z = 0.0778 √M は仮定値である。GroEL(実測包絡 59〜70 に対し 69.7)と AAV8(原著の 21 ± 9 kDa に対し 24.9 kDa)で妥当性を確認したが、すべての分析種で成り立つ保証はない。 実際の電荷は溶液条件・装置条件・分子の表面積で変わる。
  • イオンの脱溶媒和は完全と仮定した。実際には塩や溶媒の付加物がピークを広げ、状況を悪化させる。
  • 分解能を有限にしたときの「重なり窓」は定量していない。原著は分解能が Δmass に窓を加えることを 図示しているが、本記事はその窓の幅を計算していない。したがって本記事の「分けられる/重なる」の 判定は、完全重なりの点だけを見た楽観的な評価である。
  • ADC のリンカー薬物の質量(約 1,316 Da)は代表値として置いた仮定であり、原著から取った値ではない。 824 Da という閾値のほうが筆者の計算結果である。
  • CDMS のスループット・必要イオン数・不確かさは定量していない。本記事では原理的な位置づけのみ扱った。
  • イオンモビリティによる分離、表面誘起解離(SID)によるトポロジー解析、質量光度法(mass photometry) との比較は扱っていない。
  • 日本薬局方をはじめとする公定書に、ネイティブMS の一般試験法は見当たらない。本記事は規制文書に 基づく記述を含まない。規制当局の期待値については確認できていない。

制作メモ:一次資料(オープンアクセス論文3報)を原著で検証したうえで執筆。重なり条件から Δ = M/z を 自分で導出し、二分法による数値解との一致、原著の実測値(GroEL 65+ @ 12,340 m/z、AAV8 の 21 ± 9 kDa)との照合という 2 つの方法で検証した。