近赤外(NIR)で錠剤の含量を測る。ラマンで受入原料の純度を出す。返ってくるのは「98.2 %」という数字です。この数字を出しているのは、分光光度計ではありません。分光光度計が出しているのはスペクトルで、数字を出しているのは回帰式です。
その回帰式の出来を評価する指標は、いくつもあります。RMSEC、RMSECV、RMSEP、SEC、SECV、SEP。これらはすべて「参照値と予測値の差」という同じ残差から作られます。 それなのに、意味はまったく違います。違いを取り違えると、「合格した」モデルが実試料で外れます。
本記事の芯は、公定文書の一文にあります。ICH Q2(R2) は、多変量モデルの検証に使う「独立な試料(independent sample)」をこう定義しています。
Independent samples are samples not included in the calibration set of a multivariate model. Independent samples can come from the same batch from which calibration samples are selected. (独立な試料とは、多変量モデルの検量セットに含まれない試料である。独立な試料は、検量試料を選んだのと同じロットから採ってもよい。) — ICH Q2(R2), MULTIVARIATE GLOSSARY
この定義は間違っていません。統計的には正しい意味での「独立」です。しかしこの定義を満たす検証セットでは、絶対に見えない故障があります。 本記事ではそれを疑似スペクトルで再現し、平均値を答えるより悪いモデル(決定係数 −0.63)が、その検証セットでは RMSEP 0.65 という良好な数字を出すところまで見せます。
この記事の読み方:1〜3節は「なぜ多変量なのか」「三つの誤差はどう違うのか」で、入門の方にも読めるように書いています。4〜9節が本題で、成分数の選び方・検量セットの設計・公定要件の数値に踏み込みます。10節以降は運用です。専門用語は初出時に短く補足します。
用語補足:潜在変数(latent variable)は、数百点あるスペクトルを数本の軸に圧縮したときの、その軸1本を指す。因子(factor)・成分数もほぼ同義で使われる。ICH Q2(R2) の用語集では「測定変数と直接関係し、後続の処理に使われる、数学的に導かれた変数」と定義されている。本記事では成分数を A(または k)で表す。
1. 単波長では解けないから、多変量になった
紫外可視吸光度なら、特定波長の吸光度と濃度を結べば検量線になります。近赤外ではそれが成り立ちません。
日本薬局方〈2.27〉近赤外吸収スペクトル測定法は、その理由を原理から書いています。近赤外の吸収は「主として赤外領域における基準振動の倍音又は結合音による振動によって生じ、特に水素原子が関与する O-H、N-H、C-H、S-H による吸収が主」です。倍音と結合音は、基準振動に比べて幅が広く、互いに重なります。O-H が水由来なのか、添加剤の水酸基由来なのかを、1本の波長で切り分けることはできません。
そこで局方は、解析手法そのものを条文に書きました。
- 〈2.27〉5.2 定量分析:「定量モデルを求めるためのケモメトリックスの手法には、重回帰分析法及び PLS (Partial least squares) 回帰分析法などがある」
- 〈2.26〉ラマンスペクトル測定法 5.2 定量分析:「試料の組成が複雑な場合は…ケモメトリックスの手法を利用し検量モデルを作成した後、対象試料のスペクトルに適用し、試料中の各成分濃度を算出することもできる。検量モデルを求めるためのケモメトリックスの手法には、重回帰分析法及び PLS 回帰分析法などがある」
PLS は、公定書が名前を挙げて認めている手法です。 一方で局方は、その PLS をどう作りどう検証するかについて、数値を1つも書いていません(この点は8節と9節で扱います)。
2. PLS は何をしているのか ― 主成分分析との分かれ道
PLS の動作は、主成分分析(PCA)と比べると輪郭がはっきりします。
PCA は、スペクトル側の分散が最大になる方向に軸を取ります。 濃度のことは一切見ません。だから、試料間で最も大きく変動しているもの(多くの場合、粒子径や充填状態による散乱)が第1主成分になります。目的成分の濃度がそこに乗っているかどうかは、運です。
