日本薬局方〈2.23〉原子吸光光度法の全文を読むと、あることに気づく。
判定値が、ひとつもない。
装置構成の説明があり、フレーム方式・電気加熱方式・冷蒸気方式の操作手順があり、検量線法・標準添加法・内標準法の定量法がある。そして最後は「試験に用いる試薬、試液及びガスは測定の妨げとならないものを用いる」という一文で終わる。波長のずれの許容値も、吸光度の再現性の基準も、感度の下限値も、どこにも書かれていない。
同じ薬局方の〈2.24〉紫外可視吸光度測定法には、波長のずれ ±0.5 nm 以内、吸光度の測定値は平均値 ±0.002 以内(0.500 以下のとき)という具体的な数値がある。〈2.63〉の ICP 法にも質量真度や酸化物イオン生成比の判定値がある。原子吸光だけが、空白になっている。
では、この装置が正常に動いていることを、分析者は何をもって示すのか。
答えは薬局方の外にある。特性濃度 ―― 1% 吸収、すなわち吸光度 0.0044 を与える元素濃度である。メーカーは元素ごと・波長ごとにこの値を公表していて、自分の装置で実測した値と比べれば、装置が仕様どおりに動いているかが分かる。判定値がないからこそ、この数字を知っているかどうかが実力の差になる。
本記事は、この自己診断を出発点に、AAS を「選んだあと」に必要な実務 ―― 波長の選び方、干渉の消し方とその代償、黒鉛炉の温度プログラム、バックグラウンド補正4方式の使い分け ―― を一次資料の数値で追う。
なお、AAS を「そもそも選ぶべきか」という手前の問いは 元素分析法の全体像 で、規制値から必要な検出下限を逆算する形で扱った。本記事はその続きにあたる。
この記事の読み方
- 入門者の方:1〜4 節(特性濃度と波長選択)と 5・7 節(干渉の基本)を読めば、AAS が何を測っていて、どこで失敗するかが掴めます。専門用語は初出時に補足しています。
- 現場の分析者の方:8 節(標準添加法の制限)、9〜10 節(黒鉛炉)、11〜12 節(バックグラウンド補正)が本題です。特に 12 節は、装置を買うときの選択に直結します。
- 数値の扱い:本記事の数値はすべてメーカー公式資料または薬局方原文から取っています。筆者が計算した値は、その旨を明記しています。
1. 薬局方は、この試験法に数値をひとつも置いていない

まず原文を確認しておく。日本薬局方〈2.23〉原子吸光光度法の定義はこうである。
原子吸光光度法は,光が原子蒸気層を通過するとき,基底状態の原子が特有波長の光を吸収する現象を利用し,試料中の被検元素量(濃度)を測定する方法である.
装置は「光源部、試料原子化部、分光部、測光部及び表示記録部」からなり、光源部には中空陰極ランプ(hollow cathode lamp、HCL。測りたい元素そのものを陰極に使い、その元素の輝線だけを出すランプ)または放電ランプを用いる、と書かれている。
原子化部は三方式 ―― フレーム方式、電気加熱方式(黒鉛炉)、冷蒸気方式(さらに還元気化法と加熱気化法に分かれる)。特殊な装置として水素化物発生装置(貯留式または連続式)と加熱吸収セルがあり、「セレンなどの分析に用いることができる」。
そして定量法は三つ。検量線法(3種以上の濃度の標準溶液)、標準添加法(同量の試料溶液3個以上)、内標準法である。
ここまでが規定のすべてで、装置がどの程度の性能を示せば適合なのか、という基準はどこにも現れない。
これは薬局方の手抜きではない。原子吸光の感度は、バーナーの高さ、フレームの燃料比、ネブライザの状態、ランプの個体差といった条件で大きく動く。装置に依らない共通の判定値を置くことが、そもそも難しい。実際、薬局方が数値を置いたのは ICP 法だけだった(この対比は 元素分析法の全体像 の 9 節で扱った)。
だが「基準がない」ことと「管理しなくてよい」ことは別である。基準がないなら、分析者が自分で基準を持たなければならない。
2. 特性濃度 ― 装置が仕様どおりかを測る数字

その基準が特性濃度(characteristic concentration)である。PerkinElmer の公式ガイド Analytical Methods for Atomic Absorption Spectroscopy は、こう定義している。
原子吸光における特性濃度(「感度」と呼ばれることもある)は、1% 吸収(吸光度 0.0044)の信号を生じるのに必要な元素濃度(mg/L で表す)と定義される。
なぜ 0.0044 なのか。透過率 99%(吸収 1%)のとき、吸光度は −log(0.99) = 0.00436 である。つまり 0.0044 とは「1% 吸収」を吸光度に直しただけの数字で、原子吸光がまだ透過率で語られていた時代の名残りが残っている。
測り方は単純で、直線範囲内であれば既知濃度の吸光度から次式で求まる。
特性濃度 = 標準溶液の濃度 × 0.0044 ÷ 実測吸光度
ここからが実務上の要点である。同じガイドは、特性濃度チェック値という運用向けの数字も併記している。
特性濃度チェック値とは、記載された波長において、最適条件下でおよそ 0.2 吸光度の信号を生じる元素の濃度(mg/L)である。特性濃度チェックを用いることで、分析者は装置パラメータが最適化されているか、そして装置が仕様どおりの性能を出しているかを判定できる。
つまりこういうことだ。チェック値の濃度の標準液を測って、吸光度が 0.2 付近に出れば装置は正常。0.15 しか出なければ、どこかが劣化している ―― ネブライザの詰まり、バーナーの汚れ、ランプの消耗、光軸のずれ。薬局方が判定値を置かなかった空白は、この数字で埋めることができる。
しかもこの指標は業界標準として定着している。Analytik Jena の contrAA 800 技術データ(Version 12/2020)は、装置感度をこう書いている。
- フレーム:Cu 324 nm で 0.015 mg/L 1%Abs(10 cm バーナーヘッド、空気/アセチレン)
