近赤外分光(NIR)は、分析化学のなかでも扱いが独特な手法である。
粉体をバイアルに入れたまま、あるいは流動層乾燥機のなかを流れているそのままの状態で、光を当てて数秒で「水分 2.3%」「含量 98.7%」という数字が出る。前処理はいらない。試料は壊れない。抜き取る必要すらない。
だが、その 98.7% という数字を出しているのは装置ではない。
装置が出しているのは、波長ごとの吸光度が並んだスペクトルである。そこには含量に対応するピークなどというものは、少なくとも人間が読める形では存在しない。数字を出しているのは、そのスペクトルと参照分析法の値とを結びつけた検量モデルのほうだ。
この一点が、NIR のすべての運用ルールを決めている。
日本薬局方〈2.27〉が「同等性を確認しておく必要がある」と書くのも、EMA のガイドラインが NIRS を三層に分けて定義するのも、ICH Q2(R2) がわざわざ「多変量分析法」という節を新設したのも、突き詰めればすべて 数値を出しているのがモデルだからである。
本記事は、規制文書とメーカー技術資料と査読論文を原典で確認しながら、NIR を PAT(プロセス分析工学)として使うときに実際に効いてくる条件を、装置ではなくモデルと手順の側から整理する。
この記事の読み方
- 1〜2節は NIR が物理的に何を見ているか。入門者はここから。
- 3〜6節が本記事の中核。モデルという「見えない装置部品」をどう作り、どう検証し、どう運用するか。
- 7〜9節は PAT としての実装と、実際に動いている応用例。
- 10〜11節は装置性能の管理と、OOS が出たときの運用。品質保証の担当者向け。
分光四手法の位置づけ全体は分光分析の全体像 ― FTIR・ラマン・UV-Vis・NIR は「違う深さ」を見ているに、中赤外との対比はFTIR徹底解説にある。
1. NIR が見ているのは「倍音と結合音」である

日本薬局方の一般試験法〈2.27〉近赤外吸収スペクトル測定法は、近赤外線を次のように定義する。
近赤外線は,可視光線と赤外線の間にあって,通例,750 ~ 2500 nm (13333 ~ 4000 cm⁻¹)の波長(又は波数)範囲の光を指す.
そして、そこに現れる吸収の正体をこう書く。
近赤外線の吸収は,主として赤外領域 2500 ~ 25000 nm (4000 ~ 400 cm⁻¹)における基準振動の倍音又は結合音による振動によって生じ,特に水素原子が関与するO-H,N-H,C-H,S-Hによる吸収が主である.
基準振動とは分子の基本的な振動モードのことで、中赤外(FTIR)が測っているのはこれである。倍音はその整数倍の振動数に現れる弱い吸収、結合音は複数の振動が組み合わさって現れる吸収を指す。つまり NIR は、FTIR が見ているものの「影」を見ている。
だから当然、こうなる。
近赤外域における吸収は,赤外域における基準振動による吸収よりもはるかに弱い.
普通に考えれば欠点である。感度が低いのだから。ところが〈2.27〉は、この直後に NIR の最大の武器を書く。
また,近赤外線は,可視光線と比較して長波長であることから,光は粉体を含む固体試料中,数mmの深さまで侵入することができる.この過程で吸収される光のスペクトル変化(透過光又は反射光)より,試料に関わる物理的及び化学的知見が得られることから,本法は,非破壊分析法としても広く活用されている.
吸収が弱いから、光が試料を貫通できる。中赤外の ATR が数 µm しか潜れないのに対し、NIR は粉体の数 mm 奥まで届く。この深さの差が、NIR を「サンプリングしない分析法」にしている。〈2.27〉は光ファイバーの利用にも触れ、「装置本体から離れた場所にある試料について、サンプリングを行うことなくスペクトル測定が可能」であることが、製造工程管理をオンライン(またはインライン)で行う有力な手段になると述べている。
そして同じ節には、本記事全体の芯になる一文がある。
近赤外吸収スペクトル測定法は,既存の確立された分析法に代えて,迅速かつ非破壊的な分析法として用いられるものであり,この分析法を品質評価試験法として管理に用いる場合,既存の分析法を基準として比較試験を行うことにより,その同等性を確認しておく必要がある.
NIR は「新しい測定原理で真値に近づく手法」として位置づけられていない。既存法の代わりを務める手法として位置づけられ、既存法との同等性の確認が前提条件になっている。
〈出典:日本薬局方 一般試験法〈2.27〉原案〉
2. 局方が定める3つの測定法 ― 数値まで指定されている

〈2.27〉は測定法を3種に分け、それぞれに具体的な条件を書いている。ここは実務でそのまま使える。
| 測定法 | 対象 | 局方が指定する条件 |
|---|---|---|
| 透過法 | 液体・溶液(粉体を含む固体にも適用可=拡散透過法) | 石英ガラスセル・フローセルなどで層長 1 〜 5 mm 程度 |
| 拡散反射法 | 粉体を含む固体 | 反射率 R の逆数の対数をプロットして拡散反射吸光度 Ar を得る。プローブなど拡散反射装置が必要 |
| 透過反射法 | 固体・液体・懸濁試料 | ミラーで反射させるため光路長は試料厚さの2倍。固体では吸光度 0.1 〜 2(透過率 79 〜 1%)になるよう試料厚さを調節 |
透過反射法の「吸光度 0.1 〜 2」という範囲には理由が書かれている。検出器の直線性と SN 比が最良となる範囲だからである。懸濁試料に使う場合はミラーの代わりに、拡散反射する粗面を持つ金属板やセラミック反射板を使う。
透過法についての注意も具体的だ。粉体を含む固体に適用する場合、「試料の粒度、表面状態などにより透過光強度は変化することから、適切な層長の選択が重要となる」。粉体の粒度に応じて適切な層長のセルを選ぶ必要がある、とも書かれている。
実務資料では波長域が「近赤外の短波長側」に寄る
ここで、メーカーの技術資料と突き合わせると面白いことが見える。
- Metrohm のインライン水分測定(流動層造粒)で使われた波長範囲は 1100 〜 1650 nm
- Bruker MPA II の外部透過ユニット(External Transmission Unit)のスペクトル範囲は 11,500 〜 5,800 cm⁻¹(=約 870 〜 1724 nm)。同機の試料室・光ファイバー・積分球は 11,500 〜 4,000 cm⁻¹(=約 870 〜 2500 nm)
〈2.27〉の定義する NIR は 750 〜 2500 nm だが、試料を貫通させる構成では、どちらの資料も 1100 〜 1700 nm 付近を使っている。長波長側(2000 〜 2500 nm)を切り捨てた構成になっているわけだ。
この選択の理由を明示した一次資料は本記事の取材では開けなかったため、理由の断定は避ける(後述の制作メモ参照)。ただし事実として、透過や深部到達を狙う NIR の実装は近赤外の短波長側に寄るという点は、上記2つの独立した資料が一致して示している。装置を選ぶときは、カタログの「近赤外」という言葉ではなく、その構成で実際に使える波長範囲を確認したほうがよい。
〈出典:日本薬局方〈2.27〉原案 / Metrohm AN-PAN-1048 / Bruker MPA II Specifications〉
3. 「方法」「モデル」「手順」― NIR は三層でできている

EMA(欧州医薬品庁)が2014年に発行した NIRS ガイドライン(EMEA/CHMP/CVMP/QWP/17760/2009 Rev2)は、この分野で最も体系的な規制文書である。