PLS は、スペクトルと濃度の共分散が最大になる方向に軸を取ります。 目的の濃度と一緒に動く成分を優先して軸に拾うので、同じ本数の軸でもふつう PCA より予測が当たります。これが、PCA に回帰を繋いだ主成分回帰(PCR)より PLS が好まれる理由です。
軸を1本取るたびに、スペクトルから「その軸で説明できる分」が引かれ、残りが次の軸に回ります。Metrohm のホワイトペーパーは、この圧縮の実務的な相場をこう書いています。「PLS を適用すると、数百から数千点のスペクトルの元データが、通常は 10 次元以下に縮約される」。
つまり成分数 A は、元データの何次元分を「意味のある変動」とみなすかを人が決めるパラメータです。そしてここが、本記事のいちばん厄介な論点になります。
3. 三つの誤差は、同じ残差から作られている
成分数を決めるにも、モデルを検証するにも、誤差の数字を見ます。よく出る三つを区別しておきます。どれも「参照値 − 予測値」の二乗平均平方根ですが、どのデータで計算したかが違います。
| 指標 | 計算に使うデータ | 何を表すか |
|---|---|---|
| RMSEC(SEC・SEE) | 検量セット自身。モデルを作るのに使った試料 | モデルが手元のデータにどれだけ当てはまったか(適合度) |
| RMSECV(SECV) | 検量セットを分割し、片方を抜いて作ったモデルで抜いた方を予測 | 検量セットの内側で見積もった予測性能 |
| RMSEP(SEP・SEV) | モデル作成に使っていない独立した試料 | 独立試料に対する予測性能 |
ICH Q2(R2) は、この使い分けを開発と検証の二段構えとして条文化しています。
第一段はモデル開発(calibration と internal testing)。「テストデータは別のデータセットでもよいし、検量セットの一部を回転させて使ってもよい」。そしてこの内部テストの役割を、用語集はこう書いています。「内部テストは、最適な潜在変数の数を決め、標準誤差を見積もり、潜在的な外れ値を検出する手段として役立つ」。
第二段がモデルバリデーションで、「独立な試料からなる検証セットを、モデルの検証に用いる」。判定の目安も書かれています。「RMSEP が許容できる RMSEC と同程度であれば、独立なテストセットで試したときにモデルが十分に正確であることを示す」。
ここまでは素直です。問題は「独立」の中身で、それは7節で開けます。まず成分数の話を片づけます。
4. 成分数を1本増やすと、何が起きるのか
疑似 NIR スペクトルで実験します。波長 200 点、目的成分 A(濃度 1〜10 %)と、A と帯が強く重なる妨害成分 B、もう1つの成分 C の3成分系。これに乗法散乱・オフセット・傾きとノイズを載せます。検量試料 30、独立試料 500。成分数 A を 1 から 15 まで増やしながら、三つの誤差を並べます(以下の数値はすべて筆者の計算。スクリプトは固定シードで再現できます)。
| 成分数 | RMSEC | RMSECV | RMSEP(独立試料) | 検量セットの R² |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 2.549 | 2.770 | 2.440 | 0.035 |
| 2 | 1.575 | 2.958 | 1.816 | 0.631 |
| 3 | 0.783 | 1.270 | 0.967 | 0.909 |
| 4 | 0.471 | 0.612 | 0.663 | 0.967 |
| 5 | 0.438 | 0.573 | 0.601 | 0.972 |
| 6 | 0.127 | 0.551 | 0.622 | 0.998 |
| 7 | 0.034 | 0.544 | 0.628 | 0.9998 |
| 9 | 0.004 | 0.536 | 0.628 | 1.00000 |
| 10 | 0.001 | 0.535 | 0.628 | 1.00000 |
| 15 | 0.000 | 0.535 | 0.628 | 1.00000 |

読み取れることを順に。
① RMSEC は必ず単調に減る。 15 本すべての区間で減少していました。成分数 9 で検量セットの R² は 1.00000、RMSEC は 0.004 % です。適合度の指標は、成分数の選択にまったく使えません。 増やせば必ず良くなるからです。