- 黒鉛炉:Pb 283 nm で 0.66 µg/L 1%Abs(20 µL、ピーク面積評価)
「1%Abs」は特性濃度そのものである。メーカーがカタログの感度欄にこの表記を使っているという事実が、この指標の位置づけを物語っている。
なお黒鉛炉では、濃度ではなく質量で表すほうが自然である(注入量が決まっているので)。これを特性質量(m₀)と呼び、上の Pb の値から換算できる。
0.66 µg/L × 20 µL = 13.2 pg (筆者による換算)
つまり contrAA 800 の黒鉛炉は、鉛 13 pg で吸光度 0.0044 を出す。日常点検で m₀ がこの値から大きく離れていけば、黒鉛管の劣化やプラットフォームの位置ずれを疑う根拠になる。
3. 特性濃度と検出下限は別物 ― 鉛 217.0 nm の罠

ここで、混同されがちな二つの数字を切り分けておく。同じ PerkinElmer ガイドは、検出下限をこう定義している。
検出下限とは、S/N 比 3 を与える元素の濃度と定義される。したがって検出下限は信号の振幅とベースラインのノイズの両方を考慮しており、ゼロと明確に区別できる最低濃度である。
そして重要な一文が続く。
特性濃度は吸収信号の大きさを表し、検出下限は信号の振幅とベースラインのノイズの両方を考慮する。(中略)同じ特性濃度でありながら、検出下限が異なることはありうる。
これが抽象論ではないことは、鉛の標準条件表を見れば分かる。同ガイドが挙げる鉛の主要2波長を比べてみよう。
| 波長 | 相対ノイズ | 特性濃度(mg/L) | 特性濃度チェック値(mg/L) | 直線範囲(mg/L) |
|---|---|---|---|---|
| 283.3 nm(推奨線) | 0.43 | 0.45 | 20.0 | 20.0 |
| 217.0 nm | 1.0 | 0.19 | 9.0 | 20.0 |
217.0 nm のほうが特性濃度が小さい、つまり感度が 2.4 倍良い。ところが相対ノイズも 2.3 倍大きい。
検出下限はおおよそ「ノイズ ÷ 感度」に比例する ―― つまり「相対ノイズ × 特性濃度」で比べられる。
283.3 nm:0.43 × 0.45 = 0.194
217.0 nm:1.0 × 0.19 = 0.19
(筆者による計算。差は約2%)
感度が 2.4 倍違うのに、検出下限はほとんど変わらない。そして PerkinElmer が推奨線として挙げているのは、感度で劣るほうの 283.3 nm である。
これが「感度が高い波長を選べばよい」という直感が外れる典型例だ。カタログの感度だけを見て 217.0 nm に飛びつくと、ノイズの大きさで期待した検出下限が出ずに悩むことになる。見るべきは感度単独ではなく、感度とノイズの組み合わせである。
4. 波長を替えることは、希釈の代わりになる

波長の選択には、もうひとつ実務的な使い道がある。感度をわざと落とすという使い方だ。
カルシウムの標準条件を見てみよう。
| 波長 | 特性濃度(mg/L) | 特性濃度チェック値(mg/L) | 直線範囲(mg/L) |
|---|---|---|---|
| 422.7 nm(主線) | 0.092 | 4.0 | 5.0 |
| 239.9 nm(副線) | 13.0 | 600.0 | 800.0 |
239.9 nm は 422.7 nm に比べて特性濃度が約 140 倍大きい(=感度が 140 分の1)。その代わり、直線範囲が 5.0 mg/L から 800 mg/L へ、約 160 倍に広がる(いずれも筆者による計算)。
高濃度のカルシウムを測るとき、選択肢は二つある。希釈して主線で測るか、希釈せずに副線で測るか。後者には明確な利点がある ―― 希釈操作が入らないので、希釈に伴う誤差と汚染のリスクが消える。
カドミウムではこの効果がさらに極端で、228.8 nm の特性濃度 0.028 mg/L に対し、副線 326.1 nm では 11.0 mg/L ―― 約 390 倍である(筆者による計算)。同ガイドによれば 326.1 nm の特性濃度チェック値は 500 mg/L なので、500 mg/L のカドミウム溶液を、希釈せずに吸光度 0.2 付近で読めるということになる。
鉛にいたっては 283.3 / 217.0 / 205.3 / 202.2 / 261.4 / 368.3 / 364.0 nm と 7 本の線が表になっていて、特性濃度は 0.19 mg/L から 67 mg/L まで並んでいる。濃度域に合わせて波長を選ぶというのは、原子吸光では標準的な手段である。
ただし副線を使うときは注意が要る。同ガイドは、多元素ランプを使う場合にスリット幅が他元素の吸収波長を通してしまう分光干渉が起こりうると指摘しており、対処法として「より狭いスリットを使う」か「別の波長を選ぶ」ことを挙げている。副線は主線より孤立していないことが多いので、確認が必要になる。
5. 化学干渉 ― カルシウムとリン酸という古典

PerkinElmer ガイドは、原子吸光の干渉を6つに分類している ―― 化学干渉、イオン化干渉、マトリックス干渉、発光干渉、分光干渉、バックグラウンド吸収。このうち「最も一般的」とされるのが化学干渉である。
分析している試料が、分析種との熱的に安定な化合物を含んでいて、それがフレームのエネルギーでは完全に分解されない場合、化学干渉が存在する。その結果、光を吸収できるフレーム中の原子の数が減少する。
教科書的な例が、カルシウムに対するリン酸の影響である。空気-アセチレンフレームではリン酸カルシウムが完全には解離せず、リン酸濃度が上がるほどカルシウムの吸光度が下がっていく。
対処は二つある。
(1) 解放剤(releasing agent)を加える。同ガイドの表現では「競合陽イオン」であり、妨害物質と優先的に反応して分析種を解放する。カルシウム-リン酸の場合はランタンを高濃度で加える。ランタンがリン酸を捕まえてカルシウムを自由にするので、カルシウムの吸光度がリン酸量に依存しなくなる。
