FTIR とラマンの使い分けは、教科書ではこう説明される ――「C=O や O−H のような極性結合は赤外、C=C や芳香環のような対称性の高い結合はラマン」。
正しい。だが、装置の前に立ったとき、この説明が判断を助けることはあまりない。理由は単純で、相互排除則がある以上、両者はそもそも競合していないからである。片方に出ないものがもう片方に出る。それは「どちらを選ぶか」の理由にならない。
実務で選択を決めているのは、もっと即物的なものだ。
その試料で、何がその測定を殺すか。
FTIR を殺すのは 水・深さ・容器である。ラマンを殺すのは 蛍光・焼損である。目の前の試料がどちらの地雷を踏むかで、答えはほぼ決まる。
そして、この見方に立つとラマンにしかできないことが一つ浮かび上がる ―― 容器を開けずに中身を同定できる。これが医薬品原料の全数受入試験を成立させている。
本記事は、両者の失敗モードを原典の数値で並べ、最後に決定フローとしてまとめる。原理は 分光分析の全体像、装置内部は FTIR徹底解説 と ラマン分光徹底解説 にあるので、本記事は選ぶ場面に絞る。
この記事の読み方
- 入門者:1〜2 節。なぜ「どちらが優れているか」が成立しないのか。
- 試料を前に迷っている人:3〜7 節が本題。二つの失敗モード群。
- 受入試験を設計する人:8 節。容器越し測定。
- どちらか決めきれない人:9 節。併用という答え。
- 急ぐ人:10 節の決定フロー。
数値はすべて原典(査読論文・メーカーの技術資料)を開いて確認している。
1. 「どちらが優れているか」は問いとして成立しない

まず前提を短く確認する。赤外吸収は双極子モーメントの変化、ラマン散乱は分極率の変化で起きる。反転中心を持つ分子では、大学の講義資料が書くとおりになる。
infrared-active modes will be Raman inactive, and vice versa, for centrosymmetric molecules. This requirement is known as the rule of mutual exclusion. (反転中心を持つ分子では、赤外活性な振動はラマン不活性であり、その逆も成り立つ。これを相互排除則という)
つまり 両者は同じものを見ていない。優劣を比較する土俵がそもそもない。
にもかかわらず現場では「どちらを買うか」「どちらで測るか」を決めなければならない。その判断を実際に支配しているのは、選択律ではなく失敗モードである。
2. 選択を決めるのは「何に殺されるか」

二つの手法は、それぞれ固有の殺され方をする。
| FTIR を殺すもの | ラマンを殺すもの | |
|---|---|---|
| 1 | 水 ―― 強く吸収して視界を覆う | 蛍光 ―― ラマンより桁違いに強く、ベースラインを持ち上げる |
| 2 | 深さと粒子径 ―― ATR は表面 2 µm、回折限界は 7.4〜3.7 µm | 焼損 ―― 焦点のパワー密度が試料を分解する |
| 3 | 容器 ―― 中身を測れない | ― |
この表の各行を、以下で数字とともに見ていく。自分の試料がどの行に当たるかを先に決めれば、装置はほぼ自動的に決まる。
3. FTIR を殺すもの① ― 水