引用するときは版に注意したい。この Rev2 は表紙で「本ガイドラインは、医薬品産業による近赤外分光の使用および新規申請・一変申請のためのデータ要件に関する note for guidance(CPMP/QWP/3309/01 および EMEA/CVMP/961/01)を置き換える」と明記している。EMA のサイトには置き換えられた旧 note for guidance も残っているため、検索で先に旧版に当たることがある。本記事の引用はすべて2014年1月27日採択の Rev2 による。
冒頭で、NIRS が他の分析法と何が違うかをはっきり書いている。
Near Infrared Spectroscopy (NIRS) differs from conventional analytical techniques such as HPLC or GC.(NIRS は HPLC や GC のような従来の分析技術とは異なる)
そのうえで、このガイドラインは NIRS を三つの層に分けて定義した。これが本記事で最も持ち帰ってほしい枠組みである。
| 層 | 定義(EMA 定義集より) | 具体的には |
|---|---|---|
| NIRS method(方法) | 対象分析物の NIRS 測定を可能にする主要要素を記述する。装置と分光光度計の型(FT・回折格子など)、試料測定インターフェース(プローブ・試料台など)、スキャン回数、装置のスペクトル範囲を含む | ハードウェアの設定 |
| NIRS model(モデル) | NIR スペクトルデータが対象分析物の特性、あるいは手順の意図した用途と、どう関係するかを記述する | ケモメトリックスのモデル |
| NIRS procedure(手順) | NIRS の方法とモデルが、定められたスコープの範囲内で、意図した目的のためにどう使われるかを記述する | 運用ルール全体 |
この三層に分けたことの意味は大きい。装置を買っても NIR 分析法は手に入らない。方法(装置設定)とモデル(ケモメトリックス)と手順(運用範囲)の三つが揃って初めて、規制上ひとつの分析法として成立する。
だからこそ、このガイドラインはスコープの節でこう明言している。
a single reference to the Ph.Eur. general chapter on NIR spectroscopy (Ph.Eur. 2.2.40) as a sole description for the NIRS procedure is insufficient to support the use of such a procedure in marketing authorisation applications or variation submissions. (NIRS 手順の唯一の記述として欧州薬局方の一般章 2.2.40 を参照するだけでは、承認申請や一変申請でその手順の使用を支持するには不十分である)
これは他の分析法では滅多に見ない書き方である。HPLC なら「局方一般試験法に従う」で通る場面が多い。NIR では通らない。局方の章が規定しているのは「方法」の一部でしかなく、モデルと手順は製品ごとに自分で作り、自分で正当化しなければならないからだ。
スコープという概念 ― 変更管理の分かれ目
EMA ガイドラインが導入したもう一つの重要概念が NIRS procedure scope(手順のスコープ) である。承認時にスコープを定義しておき、
- スコープ内の変更 → GMP の管轄のみ(ランプ・サンプリング装置・設置場所・ソフトウェアのアップグレードなど同等品への交換、スペクトルライブラリの維持管理)
- スコープ外への拡張 → 一変申請(variation application)が必要(定量なら範囲や規格値の変更など)
と分岐する。スコープをどう書くかが、その後の運用の自由度をそのまま決めることになる。
また実務上きわめて重要な一文がある。
As NIRS procedures cannot be repeated easily by official control laboratories, any reference methods and corresponding specifications should remain in the authorised specifications, with an indication that these methods will not be used for routine batch release. (NIRS 手順は公的試験機関が容易に再現できないため、参照法とそれに対応する規格は承認規格に残すべきであり、それらの方法がルーチンのバッチ出荷には使われない旨を示す)
参照法は捨てられない。NIR に切り替えても、HPLC やカールフィッシャーの規格は承認書に残り続ける。
〈出典:EMA EMEA/CHMP/CVMP/QWP/17760/2009 Rev2, Sections 1, 2, 7.2, 8〉
ICH Q2(R2) が多変量分析法を正式に取り込んだ
2023年11月30日に Step 4 に到達した ICH Q2(R2) は、分析法バリデーションのガイドラインに「2.5 Considerations for Multivariate Analytical Procedures」という節を新設し、多変量分析法を正面から扱った。定義はこうである。
MULTIVARIATE ANALYTICAL PROCEDURE: An analytical procedure where a result is determined through a multivariate calibration model utilising more than one input variable. (多変量分析法:複数の入力変数を用いる多変量検量モデルによって結果が決定される分析法)
そして開発とバリデーションを二段階に分けることを明記した。
- 第一段階:モデル開発は校正と内部試験からなる。校正データで検量モデルを作り、試験データで内部試験とモデルの最適化を行う。試験データは別のデータセットでも、校正セットの一部を回転させて使ってもよい。この内部試験の段階は、モデル性能の推定値を得て、アルゴリズムのパラメータ(例:PLS の潜在変数の数)を微調整し、与えられたデータのなかで最も適切なモデルを選ぶために用いる
- 第二段階:モデルバリデーションでは、独立試料からなる検証セットをモデルの検証に用いる
用語集には CALIBRATION SET / INDEPENDENT SAMPLE / INTERNAL TESTING / REFERENCE ANALYTICAL PROCEDURE / VALIDATION SET が並ぶ。ケモメトリックスの語彙が、ICH のバリデーションガイドラインの本文に入ったわけである。2014年の EMA ガイドラインが先行して整備した枠組みが、9年後に国際調和のレベルに引き上げられた形になる。
〈出典:ICH Q2(R2) Guideline(2023年11月30日)Sections 2.5, 4〉
4. 前処理は諸刃である ― 微分と正規化の代償

NIR のスペクトルは、そのままモデルに入れられることは少ない。粒子径や試料の充填状態といった物理的な要因がベースラインを大きく動かしてしまうからだ。そこで微分や正規化といった数学的前処理をかける。
〈2.27〉はこう書く。
ケモメトリックスの手法を用いて分析法を確立しようとする場合,近赤外吸収スペクトルの特徴を強調すること及びスペクトルの複雑さや吸収バンドの重なりの影響を減ずるために,スペクトルの一次若しくは二次微分処理又は正規化(Normalization)などの数学的前処理を行うことは,重要な手順の一つとなる.