(2) より高温のフレームを使う。空気-アセチレン(約 2300 °C)ではなく亜酸化窒素-アセチレン(約 2900 °C)を使えば、安定な化合物を分解するだけのエネルギーが得られる。同ガイドは「亜酸化窒素-アセチレンフレームを使えば化学干渉は観測されず、ランタンの添加は不要になる」と明記している。
もうひとつの例として、モリブデンの吸光度に対するカルシウム塩の影響が挙げられている。この場合はすでに亜酸化窒素-アセチレンを使っているので、アルミニウムを添加して干渉を消す。
Shimadzu のクックブックも同じ方針を示していて、アルカリ土類金属の干渉には Sr、La、EDTA その他のキレート試薬を加え、難解離性化合物による干渉には亜酸化窒素-アセチレンフレームが有効だとしている。
6. 高温フレームは干渉を消すが、感度を持っていく
ここで、5 節の「高温フレームを使えばよい」という解決策の代償を見ておきたい。#29 の ICP-OES で「干渉補正は無料ではない」と書いたのと同じ構図が、AAS にもある。
PerkinElmer ガイドは、各元素の標準条件ページの脚注に、亜酸化窒素-アセチレンフレームを使った場合の特性濃度を併記している。主要元素について並べると、こうなる。
| 元素・波長 | 空気-アセチレン(mg/L) | 亜酸化窒素-アセチレン(mg/L) | 感度の変化 |
|---|---|---|---|
| Ca 422.7 nm | 0.092 | 0.048 | 約 1.9 倍 向上 |
| As 193.7 nm | 1.0 | 1.4 | 約 1.4 倍 悪化 |
| Cd 228.8 nm | 0.028 | 0.11 | 約 3.9 倍 悪化 |
| Pb 283.3 nm | 0.45 | 2.7 | 6 倍 悪化 |
(感度の変化は特性濃度の比から筆者が計算。特性濃度が小さいほど感度が高い)
カルシウムだけが例外で、他の元素はすべて感度を失う。しかも鉛では 6 倍である。
理由は 7 節で扱うイオン化にある。フレームが高温になると、原子から電子が飛んでイオンになる。イオンは基底状態の原子ではないので、光を吸収しない。カルシウムのように化学干渉のほうが支配的な元素では高温化が得になるが、鉛やカドミウムのようにもともと解離しやすい元素では、イオン化で失うぶんのほうが大きい。
つまり 「困ったら高温フレーム」は、元素によって正解にも不正解にもなる。カルシウムでの成功体験を鉛に持ち込むと、感度を 6 分の1 に落として悩むことになる。
もうひとつ、フレームそのものが光を吸うという問題もある。同ガイドは砒素について、「空気-アセチレンフレームは、砒素の 193.7 nm 線において光源放射の 60% 以上を吸収または散乱する」と書いている。亜酸化窒素-アセチレンにすればフレーム吸収は減るが、上の表のとおり感度も落ちる。同ガイドの結論は「バックグラウンド補正の使用を推奨する。フレーム吸収を補正して S/N 比を改善するため」である ―― 11 節につながる話だ。
7. イオン化干渉 ― 妨害元素を、わざと大量に入れる

イオン化干渉は、対処法が直感に反するので独立させておく。
イオン化干渉は、フレーム温度が原子から電子を除去してイオンを生成するのに十分なエネルギーを持つときに起こる。この電子的再配置が基底状態の原子の数を減らすため、原子吸収が減少する。
対処法は、こうである。
イオン化干渉は、容易にイオン化する元素を過剰にブランク、標準溶液、試料に加えることで制御できる。この目的には通例、イオン化ポテンシャルが非常に低いアルカリ金属(K、Na、Rb、Cs)が用いられる。
考え方はこうだ。カリウムを大量に入れると、カリウムが真っ先にイオン化してフレーム中に電子をばらまく。電子が過剰にあれば、分析種のイオン化平衡が原子側に押し戻される。妨害になりうる元素を大量に入れることで、妨害を消す。
同ガイドはバリウムでの実例を挙げていて、カリウムの添加量を増やすにつれてバリウムの共鳴線での吸収が増え、同時にバリウムのイオン線での吸収が減っていく ―― イオンが抑制されて基底状態の原子が増えていることが、二つの線で同時に確認できる。
なお「より低温のフレームを使ってもイオン化干渉は消せるが、今度は化学干渉が出うる」とも書かれている。5 節・6 節と合わせると、フレーム温度は化学干渉とイオン化干渉のあいだのトレードオフを決めるつまみだということになる。ICP-OES で霧化ガス流量が頑健さと感度の両端にあったのと、同じ構造である。
8. 標準添加法は「最後の手段」である

マトリックス干渉 ―― 試料と標準の粘性・表面張力・燃焼特性の違いによる信号の増減 ―― に直面したとき、多くの分析者が最初に思いつくのが標準添加法である。試料そのものに標準を段階的に加えて検量するのだから、マトリックスの影響を受けたまま定量できる。理屈は正しい。
ところが、この方法には二重の制限がかかっている。しかも制限をかけているのが、互いに独立した二つの権威である。
制限その1:メーカーの警告。PerkinElmer ガイドはこう書いている。
ただし、この方法は他の種類の干渉に対しては正しい答えを与えないことがあるので、注意して使う必要がある。標準添加法はバックグラウンド吸収や他の分光干渉を補正せず、通常は化学干渉やイオン化干渉も補正しない。
さらに、
標準添加法は間接的な手順であり、検量線から直接濃度を求める方法ほど正確になることは決してない。可能であれば、適切な分析条件の選択や試料の化学的処理によって干渉を除去するほうが常に望ましい。標準添加法は、第一選択ではなく常に最後の手段と考えるべきである。
制限その2:薬局方の条件。日本薬局方〈2.23〉の 3.2 標準添加法には、こう書かれている。
ただし,この方法は,3.1.による検量線が原点を通る直線の場合にのみ適用できる.