中赤外領域で水は非常に強く吸収する。水溶液を透過法で測るのが難しいのはこのためで、臭化カリウム錠剤法でも KBr と試料の吸湿がそのまま妨害バンドになる。
一方ラマンでは、水は非常に弱い散乱体である。水分子の対称的な振動は分極率をあまり変えないので、水は「ラマンではほぼ透明」に振る舞う。
したがって 水系の試料では、ほぼ無条件にラマンが有利である。
- 水溶液中の反応追跡、生体試料、培養液
- 湿った固体、含水ゲル
- 水中の粒子(後述の環境試料)
逆に言えば、乾燥した固体の官能基を確認したいだけなら FTIR で十分であり、わざわざラマンを持ち出す理由はない。
4. FTIR を殺すもの② ― 深さと粒子径
これは見落とされやすい。FTIR は「小さいもの」に弱い。
理由は二つある。ひとつは FTIR徹底解説 で扱った ATR の潜り込み深さで、Specac の実測値ではダイヤモンド/ZnSe・入射角45°・試料屈折率 1.5 で 1000 cm⁻¹ において 2.01 µm。表面数 µm しか見ていない。
もうひとつが赤外光の回折限界である。マイクロプラスチックの同定を扱った Scientific Reports 誌の論文(Böke ら、2022年)は、FTIR 顕微鏡についてこう書く。
the resolution limit ranges from 7.4 to 3.7 µm according to the Abbe's equation of diffraction limit for microscopes. This is one order of magnitude coarser than Raman spectroscopy (顕微鏡の回折限界に関するアッベの式によれば、分解能の限界は 7.4〜3.7 µm の範囲にある。これはラマン分光より1桁粗い)
そして実用上の検出下限として、こう続く。
microparticles above 20 µm are detectable in reflectance or transmittance mode (反射モードまたは透過モードでは、20 µm 以上の微粒子が検出可能である)
対してラマンは、同論文によれば 0.5 µm から数ミリメートルの粒子を評価できる。
赤外は波長が長い。中赤外は 2500〜25000 nm、可視のラマン励起は 532〜1064 nm。1桁以上違う波長で光を絞る以上、細かさで勝てないのは当然の帰結である。
実務上の切り分けはこうなる。
- 20 µm より大きい粒子・領域 → FTIR で速く回せる
- 数 µm 以下 → ラマンでなければ届かない
- 異物解析で「小さすぎて赤外で取れなかった」 → 装置の不調ではなく原理的な限界
5. FTIR を殺すもの③ ― 容器

最も決定的な差がこれである。FTIR は容器越しに中身を測れない。
ガラスも一般的なプラスチックも中赤外を強く吸収するため、容器そのもののスペクトルしか返ってこない。ATR なら試料を結晶に押し付ける必要があり、透過法なら容器から出して調製する必要がある。いずれにせよ容器を開ける。
これがどれだけ効くかは、次の8節で扱う。
6. ラマンを殺すもの① ― 蛍光

ラマン側の最大の失敗モードは蛍光である。ラマン散乱はもともと弱いので、蛍光が少しでも出ればベースラインが持ち上がり、ピークが埋もれる。
前掲の Scientific Reports 論文は、環境試料での事情をこう書く。
Raman spectroscopy…is highly susceptible to fluorescence interferences that can be particularly prevalent in environmental samples and might be attributed to degradation effects or adsorbed contaminations. (ラマン分光は蛍光干渉を非常に受けやすく、それは環境試料でとくに顕著でありうる。劣化の影響や吸着した汚染に起因することがある)
さらに着色試料について、
the Raman spectra of colored and pigmented MP samples might be distorted by the fluorescent emission or resonant enhanced Raman signals of the dye (着色・顔料入りのマイクロプラスチック試料のラマンスペクトルは、色素の蛍光発光あるいは共鳴増強されたラマン信号によって歪められることがある)
環境から採ってきた試料、着色した試料、劣化した試料 ―― どれもラマンにとっては不利である。逆にこれらは FTIR ではまったく問題にならない。
対策は ラマン分光徹底解説 で扱ったとおり励起波長を長くすることだが、その代償として感度と空間分解能を失う。
7. ラマンを殺すもの② ― 焼損

もうひとつは試料を焼くことである。ラマンは弱い信号を拾うために光を絞る。焦点のパワー密度は容易に 10⁶ W/cm² の桁に達し、実測された分解閾値(鉛丹で 5.1×10⁴ W/cm²)を桁で超えうる。
FTIR にこの失敗モードは基本的にない。光源が弱く、絞らないからである。
したがって、
- 熱に弱い試料、色素、生体試料、医薬品の一部 → ラマンでは条件出しが必須
- 「測定したら試料が変色した」 → ラマン特有の事故
「非破壊分析」と言われるラマンだが、条件次第で破壊的になることは押さえておきたい。
8. ラマンだけができること ― 容器を開けずに同定する