ICH Q2(R2) も「多変量解析では、測定データは微分や正規化によって前処理されることが多い(the measured data are commonly pre-treated through derivatives or normalisation)」と述べる。
だが EMA ガイドラインは、同じことを書いたうえで警告を付ける。
Caution must be exercised when performing any pre-treatments because artefacts can be introduced or essential information lost. Any pre-treatment of data should be documented and justified. (前処理を行うときは注意が必要である。アーティファクトが持ち込まれたり、本質的な情報が失われたりする可能性があるからである。データの前処理はすべて文書化し、正当化されなければならない)
微分はベースラインを消すが、同時にノイズを増幅する。正規化は散乱の影響を消すが、同時に濃度に比例する成分の一部も消しうる。前処理は「掃除」ではなく「加工」である。
部分波長域の使用についても条件が付く。
A partial wavelength range may be used instead of the complete NIR range. If a partial range is used, it should be justified from a scientific perspective, with data provided to show that all relevant chemical/physical information will be captured. (全 NIR 領域の代わりに部分波長域を使ってもよい。部分域を使う場合は科学的観点から正当化し、関連するすべての化学的・物理的情報が捉えられることを示すデータを提供すべきである)
つまり「この波長域だけ使ったらモデルが良くなった」は理由にならない。なぜその波長域で必要な情報がすべて捉えられるのかを説明できなければならない。
〈出典:日本薬局方〈2.27〉原案 5. / EMA ガイドライン 4.2.3 / ICH Q2(R2) 3.2.2.3〉
5. モデルの検証 ― 「範囲は SEP の10倍以上」という具体的な線
EMA ガイドラインの定量手順の節は、モデル検証について数値で線を引いている数少ない規制文書である。
三つの試料セット
定量 NIRS 手順の検量モデルを開発・最適化・検証するには、次の三つが必要とされる。
- calibration set(校正セット) ― 検量モデルを作るための試料
- calibration test set(校正試験セット) ― モデルの内部検証と最適化のための試料。校正セットと同じ母集団から取るが、モデル作成には使っていないもの。定義集には「実務上、校正セットは利用可能な試料母集団の3分の2で構成されることが多く、校正試験セットが残りの3分の1である」と書かれている
- validation set(検証セット) ― モデルの外部検証のための完全に独立した試料
潜在変数の数
潜在変数(latent variable) とは、多数の波長データを少数の軸に圧縮したときの、その軸のことである。PLS なら「因子」、主成分分析なら「主成分」がこれにあたる。この数の選び方が、モデルの出来を決める。
The number of samples used to develop the calibration model should be much greater than the number of latent variables used and the number of latent variables should be comparable with the number of detectable significant sources of variability found during the risk assessment step. (検量モデルの開発に使う試料数は、使用する潜在変数の数よりはるかに多くあるべきであり、潜在変数の数はリスク評価の段階で見出された検出可能な有意な変動要因の数と同程度であるべきである)
後半が効いている。潜在変数の数は「決定係数が最も良くなる数」ではなく、物理的に説明できる変動要因の数と釣り合っていなければならない。5つしか変動要因を特定していないのに潜在変数を12個使っているモデルは、残り7個で何かを説明しているつもりになっているだけ、ということになる。
評価の指標と、10倍という線
モデル評価には次が求められる。
- SEC(校正の標準誤差)と SEP(予測の標準誤差)を潜在変数の数の関数としてプロットする
- 校正セットと検証セットの両方について、参照値と NIRS 予測値のプロットを示す(直線性・バイアス・傾き・外れ値を目で見るため)
- 残差を予測値に対してプロットする
- 相関係数は1に近く、傾き・バイアス・切片がそれぞれ 1・0・0 と統計的に有意差がないこと
そして具体的な線がここに出る。
The calibration range should be at least 10 x SEP. (検量範囲は SEP の少なくとも10倍であるべきである)
予測の標準誤差が 0.5% なら、検量範囲は 5% 以上の幅を持っていなければならない。測定誤差に対して範囲が狭すぎるモデルは、そもそも意味のある分解をしていない、という判断基準である。
さらに定義の細部にも注意が要る。
The mathematical definition of SEP as defined in Section 8 of this guideline does not contain a bias correction, in line with expectations for pharmaceutical applications. (本ガイドラインの第8節で定義する SEP の数学的定義には、医薬品用途への期待に沿って、バイアス補正は含まれない)
SEP の定義はソフトウェアや文献によって異なる。バイアスを引いてから残差を計算する流儀もある。医薬品用途ではバイアスも誤差として数えろ、というのがこの一文である。ガイドラインは「申請者が使用する統計パラメータの定義を申請書類に明記すべき」とも書いている。
ICH Q2(R2) の指標
ICH Q2(R2) は RMSEP(予測の二乗平均平方根誤差)を挙げ、次の判断を示す。
If RMSEP is found to be comparable to acceptable root mean-squared error of calibration (RMSEC) then this indicates that the model is sufficiently accurate when tested with an independent test set. (RMSEP が許容できる RMSEC と同程度であれば、独立した試験セットで試したときにモデルが十分に正確であることを示す)
さらに、
for multivariate analytical procedures, the routine metrics of RMSEP encompass accuracy and precision. (多変量分析法では、ルーチンの指標である RMSEP は真度と精度の両方を包含する)