この一文は見落とされやすいが、意味は重い。標準添加法を使う前に、通常の検量線が原点を通る直線であることを確認しておかなければならない。原点を通らない(ブランクにオフセットがある)か、曲がっているなら、外挿して求めた交点は正しい濃度を与えない。
ここには皮肉な構造がある。標準添加法を使いたくなるような困った試料ほど、検量線が原点を通る直線であることを確認しづらい。
PerkinElmer 側も、標準添加法を使うすべての溶液の吸光度が「検量線の直線部分に入っていなければならない」と条件を付けており、二つの資料は独立に同じ場所を指している。
実務上の判断としては、こうなる。標準添加法は「マトリックス干渉が確かに存在し、かつ検量線の直線性と原点通過が確認できていて、他の手段(マトリックスマッチング、分離、フレーム条件の変更)が尽きたとき」の手段である。困ったから使う、ではない。
なお、標準添加法にはもうひとつ使い道がある。同ガイドが指摘しているとおり、添加した検量線の傾きが水系標準の傾きと平行かどうかを見れば、干渉の有無そのものを判定できる。平行でなければ干渉が存在する。定量の手段としてより、診断の手段として使うほうが安全かもしれない。
9. 黒鉛炉 ― 灰化温度のジレンマが、マトリックスモディファイアを生んだ

ここから電気加熱方式(黒鉛炉、GFAAS)に移る。フレームより 2〜3 桁高感度だが、そのぶん扱いが難しい。Shimadzu のクックブックは、その理由をはっきり書いている。
電気加熱原子吸光では、黒鉛管という限られた空間の中で試料が加熱・原子化されるため、化学干渉はフレーム原子吸光よりはるかに大きくなる。
黒鉛炉の温度プログラムは、乾燥 → 灰化 → 原子化 → クリーニングと進む。このうち灰化(ashing)の段階が要である。灰化とは、原子化の前にマトリックスを飛ばしてしまう工程だ。マトリックスが残っていればバックグラウンド吸収の原因になるので、できるだけ高温で灰化したい。
ところが、ここにジレンマがある。同クックブックの鉛の例を追ってみよう。
- 灰化温度を 300 → 400 → 500 °C と上げていくと、バックグラウンド吸収は減っていく(ただし完全には消えない)。したがって、より高い灰化温度が望ましい。
- しかし、鉛は灰化温度 500 °C で揮発を始める。だから鉛の灰化温度は 500 °C より上げられない。
マトリックスより先に、分析種のほうが飛んでしまう。これが黒鉛炉の中心的な困難であり、そしてマトリックスモディファイア(matrix modifier)が存在する理由そのものである。
同クックブックの説明は明快だ。
試料を希釈することもバックグラウンド吸収を減らす手段のひとつだが、目的金属の濃度が非常に低い場合には適用できない。そのような場合にマトリックスモディファイアが用いられる。硝酸パラジウム(II) と硝酸ニッケルがマトリックスモディファイアとして使われる。これらは目的金属の揮発温度を上げる効果を持つ。すなわち、灰化温度を上げられるようになるため、バックグラウンド吸収を減らし、吸収感度を上げることができる。
つまりマトリックスモディファイアとは、分析種を化学的につなぎ止めて、灰化温度の上限を引き上げる試薬である。添加濃度は「一般に数 ppm レベル」とされる。
同クックブックが挙げる代表的な組み合わせを、主要元素について抜き出すと次のようになる。
| 元素 | モディファイア | 備考(同クックブックの記述) |
|---|---|---|
| Cd | Pd(NO₃)₂ + NH₄NO₃ / (NH₄)₂HPO₄ + HNO₃ / Mg(NO₃)₂ | 血液・血清・尿で ppb レベル可 |
| Pb | Mg(NO₃)₂ / La(NO₃)₃ / Pd・Pt(µg レベル) | NaCl、KCl、MgCl₂ 等の共存が PbCl₂ の昇華を防ぐ |
| As | Pd が最良、Mo・Zr・Ba も可 / La(NO₃)₃ | Ni の共存が有効 |
| Se | Mg(NO₃)₂ / Pd、Pt、Cu、Al、Ni | Ni 共存が有効(NiSe 生成) |
| Tl | Pd + HClO₄ / La(NO₃)₃ | Pd が TlCl の生成を抑える |
| Hg | 硫化物 + HNO₃ / Au、Pt、Pd(µg レベル) | HgS として揮発を防ぐ |
個別の注意も具体的である。カドミウムは「約 1% の (NH₄)₂HPO₄ を加えることで灰化温度を上げられる」、砒素は「Mg(NO₃)₂ または Ni(NO₃)₂ を加えることで灰化温度を上げられる」。
「モディファイアを入れる」のは、感度を上げるためではなく、灰化温度を上げるためである。この因果の向きを取り違えると、なぜ効いたのか(あるいは効かなかったのか)が説明できなくなる。
10. 黒鉛炉の温度プログラム ― アルゴンを止めると、感度が 5 倍動く
灰化以外の段階についても、Shimadzu クックブックには具体的な数値がある。実務でそのまま使える形にまとめておく。
灰化の昇温の仕方。ステップ加熱だけだと、乾燥後に塩が試料注入口から吹き出すことがある。そのため一般にはランプ加熱とステップ加熱を組み合わせる ―― 乾燥温度から灰化温度まで 10〜20 秒かけてランプ昇温し、そのあと灰化温度を保持する。保持時間は試料中の塩や有機物の量によるが、一般に 30〜60 秒。
灰化が足りているかの確認方法。これが実用的だ。測定モードを重水素ランプモード(=バックグラウンドだけを見るモード)にして原子化段階の吸収ピークを測り、灰化時間を延ばしても吸収の大きさが変わらなくなった時間を設定時間とする。バックグラウンドが下げ止まった点が、灰化の完了点である。
原子化温度。目的金属の原子化温度より少し高い温度で約 5 秒。ただし注意がある ―― カドミウムや鉛のような低融点金属では、原子化温度を高くしすぎると管内の原子滞留時間が極端に短くなり、かえって感度が落ちる。逆にホウ素・モリブデン・カルシウムのように管内に留まりやすい金属は、できるだけ高温で原子化するかパイロ被覆管を使う。
そして、ガス。ここが最も見落とされやすい。
乾燥および灰化の段階では、約 1 L/min のアルゴンを黒鉛管に流す。原子化の段階でアルゴンを流すと、感度が急激に低下する。したがってアルゴンは止める。アルゴン流量を 0 から 1.5 L/min まで変えることで、吸収感度を 5 倍の範囲で調整できる。
ガス流量というひとつの設定で、感度が 5 倍動く。アルゴンを流せば原子が管外に押し出されるので当然といえば当然だが、逆にいえば、この設定を誤っているだけで感度が 5 分の1 になりうる。感度が出ないときに真っ先に確認すべき箇所である。