Metrohm のホワイトペーパーは、この現象を ASTM E1655 の解説としてこう書いています。「成分数が増えるにつれて検量の標準誤差(SEC)は減少する。その一方で、モデルの系統誤差は増大し、検量の頑健性は低下する。この効果を過剰適合(overfitting)と呼ぶ」。
② RMSEP は成分数 5 で底(0.601)を打ち、それ以降は下がらない。 ただし、悪化の幅は小さく、15 本まで増やしても 0.628(1.04 倍)です。PLS は次数を増やしても線形回帰ほど暴れません。「成分数を増やしすぎると予測が破綻する」という語り方は、この条件では誇張です。
③ RMSECV の底は平らで、最小は成分数 10。 実測の最良である 5 より 5 本多いところに最小が来ました。ただし RMSECV は 5 本目以降 0.573→0.535 とほとんど動いていません(差 7 %)。
そして、成分数の決め方について、Metrohm の文書はきわめて率直です。
The operator can select the optimal number of factors. The selection is a critical point and there are no rules, which can be applied for each application. (作業者は最適な因子数を選べる。その選択は決定的に重要な点であり、すべての応用に適用できる規則は存在しない。)
5. 交差検証はどれくらい当たるのか
「規則が無い」なら、実際に交差検証で選んだときの当たり具合を測ればよい。検量セットの引き方を変えて 100 回繰り返し、RMSECV が最小になる成分数と、独立試料の RMSEP が最小になる成分数を比べました(筆者の計算)。
| 指標 | 結果 |
|---|---|
| 交差検証が選んだ成分数 | 中央値 5、範囲 4〜15 |
| 独立試料で最良だった成分数 | 中央値 5、範囲 3〜15 |
| 両者が一致した割合 | 51 % |
| 交差検証が多めに取った割合 | 43 % |
| 交差検証で選んだときの RMSEP の劣化 | 中央値 1.00 倍、最悪 1.16 倍 |
| 1標準誤差則で選んだときの劣化 | 中央値 1.00 倍、最悪 1.13 倍 |
当たるのは半分です。 一方で、外したときの代償は小さい(最悪でも 1.16 倍)。ASTM が推奨する「RMSECV が近いなら成分数の少ない方を採る」という保守則を使っても、改善はわずか(最悪 1.16 → 1.13 倍)でした。
ここまでの結論は、拍子抜けするかもしれません。成分数の選択は当たらないが、それ自体は大事故にならない。 検量セットが妥当なら、です。
大事故は別のところで起きます。
6. 本当の故障は、成分数ではなく検量セットの設計で起きる
実務で検量試料を集めるとき、製造ロットや実サンプルをそのまま使うのはごく自然です。そしてそのとき、ほぼ必ず起きることがあります。目的成分と妨害成分が、試料群の中で相関しているのです。有効成分が多いロットは賦形剤が少ない。水分が高い日は温度も高い。原料の産地が変われば主成分と不純物が一緒に動く。
これを再現します。検量セット(30 試料)だけ、妨害成分 B を目的成分 A と相関させます(相関係数 r = 0.975)。実測にあたる独立試料 500 は、相関の無い状態(実プロセスで組み合わせが崩れた状態)とします。さらに、検量セットと同じ相関構造を持つ検証セット 100 試料も用意して、3つ並べます。
| 成分数 | RMSECV | RMSEP(同じ相関の検証セット) | RMSEP(相関が崩れた実測試料) | 実測試料での R² |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 0.978 | 0.845 | 3.371 | −0.718 |
| 2 | 0.867 | 0.731 | 3.328 | −0.675 |
| 3 | 0.862 | 0.648 | 3.284 | −0.631 |
| 4 | 0.874 | 0.683 | 3.172 | −0.521 |
| 5 | 0.855 | 0.562 | 0.625 | 0.941 |
| 6 | 0.913 | 0.596 | 0.686 | 0.929 |
| 8 | 0.972 | 0.625 | 0.755 | 0.914 |