5節の裏返しが、ラマン最大の実務的価値である。
Metrohm のアプリケーションノート AN-RS-046 は、この能力の範囲を正確に書いている。
All Raman systems have some inherent ability to test through thin and transparent barriers like glass vials and clear plastic. (すべてのラマン装置は、ガラスバイアルや透明プラスチックのような薄く透明な障壁を通して測定する固有の能力をいくらか持っている)
つまり特別な装置でなくても、ガラス瓶や透明な袋の上からある程度は測れる。ただし限界も明記されている。
Thick barriers—especially opaque or colored glass, plastic, and multiple layers of paper—require a modified optical system. (厚い障壁 ―― とくに不透明あるいは着色したガラス、プラスチック、複数層の紙 ―― は、改良された光学系を必要とする)
同ノートが紹介する装置は 1064 nm 励起と専用アタッチメントでこれに対応し、データ処理では
A unique data analysis algorithm quickly identifies and separates the container signature from the sample signature, accurately identifying both. (独自のデータ解析アルゴリズムが、容器の signature と試料の signature を素早く識別・分離し、両者を正確に同定する)
としている。容器のスペクトルが必ず混ざるので、それを分離する処理が要る、ということでもある。
この能力が何を可能にするか。同ノートは製造現場についてこう述べる。
This streamlines QC and supports 100% testing of incoming goods. (これは QC を効率化し、受入品の全数試験を支える)
原料を開封せずに全数同定できる。開封すれば汚染リスクと作業者曝露が生じ、サンプリングした分は廃棄になる。容器越しに測れるなら、そのどちらも起きない。ハンドヘルドラマンが医薬品倉庫に普及したのは、感度が良いからではなくこの一点による。
FTIR には、原理的にこの選択肢がない。
注記:同ノートは「受入時点で 90% の試験が可能になる」といった導入効果も挙げているが、これはメーカー自身の主張であり、本記事では数値としては採用していない。
9. 決めきれないなら、両方使うのが最も強い

ここまで「どちらか」で書いてきたが、1節に戻れば当然の帰結がある ―― 相互排除則がある以上、両方測るのが情報量として最大である。
これは感覚論ではない。前掲の Scientific Reports 論文は、赤外とラマンの両方の一致度(HQI, hit quality index)を使う二次元同定を提案し、こう結論している。
The combination of both Raman and IR measurements can take full advantage of the well-known complementarity information… It enables more sensitive, more accurate and reproducible identification of particles (ラマンと赤外の両測定の組み合わせは、よく知られた相補的情報を最大限に活用できる……それは粒子の、より高感度で、より正確かつ再現性の高い同定を可能にする)
HQI は 1.0 が完全一致、0.0 が無関係を意味する指標で、同論文ではラマンスペクトルの対角成分(正しい組み合わせ)の HQI が PMMA の 0.72 から PET の 0.97 まで分布したと報告されている。一つの手法では、物質によって一致度がここまでばらつく。二軸で見れば、片方が低くてももう片方が支えられる。
実務への落とし込みは単純である。
- 同定の確度が要る場面(異物、偽造品、規制対応)では、片方の HQI だけで結論しない
- 手元に両方あるなら、迷ったら両方測る。測定自体はどちらも数分で終わる
10. 決定フロー