クリーニング。原子化段階の最後に、残った金属と塩を蒸発させる。最高 3000 °C で 2〜3 秒あれば十分だが、低いほうが望ましい。標準的なクリーニング温度は原子化温度 +200 °C。原子化温度の低いカドミウムや鉛では約 2500 °C で行う。
注入量。最大 50 µL まで入るが、注入量と吸収感度は比例しない(管内での拡散面積と浸透深さが注入量で変わるため)。多く入れると低温部まで広がったり注入口から溢れたりして精度が落ちる。同クックブックの結論は 「10〜20 µL が理想」である。感度が足りないときに注入量を増やすのは、期待したほど効かない。
黒鉛管の種類。3 種類あり、使い分けが明確に書かれている。
| 種類 | 特徴 | 向き・不向き |
|---|---|---|
| 高密度黒鉛管 | 吸収信号の再現性に優れる | B・Ca・Mo など炭素と反応しやすい元素でメモリー効果。有機溶媒系は管への浸透で感度が急落しうる |
| パイロ被覆管 | 表面処理により浸透が少ない | 有機溶媒系に good。Al・Si・遷移金属・ランタノイドで感度が 2〜3 倍。ただし再現性は高密度管より劣ることがある |
| プラットフォーム型 | 1 mm 厚・数 mm² の黒鉛板を管内に設置。試料を間接的に均一加熱 | 共存物質の干渉とバックグラウンド吸収が減る。Cd・Pb など低沸点金属やマトリックスの多い試料に有効 |
プラットフォーム型の原理は重要だ。試料を管壁ではなく板の上に置くと、管の温度が先に上がり、気相が十分高温になってから試料が原子化される。原子化された瞬間に周囲がすでに高温なので、再結合や凝縮が起きにくい。これが黒鉛炉の干渉低減の基本原理である。
管の寿命については、同クックブックは「感度や再現性の低下がない限り、破損するまで使える」としつつ、試料の性状で寿命が大きく変わるので、あらかじめその試料での寿命を確認し、使用回数を数えておくことを推奨している。
11. なぜバックグラウンド補正が必要か ― 0.002 nm を、1 nm の窓から見ている

薬局方〈2.23〉は装置構成の説明の中で「バックグラウンド補正部を備えたものもある」と書き、方式として連続スペクトル光源方式、ゼーマン方式、非共鳴近接線方式、自己反転方式の4つを挙げている。ここが AAS の実装差が最も大きく出る部分で、装置選定にも直結する。
まず、なぜ補正が必要なのか。Thermo Fisher Scientific の技術資料 Design Considerations for High Performance Background Correction Systems in Atomic Absorption Spectrometry が、根本を数字で示している。
原子化温度において吸収線の幅は約 0.002 nm である。原子吸光分光光度計では、光源は通常中空陰極ランプであり、約 0.001 nm の線幅の共鳴放射を生じる。(中略)分光器は共鳴波長に合わせられるが、通常 0.1〜1.0 nm の波長範囲を通す ―― 原子吸収線の幅よりはるかに広い。
測りたいものは 0.002 nm の幅しかないのに、分光器は 0.1〜1.0 nm の窓を開けている。窓の幅は測りたい線の 50〜500 倍である。この隙間に、分析種以外のものが入り込む。
入り込むものは、同資料によれば二種類ある。
(1) 分子吸収。多くの試料マトリックスはハロゲン化物塩を高濃度で含み、原子化部で分子蒸気になる。分子の吸収スペクトルは幅が数十 nm におよぶ広帯域で、アルカリ金属ハロゲン化物では深紫外(220 nm 以下)で吸収が急増する。
(2) 散乱。完全に気化しきらないマトリックスが微粒子をつくり、中空陰極ランプの光を散乱させる。散乱も低波長で顕著に増える。
したがって同資料の結論はこうなる。
分子によるバックグラウンド吸収は、主共鳴線が 220 nm 以下の元素を、アルカリ金属ハロゲン化物を含むマトリックスで測定するときに、とりわけ厄介になる。これには鉛、カドミウム、砒素といった多くの有害重金属が、生体試料や環境試料(天然水、排水、体液)において含まれる。
規制で管理したい元素と、バックグラウンドが最も出る元素が、見事に重なっている。#28 で扱った ICH Q3D のクラス1元素(Cd・Pb・As・Hg)は、まさにこの領域にある。
さらに厄介なケースとして構造化バックグラウンドがある。マトリックス成分自身が原子化され、その吸収線が分析線の近くに来る場合だ。同資料は具体例を挙げている ―― 全血中のセレン定量では、マトリックス中の鉄が分光器のバンドパス内に線構造を示す。この場合、次節の連続光源方式では系統誤差が残る。
12. バックグラウンド補正の4方式と、それぞれの代償

補正の原理はどの方式も共通で、2回測ることに尽きる。1回目は分析線で「原子吸収+バックグラウンド」を測る。2回目は原子吸収だけを無視できるほど小さくした状態で「バックグラウンドのみ」を測る。引き算すれば真の原子吸収が残る。方式が違うのは、2回目でどうやって原子吸収だけを消すかである。
① 連続スペクトル光源方式(重水素ランプ方式)
2回目の測定に、重水素アークランプのような広帯域光源を使う。連続光源は分光器のバンドパス(約 1 nm)を「埋める」ので、そのうち原子が吸収するのは 0.002 nm 分だけ ―― 無視できる。バックグラウンドは広帯域なので、連続光源でも同じように吸収される。
同資料の評価は好意的だ。
連続光源法に基づく、よく設計されたバックグラウンド補正システムは、フレームおよび黒鉛炉の原子吸光測定で遭遇する非特異吸収の問題の大部分を補正できる。
代償と限界は、前提が崩れたときに現れる。「バンドパス内でバックグラウンドが波長に依存しない」という前提が成り立たない場合、つまり構造化バックグラウンドや直接の線重なりでは誤った結果を与える。また、重水素ランプは紫外域の光源なので、長波長側では使えない。
Thermo の実装(iCE 3000 シリーズの QuadLine)の数字を挙げておくと、4 電極設計の重水素アークランプを商用周波数の 4 倍(200/240 Hz)で電子的に変調し、デジタル信号処理と組み合わせて毎秒約 70 吸光度単位で変化する信号まで正確に補正できるという。これが速度として十分かどうかは、黒鉛炉側の数字と比べれば分かる ―― 同社の高速黒鉛炉 GFS35 は、全信号とバックグラウンド信号が毎秒最大 50 吸光度単位で独立に変化しうる。信号の変化速度に補正の追従速度が負けると、補正そのものが誤差源になる。
② ゼーマン方式