成分数 2 のモデルは、実測試料で決定係数が負(−0.675)です。 濃度の標準偏差が 2.57 % の試料群に対して RMSEP が 3.33 % なので、「いつも平均の 5.4 % と答える」ほうが誤差が小さい。 それでいて、交差検証は 0.867、同じロットから採った検証セットは 0.731 という良好な数字を返します。
何が起きたか。成分数が少ないうちは、PLS は B の帯に乗って A を予測しています。検量セットでは B と A が一緒に動くので、それで当たるからです。妨害成分を分離する軸が立つのは成分数 5 で、そこで初めて実測 RMSEP が 3.284 → 0.625(5.3 分の 1)に落ちます。
ここで、ASTM 由来の保守則を思い出してください。「RMSECV が同程度の複数のモデルがあるなら、成分数のいちばん少ないものを使う」。この表で RMSECV を見ると、成分数 2(0.867)・3(0.862)・5(0.855)は差が 0.012、相対で 1.4 % 以内です。「同程度なら少ない方」に素直に従えば、成分数 2 を選びます。実測では 5.3 倍外れるモデルです。
つまり、RMSECV の 1.4 % の差の向こう側に、実測 5.3 倍の差が隠れている。 そして交差検証は、それを教えてくれません。交差検証が検証しているのは「検量セットの内側での予測」だけで、検量セットに入っている相関ごと、まとめて検証してしまうからです。
対照も取りました。相関の無い検量セット(同じ 30 試料)で成分数 5 のモデルを作ると、RMSECV 0.604 / RMSEP 0.652。指標の数字はほとんど同じです。 違いは検量セットの設計だけで、指標の側には現れません。
7. ICH が定義する「独立な試料」は、同じロットから採ってよい
ここで冒頭の定義に戻ります。ICH Q2(R2) の用語集は、独立な試料を「多変量モデルの検量セットに含まれない試料」と定義し、さらに一文を足しています。「独立な試料は、検量試料を選んだのと同じロットから採ってもよい。」
6節の表の「同じ相関の検証セット」は、まさにこの定義を満たします。検量セットには含まれていません。だから統計的には独立で、モデルの当てはめに一切使われていません。それでも、成分数 2 のモデルに 0.731 という合格点を出しました。
この定義は誤りではありません。 ICH の意図は明確で、同じ文書の2.5節は検証の目的を「モデルの性能の独立な評価」と書いています。当てはめに使ったデータで性能を測れば楽観的に偏る、という一点を防ぐための定義です。そして現実に、多変量法の検証試料には参照法による値が必要で、それは高価です。同じロットから採ってよいという緩和は、検証を実行可能にするための現実的な条文でもあります。
ただし、ここから導かれる帰結は押さえておくべきです。ICH の定義を満たす検証セットは、「検量セットが代表していない変動」に対する性能を測れません。 ロットを跨いだ変動、季節変動、装置の交換、原料産地の切り替え、そして6節で見た成分間の相関が崩れる事態は、同じロットから採った検証セットの中には存在しないからです。
ICH 自身も、別の条文でその補いを求めています。3.2.2.3 節は「多変量法の正確さは、検量試料が検量範囲全体にどう分布しているか、および参照法の誤差といった複数の要因に依存する」と書き、直線性の評価では「検量範囲全体にわたって残差がどう変化するかの情報を含めるべき」としています。残差を範囲全体でプロットせよ、というのは、6節のような偏りを見つけるための実務的な指示です。
8. 数値を書いているのは ASTM E1655 のほう
では、「検量セットが実試料の変動を代表していること」を、数値で要求している文書はどこか。ASTM E1655(Standard Practices for Infrared Multivariate Quantitative Analysis)です。
以下は Metrohm のホワイトペーパーが ASTM E1655-05(2012) の要件として記述している内容です(ASTM 規格本文は有償のため、筆者は本文を確認していません。この点は「未確認・限界」に明記します)。
| 項目 | 要件 |
|---|---|
| 事前検討(フィージビリティ) | NIR 法が開発できるか不明な場合、30〜50 試料で実施する |
| 目的成分の濃度範囲 | 参照法の再現精度の 5 倍以上あること |
| 検量試料数(成分数 3 以下) | 外れ値除外後に24 試料を下回らない |