RMSEP がひとつあれば真度と精度を別々に評価しなくてよい、という整理である。従来の分析法バリデーションの枠組みを、多変量法に合わせて組み替えた箇所といえる。
参照法の性能が天井になる
見落とされやすいが、決定的な点がある。
EMA ガイドライン:
The performance of a quantitative NIRS procedure is dependent on the performance of the reference method. Poor precision and accuracy of the reference method will limit the performance of the NIRS procedure. (定量 NIRS 手順の性能は参照法の性能に依存する。参照法の精度と真度が悪ければ、NIRS 手順の性能は制限される)
ICH Q2(R2):
When a reference analytical procedure is used, its performance should equal or exceed the expected performance of the multivariate analytical procedure. (参照分析法を使う場合、その性能は多変量分析法の期待性能と同等以上であるべきである)
NIR モデルは参照法の値を教師として学習する。教師より賢くはなれない。NIR の RMSEP が 1.5% で頭打ちなら、まず疑うべきは NIR ではなく参照法の測定ばらつきである。
〈出典:EMA ガイドライン 6.1.2, 6.2, 6.3, 6.1.3, 8 / ICH Q2(R2) 2.5, 3.3.2〉
6. モデルにかける前に問う ― スペクトル品質試験と外れ値の三分類

ここが、NIR を他の分析法から最も強く分けている運用ルールである。
適用前のゲート
EMA ガイドライン 4.3.1:
Before an NIRS model is applied, each sample spectrum should be subject to a statistical spectral quality test to determine whether the characteristics of the sample fall within the range of variation for which the model was calibrated and validated. (NIRS モデルを適用する前に、各試料スペクトルは統計的スペクトル品質試験にかけ、その試料の特性がモデルを校正・検証した変動範囲内に入っているかを判定すべきである)
具体的な手法として Hotelling's T² や distance to model プロットが挙げられている。これは「この試料は、このモデルが知っている世界の内側にいるか?」を測る検査である。
そして、これに落ちた試料をどう扱うかについて、規制文書としては強い言い方をする。
If a sample fails this spectral quality test, it is poor scientific practice to test the sample using the developed NIRS model regardless, since a 'false' positive or otherwise invalid result would be obtained. (試料がこのスペクトル品質試験に不合格となった場合、それでもなお開発済みの NIRS モデルでその試料を試験することは科学的に不適切な行為である。偽の陽性、あるいはそれ以外の無効な結果が得られることになるからである)
モデルは、範囲外の入力に対しても必ず何らかの数字を返す。エラーを出してはくれない。だからゲートを人が置かなければならない。
外れ値は三種類ある
さらに EMA は「NIRS outlier」を三つに分類する。
| 種類 | 意味 |
|---|---|
| spectral outlier | スペクトル品質試験に適合しない(モデルが知らないスペクトル) |
| prediction outlier | スペクトル品質試験には適合するが、予測値が規格外 |
| (両方) | スペクトルも予測値も、提案された手順のスコープを超えている |
そして重要な注意が付く。
An NIRS outlier sample may still meet specifications for the analyte of interest. (NIRS の外れ値試料でも、対象分析物の規格には適合していることがある)
外れ値 ≠ 不合格である。外れ値は「他と違う」というだけであり、それが分析結果に与える影響が未定義だ、という観測にすぎない。
外れ値と判明したときの処理も定められている。特性上の理由で外れ値になった試料は、参照法および適切な代替分析法で試験・検証し、真正性が確認できたらスペクトルライブラリに組み入れ、その変動要因を含むようにモデルを再バリデーションする。ガイドラインはこれを「NIRS 手順ライフサイクルの重要な一部」と位置づけている。
つまり、外れ値はモデルを育てる材料である。捨てるものではない。
〈出典:EMA ガイドライン 4.3.1, 4.3.2〉
7. PAT としての NIR ― プローブの置き場所が測定条件になる

PAT(Process Analytical Technology/プロセス分析工学) の定義は、EMA ガイドラインの定義集に次のように収録されている(FDA が2004年に提示した枠組みの定義に対応する)。
A system for designing, analysing, and controlling manufacturing through timely measurements (i.e., during processing) of critical quality and performance attributes of raw and in-process materials and processes with the goal of ensuring final product quality. (最終製品品質の保証を目的として、原料および工程内物質・工程の重要品質特性と性能特性を、適時(すなわち処理中)に測定することを通じて、製造を設計・解析・管理するためのシステム)
「測定装置」ではなく「システム」と定義されている点に注意したい。測ること自体が目的ではなく、設計・解析・管理までが PAT である。
PAT には「決まった要求」がない
EMA ガイドライン 4.6 は、PAT 用の NIRS 手順について踏み込んだ書き方をしている。
Because PAT NIRS procedures are specific to the nature of the manufacturing processes (e.g. sampling frequency adapted to process dynamics), it is not appropriate to prescribe exact requirements for such procedures in this guideline. (PAT の NIRS 手順は製造プロセスの性質に固有のもの(例:プロセスの動特性に合わせたサンプリング頻度)であるため、本ガイドラインで正確な要求事項を規定することは適切でない)