強磁場を原子化部にかけると、吸収線が複数の線に分裂する。分裂した線は磁場に対して平行・垂直方向に偏光しているので、光源側にも偏光子を入れておけば、磁場 ON のときは分析種の原子吸収を含まない測定ができる。
同資料は、ゼーマン方式の本質的な優位性をこう述べている。
ゼーマン法は、バックグラウンド吸収の測定が全信号の測定とまったく同じ波長・まったく同じバンドパスで行われる唯一の方法である。したがって、高度に構造化されたバックグラウンドスペクトルや、分光的重なりの場合すら補正できる。
11 節の「全血中セレンにおける鉄」のようなケースで有効なのは、この方式だけということになる。
代償は三つある。
(a) 装置が複雑で高価。「一部の元素で最適な線分裂を得るには、ほぼ 1 テスラ(10 キロガウス)までの磁場強度が必要」。Thermo の実装は最大約 0.9 テスラ(9 キロガウス)を、100/120 Hz で変調している。
(b) フレームには使えない。磁石を原子化部の周囲に置く必要があるため、「フレーム測定に適用するのは非現実的で、市販のシステムは通常、黒鉛炉分析に限られる」。
(c) そして異常ゼーマン効果による過補正。これが最も重要で、最も知られていない。
原子吸光分光法で最もよく測定される元素の多くを含む一部の元素は、「異常」ゼーマン分裂として知られる現象を示す。この場合、分裂した線の一成分が元の線とまったく同じ波長に残る。したがって磁場 ON でも原子吸収は完全にはゼロにならず、バックグラウンドのみの測定に分析種の原子吸収が混入する。これを全信号から差し引くと原子信号が過補正され、見かけの感度が下がり、検量線の曲がりが増す。
バックグラウンド補正が、感度と直線性を持っていく。しかもそれが起きるのは「よく測る元素の多く」である。
もうひとつ、実務上の制約がある。同資料によれば、変調式ゼーマンは磁石の過熱を避けるため原子化段階でしか補正できない。乾燥・灰化の前処理段階では補正後の信号が見られないので、メソッド開発に必要な情報が失われる。Thermo が iCE 3500 で「前処理段階は連続光源、原子化段階はゼーマン」という併用モードを用意しているのは、この穴を埋めるためである。
③ 自己反転方式(Smith-Hieftje 方式)
別の光源を用意せず、中空陰極ランプそのものを広帯域光源として使う。
中空陰極ランプは通常 25 mA までのランプ電流で動作し、原子吸光測定に必要な狭い輝線スペクトルを生じる。ピーク電流を数百ミリアンペアまで上げると、発光線は広がって自己反転する。この条件下では、狭い原子吸収線は広がった発光線のごく一部しか吸収できない。
低電流パルスで「全吸収」、高電流パルスで「バックグラウンドのみ」を測って引く。分光器の全波長範囲で補正できるのが利点で、しかも広がった発光線は真の連続光源ほどバンドパスを埋めきらないので、構造化バックグラウンドもある程度は補正できる(ただし実際の線重なりは補正できない)。
代償は深刻である。
欠点は、高電流パルスが中空陰極ランプに与える影響 ―― 専用設計のランプを使わない限り、ランプ寿命は著しく短くなる ―― と、高電流測定時に原子吸収が無視できるという仮定が破れることである。(中略)仮定が破れると、バックグラウンドのみの信号に原子信号の寄与が大きく混入する。これを差し引くと過補正になり、分析感度を(場合によっては 70% も)低下させ、検量線の曲がりを増大させる。
Shimadzu クックブックも、自装置の実装(BGC-SR)について同じ趣旨を書いている ―― 「BGC-SR 法では、原理上の理由から BGC-D2 法に比べて感度低下が生じる」。ただし逆に、「分析元素が 430 nm 以上の波長域にある場合は、補正精度の点で BGC-SR 法を使うべき」とも述べている。重水素ランプの発光が長波長側で足りなくなるためである。
④ 非共鳴近接線方式
薬局方は4番目にこの方式を挙げているが、本記事で参照できた一次資料(Thermo・PerkinElmer・Shimadzu)はいずれもこの方式を独立した項目として扱っていなかった。名称のとおり、分析線の近傍にある非共鳴線(その元素が吸収しない線)でバックグラウンドを測る方式である。現行の市販機での実装状況は本記事では確認できていないため、末尾の「未確認」に挙げる。
選択の整理
| 方式 | 補正できる範囲 | 主な代償 |
|---|---|---|
| 連続光源(D₂) | 非特異吸収の大部分。感度低下がない | 構造化 BG・線重なりは不可。紫外域に限られる |
| ゼーマン | 構造化 BG も分光的重なりも可。同一波長・同一バンドパス | 高価・黒鉛炉のみ・異常ゼーマンで過補正・変調式は原子化段階のみ |
| 自己反転 | 全波長域。構造化 BG も一部可 | ランプ寿命が短くなる・過補正で感度が最大 70% 低下しうる |
| 非共鳴近接線 | (本記事では未確認) | (同上) |
装置選定に落とすと、こうなる。フレームが主体なら、ゼーマンは選択肢に入らない ―― 連続光源方式が事実上の標準である。黒鉛炉で、かつマトリックスが複雑(生体試料・海水・排水)なら、ゼーマンの構造化バックグラウンド補正能力に価値がある。ただし感度は連続光源方式のほうが高いので、両方を切り替えられる装置が理想的、ということになる。
13. 感度を稼ぐ二つの方向 ― 化学(水素化物発生)と、光源(HR-CS AAS)

最後に、AAS の感度を伸ばす二つのアプローチを見ておく。方向がまったく違う。
化学で稼ぐ ― 水素化物発生と冷蒸気
薬局方〈2.23〉が「特殊な装置」として挙げていた水素化物発生装置は、原子化の手前に化学反応を挟む方式である。Shimadzu クックブックの説明はこうだ。
水素化物発生法は、試料を水素化ホウ素ナトリウムと反応させる。塩酸で酸性にして目的金属を還元し、水素と結合させて気体の金属水素化物を生成する。この気体を高温の原子化部に送って測定する。As、Se、Sb、Sn、Te、Bi、Hg などがこの方法で金属水素化物を生成する。
装置構成も具体的で、ペリスタルティックポンプで試料・5 M 塩酸・0.5% 水素化ホウ素ナトリウム溶液を反応コイルに送り、生成した水素化物を気液分離器で分けて原子化部へ導く。
この方式が効く理由は明快だ。分析種だけを気体にして取り出すので、マトリックスが後ろに置き去りになる。溶液を丸ごと霧化するフレームと違い、干渉源が原子化部に届かない。しかも試料の全量が気体として運ばれるので、霧化効率という損失(ICP-OES では約 2% しか届かないという話を #29 で扱った)が原理的に存在しない。