| 検量試料数(成分数 4 以上) | 6 ×(成分数 + 1)を下回らない |
| 検証試料数(成分数 5 以下) | 20 試料以上 |
| 検証試料数(成分数 6 以上) | 4 ×(成分数 + 1) |
| 検証セットの範囲 | 各成分について検量範囲の 95 % をスパンし、濃度範囲全体に一様に分布すること |
| 検証セットの内容 | routine 分析で予想されるすべての変動を含むこと |
| 参照法との一致 | NIR 値の 95 % が「参照値 ± 参照法の再現精度」の区間に入ること |
| 精度の評価 | 成分数と同数の試料を、範囲の 95 % にわたって選び、各試料を 6 回以上測定して χ² 検定 |
| モデル更新時 | 検証セットに追加する試料の割合は、検量セットに追加した割合以上であること |
太字にした「routine 分析で予想されるすべての変動を含むこと」が、7節で指摘した穴をふさぐ条文です。6節の検量セットは、この要件を満たしていません(実測では崩れる相関が固定されている)。成分数の選び方の規則より、この試料設計の条文のほうが効きます。
日本薬局方も、手続きの数値は書かないかわりに、設計の要求は書いています。〈2.27〉の「スペクトルに影響を与える要因」はこうです。「結晶構造の変化(結晶多形)もスペクトルに影響を与えるため、複数の結晶形が存在する場合、検量線用の標準的な試料についても分析対象となる試料と同様な多形分布を持つように注意する必要がある」。検量セットは実試料と同じ変動構造を持て、という要求です。
9. 成分数と試料数は連動する ― 6(k+1) の意味
ASTM の試料数要件は、成分数に紐づいています。成分数を1本増やすと、必要な検量試料が6個増えます。 これを確かめます。成分数を 6 に固定し、検量試料数だけを振って、独立試料 500 に対する RMSEP を見ます(各 40 回の中央値、筆者の計算)。
| 検量試料数 | RMSEP(中央値) |
|---|---|
| 10 | 0.835 |
| 14 | 0.710 |
| 20 | 0.703 |
| 28 | 0.675 |
| 42 = 6×(6+1) | 0.654 |
| 60 | 0.657 |
| 90 | 0.644 |
| 120 | 0.649 |
6(k+1) = 42 のあたりで、RMSEP はほぼ底に着いています。 10 試料では 0.835(42 試料の 1.28 倍)。それ以降 120 まで増やしても改善は 1.5 % 程度です。ASTM の係数 6 は、経験則としてよく当たっている、と言えます。
この係数には、もう一つの意味があるようです。規格の二つの規則(「成分数 3 以下なら 24 試料」と「それ以上なら 6(k+1)」)は、実は同じ式です。 6×(3+1) = 24。成分数 3 のときの 6(k+1) が、ちょうど 24 だからです。
そして 6(k+1) を満たしていると、自由度の取り方によるブレが一定になります。 ここは分析値の報告に直接効くので、筆者の計算を示します。
SEC(=RMSEC)は残差二乗和を自由度で割った平方根ですが、分母の自由度は文書によって違います。 Howard Mark と Jerome Workman は Spectroscopy 誌のコラムで、この不一致をこう書いています。「ASTM International、米国薬局方(USP)、および ISO の委員会が数学と手法の標準化を試みてきたが、不一致と不連続はいまも存在する」。そして「報告するときは、計算に用いた式を必ず明記しなければならない」。
自由度を N と取るか N − k − 1 と取るかで、SEC は √(N/(N−k−1)) 倍違います。ここに N = 6(k+1) を入れると、
N − k − 1 = 6k + 6 − k − 1 = 5k + 5 = 5(k+1)
N ÷ (N − k − 1) = 6(k+1) ÷ 5(k+1) = 1.2 (成分数に依らず一定)
SEC の比 = √1.2 = 1.095
成分数が何本であっても、ちょうど 9.5 % です。 つまり ASTM の最小試料数ちょうどで検量した場合、同じ残差から計算した SEC が、自由度の定義しだいで 9.5 % 変わります。 コラムの著者らは「試料数が 100 以上あれば差は 1 % 未満で、実務上ほぼ問題にならない」と書いていますが、それは 100 試料ある場合の話です。 規格の下限ぎりぎりで組んだモデルでは、1 桁大きいズレが残ります。SEC を仕様値と比べるなら、式を確認してからにしてください。