規制側が「一律の基準は作れない」と明言している。そのかわり、記述すべき事項が挙げられる。
The PAT NIRS procedure should be described in detail, with specific information in relation to the applied PAT application (e.g. spatial placement of the devices, structural peculiarities of the manufacturing facility and the nature and extent of sampling). (PAT の NIRS 手順は詳細に記述すべきであり、適用される PAT アプリケーションに関する具体的な情報を伴う。例:装置の空間的配置、製造施設の構造上の特殊性、サンプリングの性質と範囲)
プローブをどこに付けたかが、分析法の記述の一部になる。HPLC で「カラムオーブンをどこに置いたか」を書く必要はないが、NIR の PAT ではそれが測定条件そのものになる。
オンライン測定で最適化すべき4点
同ガイドライン 4.2.1 は、オンライン法(例:ブレンドの均一性判定)について具体的な検討項目を挙げる。
- サンプリング装置の設置位置の最適化
- 有効試料サイズ(effective sample size)の推定
- サンプリング装置のインターフェースまたは窓が、試料で覆われていることの保証
- サンプリング装置にファウリング(付着・汚れ)がないことを担保する管理
「有効試料サイズ」とは、その一回の測定が実際に何グラム分の粉体を代表しているのか、という量である。ブレンド均一性を語るなら、これを推定できていなければ議論が始まらない。
メーカー側の技術資料も同じことを言う。Metrohm のアプリケーションノートは末尾でこう締めている。
Correct probe design and proper placement in process equipment is of high importance. (正しいプローブ設計と、プロセス機器内での適切な設置が非常に重要である)
定性用途は三つに分かれる
EMA は NIRS の定性用途を三つに区分している。用語が実務でも通じるので押さえておきたい。
| 用途 | 定義 |
|---|---|
| identification(確認) | 物質の同一性のみを確認する |
| qualification(判別) | 同一性の確認に加え、同じ物質の異なるグレードを区別する(粒子径の違う grade、異なる結晶多形など) |
| conformity check(適合性確認) | 一定の類似度をもって規定の標準または事象に適合していることの確認。PAT・動的プロセスモニタリング・トレンド解析・工程内管理がこれにあたる |
そして conformity check には重要な例外が認められている。
Conformity NIRS procedures ... may not involve the use of a reference analytical method because of difficulties in sampling for reference analysis. (適合性確認の NIRS 手順は…参照分析のためのサンプリングが困難であることから、参照分析法の使用を伴わない場合がある)
ブレンドの終点を求めるのに、毎秒サンプルを抜いて HPLC にかけることはできない。だから終点判定は、参照法との対応ではなく NIR 信号の変化そのもので行う。その代表が MBSD(moving block standard deviation/移動ブロック標準偏差) である。ブレンド中の NIR 信号の標準偏差を時間の関数として追い、それが下がりきったところを均一とみなす。
ただし条件が付く。MBSD 手順のバリデーションは特定の終点に焦点を当て、「終点と真のブレンド均一性の結びつきがメソッドバリデーションの過程で確立されていること」を、健全な論拠と分析的証拠で支えなければならない。
〈出典:EMA ガイドライン 4.2.1, 4.6, 5.1, 8 / Metrohm AN-PAN-1048〉
8. 実例1:流動層乾燥の終点を「時間」から「水分」に変える

ここまでの枠組みが、実際の現場でどう使われるか。Metrohm Process Analytics のアプリケーションノート AN-PAN-1048(パイロットスケールの造粒プロセスにおけるインライン水分分析)が具体的である。
対象プロセス:トップスプレー造粒。流動層乾燥機のなかで粉体を流動させ、結合液をスプレーして造粒し、適切な水分レベルまで乾燥する。
なぜ水分が重要か(同ノートより):
- 乾かしすぎると ― 流動層のなかでの動きで顆粒が破砕して望ましくない微粒子が発生し、一部の有効成分や添加剤では水和状態の変化で処方が損なわれる
- 水分が多すぎると ― 流動性が悪くなり凝集する。後工程で製品が粘つき、保管中の製品安定性にも問題が出る
従来のやり方:サンプルシーフ(抜き取り器具)で流動層から試料を抜き、実験室でオフライン分析する。そして同ノートは、現場の実態をこう書いている。
Top spray granulation completion is often based on time or product temperature—not moisture content. (トップスプレー造粒の完了は、しばしば水分含量ではなく時間または製品温度に基づいて判断されている)
分析結果が出るまでの遅れがあるために、乾燥をいつ止めるかという重要な判断が最適な水分情報なしに下されている、というのがこのノートの問題提起である。
装置構成:
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 分析計 | 2060 The NIR Analyzer(Metrohm Process Analytics) |
| プローブ | 流動層専用プローブ。先端に「スプーン」とパージ孔を持つ。スペクトルを1回取るごとに、プローブのポートから出る空気パージがスプーンを清掃し、次の試料を受け入れる |
| 測定方式 | マイクロ・インタラクタンス反射プローブによるインライン測定 |
| 波長範囲 | 1100 〜 1650 nm |
| 測定対象 | 水分(H₂O)、濃度範囲 0 〜 60% |
終点判定:乾燥サイクル中に水分レベルが下限に漸近するところで終点とする。オペレータは製品が損傷・劣化する前に乾燥を止める判断を助けられ、実験室の結果を待つ遅延を最小化ないし解消できる。
制御への接続:2060 の出力は流動層乾燥機の PLC で使うことも、SIPAT(Siemens Industrial Process Analytical Technology)に統合して閉ループ制御の判断に使うこともできる。
そして、参照法は消えない。同ノートの REMARKS 節はこう書く。