水銀については還元して常温で気化させる冷蒸気方式があり、薬局方はこれを原子化部の三方式のひとつとして本文に組み込んでいる(還元気化法と加熱気化法)。水銀は常温で蒸気圧を持つ唯一の金属なので、加熱すら要らない。
光源で稼ぐ ― HR-CS AAS
もうひとつの方向が、光源を中空陰極ランプから連続光源に置き換えるという発想である。高分解能連続光源原子吸光(HR-CS AAS)と呼ばれ、Analytik Jena の contrAA シリーズが代表的な実装になっている。
同社の contrAA 800 技術データ(Version 12/2020)から仕様を拾うと、こうなる。
| 項目 | 仕様 |
|---|---|
| 光源 | 水冷キセノンショートアークランプ(連続光源)。ランプ交換なしで元素・吸収線を切り替え |
| 波長範囲 | 185〜900 nm を連続的にカバー。72 元素まで。代替吸収線と分子吸収線(PO、CS、GaF 等)にもアクセス可 |
| 分光分解能 | 200 nm において 0.002 nm(As 193.7 nm で FWHM ≤ 3.8 pm) |
| 波長再現性 | 0.4 pm |
| 検出器 | CCD アレイ(200 ピクセル) |
| 分光器 | 高速シーケンシャル・エシェル配置(焦点距離 380 mm)、単光束、二重モノクロメータ(石英プリズム+回転格子) |
| 黒鉛炉 | 横加熱式(THGA)、0〜3000 °C を 0.5 °C 刻み、昇温速度 3000 °C/s まで |
| バックグラウンド補正 | 自動ベースライン補正(ABC)、参照測定による構造化バックグラウンドの補正、分光干渉補正(CSI) |
ここで 11 節の数字を思い出してほしい。吸収線の幅は約 0.002 nm、従来型分光器のバンドパスは 0.1〜1.0 nm。HR-CS AAS の分解能 0.002 nm は、吸収線の幅そのものと同じオーダーであり、従来型の 50〜500 分の1 である。
これが意味することは大きい。連続光源を使っても、分光器が吸収線と同じ幅まで絞れているなら原子吸収は測れる。そして CCD アレイは吸収線とその両脇のピクセルを同時に読むので、バックグラウンドの測定が「順番に2回」ではなく同時になる。12 節で見た「2回測る時間差が誤差を生む」という問題が、原理的に消える。
副次的な利点として、分子吸収線を使った非金属の分析(PO、CS、GaF など分子の吸収帯を測ってリン・硫黄・フッ素を定量する)と、ランプ交換なしでの多元素分析が可能になる。中空陰極ランプ方式では「測る元素の数だけランプが要る」という制約があったが、それが外れる。
ただし本記事は、HR-CS AAS が従来型より常に優れているとは書かない。上に挙げたのは1社の技術データであり、従来型との直接比較データ(同一試料・同一条件での検出下限や精度の比較)を一次資料で確認できていない。装置選定の判断材料としては、自分の試料で比較データを出してもらうのが筋である。
まとめ
- 日本薬局方〈2.23〉原子吸光光度法には、装置性能の判定値がひとつもない。装置構成・操作法・定量法(検量線法は3種以上、標準添加法は3個以上、内標準法)と「試薬・試液・ガスは測定の妨げとならないもの」で終わる(1 節)。
- 空白を埋めるのが特性濃度 ―― 1% 吸収(吸光度 0.0044)を与える濃度。特性濃度チェック値(約 0.2 吸光度を与える濃度)の標準液を測れば、装置が仕様どおりかを判定できる(2 節)。
- 特性濃度と検出下限は別物。鉛では 217.0 nm が 283.3 nm より感度 2.4 倍良いが、相対ノイズも 2.3 倍大きく、検出下限はほぼ同等(差 2%、筆者計算)。メーカーの推奨線は感度で劣るほうである(3 節)。
- 波長を替えることは希釈の代わりになる。カルシウムの副線 239.9 nm は感度が約 140 分の1 だが、直線範囲が約 160 倍に広がる。希釈誤差と汚染リスクが消える(4 節)。
- 高温フレームは化学干渉を消すが、感度を持っていく。亜酸化窒素-アセチレンに替えると Ca は約 1.9 倍向上する一方、Pb は 6 倍悪化、Cd は約 3.9 倍悪化する(5〜6 節)。
- 標準添加法は「最後の手段」である。メーカーは「バックグラウンド吸収・分光干渉を補正せず、通常は化学干渉・イオン化干渉も補正しない」と警告し、薬局方は「検量線が原点を通る直線の場合にのみ適用できる」と条件を付ける。困った試料ほどその確認がしづらい(8 節)。
- 黒鉛炉では、マトリックスより先に分析種が飛ぶ。鉛は 500 °C で揮発を始めるので灰化温度を上げられない。マトリックスモディファイアは、分析種の揮発温度を上げて灰化温度の上限を引き上げるための試薬である(9 節)。
- 原子化段階でアルゴンを止める。アルゴン流量 0〜1.5 L/min で感度が 5 倍の範囲で動く。注入量は 50 µL まで入るが10〜20 µL が理想で、増やしても感度は比例しない(10 節)。
- バックグラウンド補正が要る理由は、窓の幅の違いにある。吸収線は約 0.002 nm、分光器のバンドパスは 0.1〜1.0 nm ―― 50〜500 倍。分子吸収と散乱は 220 nm 以下で急増し、そこには Pb・Cd・As が並ぶ(11 節)。
- 4方式にはそれぞれ代償がある。連続光源は感度を損なわないが構造化 BG に無力。ゼーマンは唯一同一波長で測れるが黒鉛炉限定で、異常ゼーマンによる過補正が「よく測る元素の多く」で起きる。自己反転は全波長域で使えるがランプ寿命が縮み、過補正で感度が最大 70% 低下しうる(12 節)。
- 感度を稼ぐ方向は二つ。化学(水素化物発生・冷蒸気 ―― 分析種だけを気体化してマトリックスを置き去りにする)と、光源(HR-CS AAS ―― 分解能 0.002 nm で吸収線の幅に迫り、CCD でバックグラウンドを同時測定する)(13 節)。
判定値がない試験法を管理するとは、自分で基準を持つということである。特性濃度チェック値を日常点検に入れ、黒鉛炉なら特性質量を記録する。それが薬局方の空白に対する、分析者側の答えになる。
用語集
- 原子吸光光度法(AAS):基底状態の原子が特有波長の光を吸収する現象を利用して元素量を測る方法(日本薬局方〈2.23〉)。
- 中空陰極ランプ(HCL):測定したい元素を陰極に用い、その元素の輝線だけを発するランプ。線幅は約 0.001 nm。
- 特性濃度:1% 吸収(吸光度 0.0044)を与える元素濃度(mg/L)。装置感度の指標。
- 特性濃度チェック値:最適条件下でおよそ 0.2 吸光度を与える濃度。装置が仕様どおりかの判定に使う。
- 特性質量(m₀):黒鉛炉で吸光度 0.0044 を与える分析種の絶対質量。pg 単位で表す。