10. 乱数でも、R² 0.996 の検量線は引ける
最後に、適合度の指標を信じてはいけない理由を、極端な形で確認します。スペクトルも参照値も、完全な乱数にします(試料 30、変数 200、参照値は無関係な乱数)。化学的な関係は存在しません。
| 成分数 | RMSEC | 検量セットの R² | RMSECV | 交差検証の R² |
|---|---|---|---|---|
| 1 | 0.428 | 0.831 | 1.233 | −0.405 |
| 2 | 0.165 | 0.975 | 1.310 | −0.587 |
| 3 | 0.068 | 0.996 | 1.328 | −0.629 |
| 5 | 0.009 | 1.000 | 1.340 | −0.658 |
成分数 3 で、検量セットの R² は 0.996 になります。 意味のある関係は1つもないのに、報告書に載せれば通ってしまう数字です。交差検証に回すと R² は負に転じます(−0.629)。ここでは交差検証が正しく機能しています。
この対比が、本記事の指標の使い分けをまとめてくれます。適合度(RMSEC・R²)は「関係が無い」ことさえ検出できない。交差検証は「関係が無い」ことは検出できるが、「検量セットの中だけの関係」は検出できない。それを検出できるのは、routine で予想される変動を含んだ独立試料だけです。
なお、構造の無いデータから主成分やクラスターが「見つかる」現象については、ケモメトリクス入門 ― 乱数だけの表に PCA をかけても、主成分が 49 本「見つかる」【2026年版】 で教師なし手法の側から扱っています。本記事はその回帰版にあたります。
11. 分析者の視点 ― 検量モデルを引き継ぐとき、何を見るか
自分で作るときも、他人が作ったモデルを引き継ぐときも、見る順序はほぼ同じです。
- 検量試料の由来を一覧にする。 何ロット、いつ、どの装置で、誰の参照値か。同じ日に同じロットから 30 個採った検量セットは、30 試料ぶんの情報を持っていません。
- 目的成分と、主な妨害成分・物性値の相関行列を作る。 検量セットの中で目的成分と強く相関している量があれば、そこがモデルの寄る辺になっている可能性があります。実測でその相関が崩れる場面があるかを考える。 これが6節の故障の唯一の予防です。
- 成分数と試料数の整合を確認する。 6×(成分数+1) を下回っていないか。モデルを組み直して成分数が増えたら、試料数の要件も上がります(Metrohm の文書も「最初のモデルを作った後、試料数の基準がまだ満たされているか再確認する必要がある」と書いています)。
- RMSEC と RMSEP の開きを見る。 ICH の目安は「RMSEP が許容される RMSEC と同程度」。開いていれば過剰適合か、検証セットが検量セットの外に出ています。どちらなのかは、指標だけでは決まりません。
- 残差を範囲全体でプロットする。 ICH 3.2.2.3 の要求どおり。片側で偏っていれば、範囲の端で外れています。
- SEC・SECV の計算式(自由度)を確認する。 規格の最小試料数で組んだモデルなら 9.5 % のブレが乗ります。
- 前処理を1つ変えたら、成分数の選択はやり直す。 微分や正規化で残る変動が変わるため、最適な成分数も動きます。日局〈2.27〉も「一次若しくは二次微分処理又は正規化などの数学的前処理を行うことは、重要な手順の一つ」と書いています。
- 参照法の精度を確認する。 多変量モデルは参照法より正確にはなりません。ICH は「参照法の性能は、多変量法に期待される性能と同等かそれ以上であるべき」と書いています。
まとめ
- 近赤外・ラマンの定量値を出しているのは装置ではなく回帰式で、局方は〈2.26〉〈2.27〉で PLS 回帰を名指しして認めている。一方、試料数・成分数・検証セットの数値要件は書いていない。
- RMSEC・RMSECV・RMSEP は同じ残差から作られるが、意味が違う。 RMSEC は成分数とともに必ず減り、筆者の実験では成分数 9 で検量セットの R² が 1.00000 に達した。適合度は成分数の選択に使えない。
- 成分数を交差検証で選んだとき、独立試料で最良の本数と一致したのは 100 回中 51 回。ただし外したときの RMSEP の劣化は最悪 1.16 倍で、過剰適合そのものは大事故にならない。