A reference method must still be in use. An appropriate range of samples covering the process variability should be analyzed by both methods to build an accurate NIRS model. (参照法は依然として使用されていなければならない。プロセスの変動を網羅する適切な範囲の試料を両方の方法で分析し、正確な NIRS モデルを構築すべきである)
3節で見た EMA の「参照法は承認規格に残す」、1節で見た〈2.27〉の「同等性を確認しておく必要がある」と、メーカーの実務資料が同じことを言っている。NIR を入れることは、参照法をやめることではない。
なお同ノートは、NIR を「間接的な試験法(an indirect test method)」と明記したうえで、Ph. Eur. 2.2.40 や USP〈1119〉といった主要薬局方で推奨されており、連続生産と FDA の PAT イニシアチブの文脈にうまく適合する、と位置づけている。
〈出典:Metrohm Process Analytics AN-PAN-1048〉
9. 実例2:毎時25万錠の全数検査 ― 抜き取りが要らなくなるとき

もう一つ、2025年に発表された査読論文を挙げる。星薬科大学とアンリツの共同研究で、Analytical Chemistry 誌に掲載されたものである(Inoue, Taniguchi, Sano, Anal. Chem. 2025, 97(11), 6111–6117, doi:10.1021/acs.analchem.4c06733)。
やったこと:湿式造粒で製造した錠剤の NIR 透過スペクトルからケモメトリックスモデルを構築し、有効成分(API)含量を予測。従来法である HPLC と照合して検証した。
結果(抄録より):
| 指標 | 値 |
|---|---|
| 相関係数 | R² = 0.9979 |
| 予測の二乗平均平方根誤差 | RMSEP = 1.09% |
| 高速検査時(250,000 錠/時)の RMSEP | 1.19% |
| 含量均一性要求 | ±15% を満たす |
| HPLC に対するバイアス | 全処方で無視できる(negligible) |
この数字の意味。毎時25万錠というのは、1秒あたり約69錠である。この速度で全数を測って、RMSEP が 1.19% に収まっている。
含量均一性試験は本来、抜き取り検査である。日本薬局方でも USP でも、ロットから一定数の錠剤を取って試験する。それは破壊試験だから全数はできないという制約に由来している。NIR にはその制約がない。
ICH Q2(R2) の表2は、含量均一性の報告可能範囲を「表示量の 70% 〜 130%」と定めている。この論文の系は、その範囲を毎時25万錠のスループットで、HPLC 相当の確からしさで押さえている。
論文自身は、この手法が連続生産プロセスにおける品質保証に実質的に貢献する、と結んでいる。「速いから精度を諦める」ではなく、「全数を測るから抜き取りの前提が消える」という方向の変化である。
補足すると、これは6節のスペクトル品質試験の重要性を裏返しに示してもいる。毎秒69錠を人が見ることはできない。モデルが知らない試料が流れてきたことを検知する仕組みは、自動化された品質判定においてこそ効く。
〈出典:Anal. Chem. 2025, 97(11), 6111–6117 / ICH Q2(R2) Table 2〉
10. 装置性能の管理 ― 仕様書は薬局方に合わせて書かれている

モデルの話が続いたが、装置側の管理も当然要る。〈2.27〉は二つの項目に絞って数値を示している。
波長(または波数)の正確さ
基準物質として、ポリスチレン、希土類酸化物の混合物(ジスプロシウム/ホルミウム/エルビウム=1:1:1)、水蒸気などが挙げられている。許容差は次の3ピーク付近で判定する。
| 波長 | 波数 |
|---|---|
| 1200 ± 1 nm | 8300 ± 8 cm⁻¹ |
| 1600 ± 1 nm | 6250 ± 4 cm⁻¹ |
| 2000 ± 1.5 nm | 5000 ± 4 cm⁻¹ |
ただし「適用する用途に応じて、適切な許容差を設定することができる」という但し書きが付く。また、基準として用いる物質によって吸収ピークの位置が異なるので、上記3ピークに最も近い位置の吸収ピークを選んで適合性を評価する。具体例として、希土類酸化物混合物は 1261 nm(7930 cm⁻¹)、1681 nm(5949 cm⁻¹)、1971 nm(5074 cm⁻¹) に特徴的な吸収ピークを示すと書かれている。
波数分解能の高いフーリエ変換分光光度計では、1368.6 nm(7306.7 cm⁻¹)の水蒸気の吸収ピークを使うことができる。
分光学的直線性
異なる濃度で炭素を含浸させた板状のポリマー(carbon-doped polymer standards)などの標準板を使う。条件は具体的である。
- 反射率 10 〜 90% の範囲内で、少なくとも4濃度レベルの標準板が必要
- 吸光度 1.0 以上での測定が想定される場合は、反射率 2% または 5% の標準板のいずれか、または両方を追加
- 1200 nm・1600 nm・2000 nm 付近で吸光度を測定し、標準板に付与されている各波長での吸光度に対してプロットする
- 得られる直線の勾配は 1.00 ± 0.05、縦軸切片は 0.00 ± 0.05 の範囲内
仕様書と局方が一致している
ここで Bruker Optics の FT-NIR 分光計 MPA II の仕様書(BOPT-4001090-02, 2021)を見ると、興味深いことに気づく。
| 項目 | MPA II の仕様 |
|---|---|
| 分解能 | 2 cm⁻¹ |
| 波数再現性(RMS) | 0.006 cm⁻¹ |
| 波数確度 | 0.1 cm⁻¹ |
| 測光確度 | 0.1% T |
| 測光直線性 | 1.00 ± 0.05(勾配)/ 0.00 ± 0.05(オフセット) |
| 測定速度 | 8 cm⁻¹ 分解能で最大 5 スキャン/秒 |
| 検出器 | 高感度・熱電冷却 InGaAs |
| スペクトル範囲(試料室・光ファイバー・積分球) | 11,500 〜 4,000 cm⁻¹ |
| スペクトル範囲(外部透過ユニット) | 11,500 〜 5,800 cm⁻¹ |
測光直線性の仕様が、〈2.27〉の判定基準と数値まで一致している。勾配 1.00 ± 0.05、オフセット 0.00 ± 0.05。偶然ではない。同機の Validation 欄には、OPUS Validation Program(OVP)が OQ と PQ を支援し、USP〈856〉/Ph. Eur. 2.2.40 に従った適格性確認がオプションで可能と書かれている。装置の仕様は、薬局方の判定基準を通ることを前提に設計され、公表されている。
裏を返せば、カタログ値が局方要求と同じ数字だからといって余裕があるわけではない。仕様値ぎりぎりで出荷された装置は、局方判定でもぎりぎりになる。定期的な適格性確認が要る理由がここにある。
なお、Bruker の現行カタログは MPA III および TANGO II を掲載しており、製品ページでは検出器(全波数域で直線応答する高感度 InGaAs 検出器)と4つのサンプリング方式(試料室/固体・半固体の拡散反射用積分球/容器のまま測る光ファイバープローブ/外部透過ユニット)、および「OVP は現行のガイドライン(USP、JP、Ph. Eur. など)の要求を満たす」という記載は確認できるが、分解能やスペクトル範囲の数値は公開されていない。上表は MPA II の公表仕様である。