- 解放剤(releasing agent):妨害物質と優先的に反応して分析種を解放する添加剤。Ca-リン酸系のランタンが代表。
- イオン化緩衝剤:イオン化しやすいアルカリ金属(K、Na、Rb、Cs)を過剰に加え、分析種のイオン化を抑える添加剤。
- マトリックスモディファイア:分析種の揮発温度を上げ、黒鉛炉の灰化温度の上限を引き上げる試薬。Pd(NO₃)₂ や Ni(NO₃)₂ が代表。
- 灰化(ashing):黒鉛炉の温度プログラムのうち、原子化の前にマトリックスを飛ばす段階。
- プラットフォーム:黒鉛管内に置く黒鉛板。試料を間接加熱し、気相が十分高温になってから原子化させることで干渉を減らす。
- 構造化バックグラウンド:分光器のバンドパス内に線構造を持つバックグラウンド。連続光源方式では補正しきれない。
- 異常ゼーマン効果:磁場による分裂線の一成分が元の波長に残る現象。ゼーマン補正での過補正の原因。
- HR-CS AAS:高分解能連続光源原子吸光。キセノンショートアークランプと高分解能分光器・CCD を組み合わせた方式。
出典
- 第十九改正日本薬局方 一般試験法 2.23 原子吸光光度法(厚生労働省、2026年4月10日告示・同日適用) https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/001689414.pdf
- 収載ページ(第十九改正日本薬局方) — 独立行政法人 医薬品医療機器総合機構(PMDA) https://www.pmda.go.jp/rs-std-jp/standards-development/jp/0260.html
- PerkinElmer, Analytical Methods for Atomic Absorption Spectroscopy(特性濃度の定義・チェック値・検出下限・干渉6分類・標準添加法・元素別標準条件) http://www1.lasalle.edu/~prushan/Intrumental%20Analysis_files/AA-Perkin%20Elmer%20guide%20to%20all!.pdf
- Shimadzu, Atomic Absorption Spectrophotometry Cookbook(黒鉛炉の温度プログラム・ガス流量・黒鉛管3種・マトリックスモディファイア表・水素化物発生) https://sites.chemistry.unt.edu/~tgolden/courses/AA%20cookbook.pdf
- Thermo Fisher Scientific, Design Considerations for High Performance Background Correction Systems in Atomic Absorption Spectrometry(iCE 3000 Series Product Specifications)(吸収線幅・バンドパス・分子吸収・散乱・構造化 BG・連続光源/自己反転/ゼーマン各方式の原理と代償) https://assets.fishersci.com/TFS-Assets/CMD/Specification-Sheets/Design-Considerations-for-High-Performance-Background-Correction-Systems-in-AA-Spectrometry.pdf
- Analytik Jena, contrAA 800 Atomic Absorption Spectrometer — Technical Data(Version 12/2020)(HR-CS AAS の光源・波長範囲・分解能・検出器・黒鉛炉仕様・感度) https://fkv.it/images/files/cataloghi/analytik_jena/dati_tecnici/TechData_contrAA_800_en.pdf
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未確認・限界
- 非共鳴近接線方式:薬局方〈2.23〉はバックグラウンド補正の一方式として挙げているが、本記事で参照した Thermo・PerkinElmer・Shimadzu の技術資料はいずれもこれを独立項目として扱っていなかった。現行の市販機での実装状況は確認できていない。
- 特性質量の元素別一覧:Agilent が Characteristic Mass in Graphite Furnace Atomic Absorption Spectrometry という技術資料を公開していることは確認したが、同社ドメインが本記事の執筆時にアクセスを拒否したため内容を読めていない。本記事の特性質量 13.2 pg(Pb)は Analytik Jena の仕様値からの筆者による換算であり、他機種の値ではない。
- フレーム温度の数値:本文中の「空気-アセチレン 約 2300 °C、亜酸化窒素-アセチレン 約 2900 °C」は一般的に流通している概数であり、本記事が参照した一次資料には記載がない。厳密な値は装置・ガス比により変動する。
- PerkinElmer ガイドの版:参照した PDF に発行年の明記を確認できなかった。記載されている機種名(Perkin-Elmer 表記)から相応に古い版と推測されるが、特性濃度の定義・干渉の分類・標準添加法の位置づけといった原理的記述を引用対象としており、これらは版によって変わる性質のものではない。一方、元素別の特性濃度の実数値はネブライザや装置世代で変わりうるので、自装置の値はメーカー資料で確認されたい。
- Shimadzu クックブックの機種依存:黒鉛管の種類・BGC-SR と BGC-D2 の比較は同社装置に関する記述である。他社機で同じ命名・同じ挙動とは限らない。
- HR-CS AAS と従来型の比較:13 節に記したとおり、同一試料・同一条件での直接比較データを一次資料で確認できていない。
- USP〈852〉Atomic Absorption Spectroscopy:米国薬局方にも原子吸光の一般試験法があり、判定値の有無を日本薬局方と比較したかったが、本記事の執筆時に原文を入手できなかった。日本薬局方に判定値がないという記述は JP19 原文のみに基づく。
制作メモ:ディープリサーチで一次情報の候補を収集し、編集側で薬局方原文・メーカー公式技術資料にあたって検証のうえ執筆した。本文中の比率・換算値は、いずれも出典に記載された数値から筆者が計算したものであり、その旨を明記している。