- 大事故は検量セットの設計で起きる。妨害成分と目的成分が検量セット内で相関(r = 0.975)していると、RMSECV の差 1.4 % の向こうに、実測 5.3 倍の差が隠れる。選ばれるのは悪いほうのモデルで、実測での R² は −0.675(平均値を答えるより悪い)。
- ICH Q2(R2) は「独立な試料」を「検量セットに含まれない試料。同じロットから採ってもよい」と定義している。 その定義を満たす検証セットは、この故障に 0.731 という合格点を出した。定義は正しいが、検量セットが代表していない変動は測れない。
- 数値で穴をふさいでいるのは ASTM E1655 のほうで、「routine 分析で予想されるすべての変動を含むこと」「検量範囲の 95 % をスパン」「検量試料は 6×(成分数+1) 以上」を要求している。
- 6(k+1) には副産物がある。 この試料数ちょうどなら、自由度を N と取るか N−k−1 と取るかによる SEC のブレが、成分数に依らず √1.2 = 9.5 % に固定される(筆者の計算)。SEC を比べるなら式を確認する。
用語集
- PLS回帰(部分最小二乗回帰):スペクトルと参照値の共分散が最大になる方向に軸(潜在変数)を取り、その軸の上で回帰する手法。日局〈2.26〉〈2.27〉が定量モデルの手法として明記している。
- 潜在変数・因子・成分数:スペクトルを圧縮した軸の本数。本記事では A または k。ICH Q2(R2) は「測定変数と直接関係し、後続の処理に使われる、数学的に導かれた変数」と定義する。
- RMSEC / SEC / SEE:検量セット自身の残差から計算する誤差。適合度。成分数とともに必ず減る。
- RMSECV / SECV:交差検証(検量セットを分割し、抜いた試料を予測する)による誤差。
- RMSEP / SEP / SEV:モデル作成に使っていない独立試料に対する誤差。ICH は多変量法の日常指標として RMSEP を挙げ、「RMSEP は正確さと精度の両方を含む」と書いている。
- 内部テスト(internal testing):ICH Q2(R2) の用語。成分数の決定・標準誤差の見積り・外れ値検出を担う段階。検量セットの一部を回転させて使ってもよい。
- 独立な試料(independent sample):ICH Q2(R2) の定義では「検量セットに含まれない試料」。同じロットから採ってもよい。
- 参照分析法(reference analytical procedure):検量試料と検証試料の参照値を得るための別の分析法。ICH は「その性能は多変量法に期待される性能と同等以上であるべき」とする。
- 過剰適合(overfitting):成分数を増やしすぎて、検量セット固有の変動まで取り込んでしまうこと。適合度は上がり、頑健性は下がる。
- レバレッジ/マハラノビス距離:スペクトル空間の中心からの距離。検量セットの中で極端な試料(スペクトル外れ値)の検出に使う。
出典
- ICH「Q2(R2) Validation of Analytical Procedures」Step 4 version, 30 November 2023。2.5 Considerations for Multivariate Analytical Procedures(開発と検証の二段構え、内部テストと成分数)、3.2.2.3 Multivariate Calibration(検量試料の分布、残差プロット)、3.3.1(RMSEP と RMSEC の比較)、MULTIVARIATE GLOSSARY(INDEPENDENT SAMPLE、INTERNAL TESTING、LATENT VARIABLES、VALIDATION SET 等の定義) — https://database.ich.org/sites/default/files/ICH_Q2%28R2%29_Guideline_2023_1130.pdf
- 第十九改正日本薬局方 一般試験法〈2.27〉近赤外吸収スペクトル測定法(厚生労働省告示第193号、2026-04-10 適用)。5.2 定量分析(重回帰分析法・PLS 回帰分析法の明記)、3.(ⅱ) 試料特性(検量線用試料も分析対象と同様な多形分布を持つこと)、5. 定性又は定量分析への応用(数学的前処理) — https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/001689414.pdf