〈出典:日本薬局方〈2.27〉原案 4.1, 4.2 / Bruker Optics MPA II Specifications / Bruker MPA III 製品ページ〉
11. OOS が出たとき ―「参照法に戻る」を繰り返してはいけない

最後に、運用でいちばん揉める場面を扱う。ルーチンのバッチ分析で NIR が規格外(OOS)を出したときである。
EMA ガイドライン 4.3.3 の指示は明確だ。
- OOS 結果は、当該ロットの調査を医薬品品質システムのもとで開始させる。不合格か出荷かの判断は、その不適合調査の結果に基づく(調査には参照法による分析が含まれうる)
- 調査の結果、OOS の根本原因が測定に関するもの(人的ミス・装置故障)または予期しないスペクトル変動であり、当該ロットが参照法では規格に適合しているなら、試料は規格に適合しているとしてロットを出荷できる
- その調査は、NIRS 手順が十分に開発されていなかったことを示している場合もある。その場合、新しい変動要因を含むように NIRS 手順を再評価・更新する
- NIRS 手順を更新している間は、その使用を停止する。商業生産は参照法または他の登録された分析法を用いて進めてよい
そして、最も重要な一文。
Repeated changes from NIRS to reference method should be avoided and an OOS result by the NIRS procedure should always lead to an investigation rather than an immediate referral to the reference method. (NIRS から参照法への切り替えを繰り返すことは避けるべきであり、NIRS 手順による OOS 結果は、直ちに参照法に付託するのではなく、常に調査につながるべきである)
「NIR が変な値を出したから HPLC で測り直しました」を毎回やっていると、それは NIR 分析法が成立していないことの表明になる。参照法は避難所ではない。逃げ込むたびに、モデルが更新されないまま放置されていることになる。
装置間の移管
もう一つ、NIR に固有の難題が装置を替えたときにモデルが動くかである。EMA ガイドライン 7.3 は、装置の類似性を判断するパラメータとして、ハードウェア(同一の分光計型式と測定セットアップ)、ソフトウェア(数学的アルゴリズムと検量モデルにおけるスペクトル処理の方法)、インターフェース(プローブ・導波管・光ファイバー)を挙げ、二つの選択肢を示す。
- 選択肢1(NIRS の方法のみが変わる場合):代表的な参照試料セットについて、すべての装置で同一のスペクトル応答が得られるよう、装置のソフトウェアに数学的補償を入れる。一般にはバイアス補正、勾配補正、またはベクトル補正
- 選択肢2(数学的補償では不十分なすべての場合):追加の装置で検量とバリデーションをやり直して確認する。ただし、マスター機と追加機の両方で測定した少数の代表試料を使って移管モデルを作ることもできる。試料の選び方としては多変量レバレッジの大きいもの、つまり検量モデルへの影響が大きい試料を選ぶのが好都合とされる。マスター機がすでに使えない場合は、適切な数の試料を正当化したうえで追加機上でモデルを構築する
いずれの場合も、移管には適切な同等性プロトコル(comparability protocol) が必要とされる。これは初回申請時に「承認後変更管理プロトコル」として提出しておくことも、移管の一変申請時に提出することもできる。
変更管理試験
定性手順については、変更のたびに信頼性が保たれていることを示す変更管理試験を用意しておくよう求められる。構成の条件が具体的だ。
A change management test should be composed of a minimum of two sets of samples (i.e. two classes or substances) for which separation is most critical. (変更管理試験は、分離が最も重要となる少なくとも2組の試料セット(すなわち2つのクラスまたは物質)で構成されるべきである)
いちばん見分けにくい2つを選べ、ということである。区別しやすいペアで試験を組めば、いつでも通ってしまい、何も検出できない。試験が不合格(=2セットを区別できない)なら、モデルは完全に再バリデーションが必要になる。この変更管理試験の妥当性自体も、定期的に再評価すべきとされている。
〈出典:EMA ガイドライン 4.3.3, 7.2.1, 7.3〉
まとめ
NIR は「前処理なしで数秒で結果が出る手法」として紹介されることが多い。それは事実だが、その手軽さは装置の外側にある大量の作業の上に乗っている。
本記事で原典から確認したことを整理する。
- NIR が見ているのは倍音と結合音であり、吸収は中赤外の基準振動より「はるかに弱い」。だからこそ粉体の数 mm 奥まで潜れる(JP〈2.27〉)
- 局方は測定法を3種に分け、層長 1〜5 mm、光路長は試料厚さの2倍、吸光度 0.1〜2 といった条件を数値で示している(JP〈2.27〉)
- NIR は「方法・モデル・手順」の三層でできており、局方の一般章を引用するだけでは分析法として不十分(EMA)
- 前処理は加工であり、アーティファクトの持ち込みと情報の喪失を伴いうる(EMA)
- 検量範囲は SEP の10倍以上。SEP の定義にバイアス補正を含めない。潜在変数の数は物理的に説明できる変動要因の数と釣り合うべき(EMA)
- モデルは参照法より賢くならない。参照法の性能は多変量法の期待性能と同等以上であるべき(EMA / ICH Q2(R2))
- モデルにかける前にスペクトル品質試験を通す。落ちた試料をそれでもモデルにかけるのは「科学的に不適切な行為」(EMA)
- 外れ値は不合格ではない。3種に分類し、真正性を確認したうえでライブラリに取り込んでモデルを育てる(EMA)
- PAT には一律の要求が作れない。そのかわりプローブの空間配置までが分析法の記述の一部になる(EMA)
- 参照法は消えない。局方も規制当局もメーカーも、同じことを言っている(JP〈2.27〉/ EMA / Metrohm)
- OOS のたびに参照法へ逃げてはいけない(EMA)
そして応用の現在地としては、流動層乾燥の終点判定が「時間または製品温度」から水分の実測に移り(Metrohm AN-PAN-1048)、錠剤の含量均一性が 毎時25万錠の全数検査で RMSEP 1.19% という水準に到達している(Anal. Chem. 2025)。
NIR を導入するかどうかを判断するとき、比較すべきなのは装置のカタログ値ではない。モデルを作り、検証し、外れ値を拾い、更新し続ける体制を持てるかどうかである。装置は買えるが、モデルは買えない。
用語集
- 倍音(overtone)/結合音(combination band) ― 基準振動の整数倍の振動数に現れる吸収が倍音、複数の振動が組み合わさって現れる吸収が結合音。NIR 領域の吸収は主にこれらによる。
- ケモメトリックス(chemometrics) ― 化学データを数量化し情報化するための数学的・統計学的手法(JP〈2.27〉)。EMA の定義集では「データを解析し比較するための数学的手法」。