上から順に判定する。最初に該当した行で決まる。
| # | 条件 | 選択 | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 1 | 容器を開けずに測りたい | ラマン(FTIR は不可) | 8節 |
| 2 | 試料が水を含む/水溶液 | ラマン | 3節 |
| 3 | 対象が 20 µm 未満の粒子・領域 | ラマン | 4節 |
| 4 | 試料が着色している/環境から採取した/劣化している | FTIR(ラマンは蛍光) | 6節 |
| 5 | 試料が熱に弱い | FTIR(ラマンは焼損) | 7節 |
| 6 | 乾燥した固体の官能基を確認したいだけ | FTIR(速くて安い) | 3節 |
| 7 | 対称性の高い結合(C=C、S−S、芳香環)を見たい | ラマン | 1節 |
| 8 | 同定の確度が要る/上の条件が競合する | 両方 | 9節 |
条件4・5と条件1〜3が同時に成立する場合(例:着色した水溶液、容器に入った暗色の原料)は、ラマンの励起波長を長くすることで解ける可能性がある。1064 nm 励起は蛍光と焼損の両方を同時に緩和する。
まとめ
- 相互排除則がある以上、FTIR とラマンに優劣はない。判断を支配するのは選択律ではなく失敗モード(1〜2節)
- FTIR を殺すのは、水・深さと粒子径・容器
- ラマンを殺すのは、蛍光・焼損
- 赤外の回折限界は 7.4〜3.7 µm で「ラマンより1桁粗い」。実用上は 20 µm 以上が検出対象、ラマンは 0.5 µm から(4節)
- 着色・環境・劣化した試料はラマンで蛍光が出る。同じ試料が FTIR では何の問題も起こさない(6節)
- ラマンだけが容器を開けずに測れる。「薄く透明な障壁」は標準機でもある程度可能、「厚い・不透明・着色・多層紙」は専用光学系が要る。これが受入品の全数試験を成立させている(8節)
- 迷ったら両方測る。二つの HQI を使う二次元同定は「より高感度で、より正確かつ再現性の高い同定」を可能にすると報告されている(9節)
用語集
- 相互排除則:反転中心を持つ分子で、赤外活性な振動はラマン不活性、その逆も成り立つという規則。
- 潜り込み深さ:ATR で光がしみ出す距離。波数に反比例する。
- 回折限界:光の波長によって決まる、集光できるスポットの下限。赤外は波長が長いぶん不利になる。
- HQI(hit quality index):測定スペクトルとライブラリスペクトルの一致度。1.0 が完全一致、0.0 が無関係。
- 容器越し測定(through-container / see-through):容器を開けずに内容物のスペクトルを取得すること。容器由来の信号を分離する処理を伴う。
- 全数受入試験:入荷した原料の容器をすべて試験すること。抜き取りではなく全数。
出典
- J. S. Böke, J. Popp, C. Krafft「Optical photothermal infrared spectroscopy with simultaneously acquired Raman spectroscopy for two-dimensional microplastic identification」Scientific Reports 12 (2022), doi:10.1038/s41598-022-23318-2 — https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC9637219/
- Metrohm「Through-container analysis with Raman spectroscopy」Application Note AN-RS-046 — https://www.metrohm.com/en/applications/application-notes/raman-anram/an-rs-046.html
- Specac Ltd「Depth of penetration for ATR measurements」 — https://specac.com/theory-articles/depth-of-penetration-for-atr-measurements-2/
- University of Massachusetts Boston, CH370「Spectroscopic Selection Rules」(講義資料) — https://alpha.chem.umb.edu/chemistry/ch370/CH370_Lectures/Lecture%20Documents/Ch04_10_Vibrations.pdf
制作メモ:ディープリサーチで収集した資料を出発点に、編集側で査読論文とメーカーの技術資料を開いて検証のうえ執筆した。既出の数値(ATR の潜り込み深さ、ラマンの分解閾値、λ⁻⁴)は本ブログの既掲載記事で検証済みのものを再掲している。
公開後の検算で確認した点:(1) 本文で挙げた赤外顕微鏡の回折限界 7.4〜3.7 µm は Scientific Reports 誌の論文本文から直接引用したものだが、他の資料では同じ趣旨の値が 約 6.6 µm、あるいは「10 µm 以下で回折の影響が出る」といった形でも示されている。いずれも同じオーダーだが、資料によって表現と数値が異なる点は留意されたい。(2) 8節で「改良された光学系」と書いたものについて、厚い容器や不透明な包装を透かすための手法は一般に SORS(空間オフセットラマン分光) と呼ばれる。ただし本記事では、この名称を明記した一次資料を直接確認できなかったため本文では用語を出していない。
裏が取れず記載しなかったもの:(1) Metrohm のアプリケーションノートが挙げる導入効果の数値(受入時点での試験比率など)はメーカー自身の主張であり、独立した検証ができないため数値としては採用していない。(2) クラフト紙が 785 nm 励起で強い蛍光を示すという記述はメーカーの製品説明ページに見られたが、アプリケーションノート本文で確認できなかったため本文に含めていない。(3) 官能基ごとに「どちらで強く出るか」を網羅した対応表は、権威ある一次資料を確認できなかったため作成していない。本文では相互排除則から導ける範囲(極性結合は赤外、対称性の高い結合はラマン)にとどめた。(4) 装置価格・運用コストの比較は、公開された価格情報が乏しく検証できないため扱っていない。