- 第十九改正日本薬局方 一般試験法〈2.26〉ラマンスペクトル測定法(同上)。5.2 定量分析(PLS 回帰分析法の明記)。
- Metrohm White Paper WP-029EN「Near-Infrared Spectroscopy: Quantitative analysis according to ASTM E1655」(著者 Alexander Kadenkin、参照規格は ASTM E1655-05(2012))。検量・検証試料数の要件、成分数の選択(「すべての応用に適用できる規則は存在しない」「RMSECV が同程度なら成分数の少ない方」)、外れ値の2種類、精度評価の χ² 検定。本記事の引用はすべてこの PDF 本文で確認した — https://www.metrohm.com/content/dam/metrohm/shared/documents/white-papers/WP-029EN.pdf
- ASTM E1655-17(2024)「Standard Practices for Infrared Multivariate Quantitative Analysis」、ASTM International, West Conshohocken, PA。現行版の指定。本文は有償で未確認(4 を通じた記述) — https://www.astm.org/e1655-17.html
- H. Mark, J. Workman「How to Select the Appropriate Degrees of Freedom for Multivariate Calibration」, Spectroscopy(Chemometrics in Spectroscopy 連載)。ASTM・USP・ISO 間で自由度の扱いが一致していないこと、計算式を明記すべきこと、試料数 100 以上なら差は 1 % 未満であること — https://www.spectroscopyonline.com/view/how-select-appropriate-degrees-freedom-multivariate-calibration
数値実験はすべて筆者による(Python / scikit-learn の PLSRegression、固定シード)。疑似スペクトル・散乱・ノイズの設定は4節と6節に記載した。
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未確認・限界
- 本記事の数値実験はすべて人工データであり、実測ではない。 疑似スペクトルは3成分のガウス帯+乗法散乱・オフセット・傾き・白色ノイズという単純な設定で、実スペクトルの非線形性(散乱と吸収の結合、温度による波長シフト)は含めていない。6節の相関(r = 0.975)は、故障を明確に見せるために意図的に強く設定した。 実際のロットでこれほど強い相関が出るかは対象に依る。相関が弱ければ故障も小さくなる。
- ASTM E1655 の本文を確認していない。 規格は有償で、筆者が入手できたのは Metrohm のホワイトペーパー(ASTM E1655-05(2012) を参照)に記述された要件である。現行版は E1655-17(2024) であり、数値要件が改訂されている可能性を排除できない。記事中の数値は「Metrohm 文書が E1655-05(2012) の要件として記述しているもの」として扱っている。
- 欧州薬局方 2.2.40(近赤外分光法)および USP の該当章(〈1856〉等)の本文も未確認。 多変量モデルの検証要件について、これらが ASTM とどこまで一致しているかは確認できていない。
- 交差検証は一つ抜き(leave-one-out)のみで実施した。 5分割・10分割や、ロット単位で抜く交差検証(group CV)では結果が変わる。とくに6節の故障は、ロット単位で抜く交差検証なら検出できる可能性があるが、検量セットが1ロットしかない場合はその手も使えない。
- 1標準誤差則の実装は簡便なものである。 交差検証残差の二乗の標準誤差を用いた閾値で、文献の実装と細部が異なる可能性がある。
- 前処理(微分・SNV・MSC)の効果は検証していない。 前処理は成分数の選択と強く相互作用するが、本記事では素のスペクトルのみを扱った。
- PLS1 のみ(目的変数1つ)で、PLS2(複数同時)は扱っていない。 また非線形手法(カーネル PLS、ニューラルネット)も範囲外である。