- 潜在変数(latent variable) ― 多数の観測変数(スペクトルの各波長)から、データの分散を最大限説明するように数学的モデルで算出される変数。PLS の「因子」、PCA の「主成分」がこれにあたる。
- PLS(partial least squares/部分最小二乗)回帰 ― スペクトルと参照値の相関に基づいて潜在変数を作り、定量モデルを構築する多変量解析法。〈2.27〉が重回帰分析法と並んで挙げている。
- SEC / SEP / SECV / SEL ― 順に校正/予測/交差検証/実験室の標準誤差。SEP は独立した検証試料に対する予測値と参照値の差のばらつき、SEL は参照法の室内再現精度または室間再現精度に関わる誤差。
- RMSEP / RMSEC ― 予測/校正の二乗平均平方根誤差。ICH Q2(R2) が多変量分析法の指標として挙げる。
- スペクトル品質試験 ― モデル適用前に、その試料がモデルの校正・検証された変動範囲内にあるかを判定する統計的検査。Hotelling's T² や distance to model プロットが用いられる。
- レバレッジ(leverage) ― マハラノビス距離に関連する概念で、母集団の他の試料との類似性に基づいてモデルにおけるその試料の影響度を測る指標。
- MBSD(moving block standard deviation) ― 移動ブロック標準偏差。ブレンド中の NIR 信号の標準偏差の時間変化を追い、均一化の終点を判定する手法。
- PAT(Process Analytical Technology) ― 最終製品品質の保証を目的に、原料・工程内物質・工程の重要品質特性を適時に測定して製造を設計・解析・管理するシステム。
- RTRT(Real Time Release Testing) ― リアルタイムリリース試験。工程内データに基づいて最終製品の品質を評価し出荷判定する方式。EMA ガイドラインは NIRS がその戦略の一部として使われうるとする。
出典
- 日本薬局方 一般試験法〈2.27〉近赤外吸収スペクトル測定法 原案(PMDA 公開 PDF, 001-2106-1.pdf) — https://www.pmda.go.jp/
- European Medicines Agency, "Guideline on the use of near infrared spectroscopy by the pharmaceutical industry and the data requirements for new submissions and variations", EMEA/CHMP/CVMP/QWP/17760/2009 Rev2, 27 January 2014 — https://www.ema.europa.eu/en/documents/scientific-guideline/guideline-use-near-infrared-spectroscopy-pharmaceutical-industry-and-data-requirements-new-submissions-and-variations_en.pdf
- ICH, "Q2(R2) Validation of Analytical Procedures", Step 4 version, 30 November 2023 — https://database.ich.org/sites/default/files/ICH_Q2%28R2%29_Guideline_2023_1130.pdf
- Metrohm Process Analytics, Application Note AN-PAN-1048, "Inline moisture analysis in a pilot scale granulation process by NIRS" — https://www.metrohm.com/en/applications/application-notes/prozess-applikationen-anpan/an-pan-1048.html
- Bruker Optics, "MPA II FT-NIR Spectrometer Specifications", BOPT-4001090-02, 2021
- Bruker, "MPA III Multi Purpose Analyzer" 製品ページ — https://www.bruker.com/en/products-and-solutions/infrared-and-raman/ft-nir-spectrometers/mpa-ii-multi-purpose-analyzer.html
- M. Inoue, E. Taniguchi, J. Sano, "Real-Time Total Content Uniformity Assessment of Solid Dosage Forms Using Near-Infrared Transmission Spectroscopy", Analytical Chemistry 2025, 97(11), 6111–6117, doi:10.1021/acs.analchem.4c06733 — https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/40062834/
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未確認・本記事で扱わなかった事項
- 透過構成が近赤外の短波長側(1100〜1700 nm 付近)に寄る理由。Metrohm と Bruker の資料が独立に同じ帯域を示している事実は確認したが、その理由(倍音の次数と吸収強度の関係など)を明示した一次資料は取得できなかったため、本文では事実の提示にとどめた。公開後に調査資料一式へ改めて照会したが、この理由を述べた資料はやはり見つからなかったため、記述は現状のままとしている。
- 欧州薬局方 2.2.40 および USP の該当章の本文。Ph. Eur. 2.2.40 は EMA ガイドラインが参照している章として、USP は Metrohm 資料が〈1119〉、Bruker 資料が〈856〉として言及しているが、いずれも本記事では原文を開いていない。USP の章番号が資料によって異なる点は、それぞれの資料の記載をそのまま示した。
- FDA PAT ガイダンス(2004年)の原文。PAT の定義は EMA ガイドラインの定義集に収録されたものを引用した。FDA の原文 PDF は取得を試みたがアクセスできなかった。
- ICH Q13(連続生産)および Q14(分析法開発)の本文。本記事では ICH Q2(R2) のみを原典で確認している。
- 各社の最新プロセス NIR 装置(2025〜2026年発売機)の詳細スペック比較。公開仕様が数値で確認できたものが限られるため、装置比較は行っていない。
制作メモ:本記事はディープリサーチで文献の当たりを付けたうえで、日本薬局方〈2.27〉原案・EMA ガイドライン(28ページ全文)・ICH Q2(R2)(36ページ)・Metrohm アプリケーションノート・Bruker 仕様書・PubMed 収録の論文抄録を、編集側がすべて原典で開いて確認のうえ執筆した。本文中の引用は原文(日本語文書は原文のまま、英語文書は原文と訳を併記)から取っている。