NMR のスペクトルが返ってきたとき、そこに何が写るかは、試料管を磁石に入れる前にほとんど決まっている。溶媒を何にしたか、どのグレードを買ったか、どれだけの濃度にしたか、どの試料管を使ったか。これらは測定条件の「前」にある選択で、あとから処理で取り消すことができない。
このうち、いちばん見落とされているのが重水素化溶媒のグレードである。試薬瓶には「99.8 %」と書いてある。ほとんどの人は、これを「不純物が 0.2 %」と読んで、それ以上は考えない。
しかしこの数字は原子%であって、質量でも体積でもない。そして溶媒によって、分子1個が持つ重水素の数が違う。だから同じ「99.8 %」でも、溶液に残る水素の量は約 7 倍ちがう。本記事はそこを起点に、試料調製で決まってしまうものを一次資料から順に見ていく。
この記事の読み方
入門者は 1〜4 節を読めば、「重溶媒を選ぶ」という行為が何を決めているかが分かる。すでに日常的に NMR を回している方は、5〜9 節(グレードの選択、残留ピークの形、水)と 11〜12 節(試料管の等級、脱気)が実務の中核になる。
数値のうち、筆者が計算したものにはその旨を明記した。計算はすべてメーカー公表の分子量・密度・重水素化度からの算術で、再現できるよう前提も本文に書いてある。
1. 日本薬局方〈2.21〉が、試料調製について実際に書いていること
まず、公定書がどこまで書いているかを確認しておく。第十九改正日本薬局方の一般試験法〈2.21〉核磁気共鳴スペクトル測定法(一般試験法 p.115-118)は、操作法の項で試料調製を明示的に扱っている。
溶媒については、選択の基準が 3 つ挙がっている。
測定溶媒としては,通例NMR測定用重水素化溶媒を用いる.溶媒の選択に当たっては,試料のシグナルと重なるシグナルを示さないこと,試料をよく溶かすこと,及び試料と反応しないことなどを考慮する必要がある.
そして、そのすぐ後に、本記事の主題に直結する一文が来る。
溶媒の種類,溶液の濃度,重水素イオン濃度などにより化学シフトが変化することがあり,また,試料溶液の粘度が高い場合には分解能が低下するので注意する.
さらに、溶液の状態についても書いている。
試料溶液は完全に均一な溶液であることが望ましい.特に,固形の異物の混入があると良いスペクトルが得られない.
つまり局方は、「溶媒によって化学シフトが動く」ことも「異物があると駄目になる」ことも承知したうえで書かれている。そのうえで、記載すべき測定条件を 7 項目挙げている。
測定条件の違いによりスペクトルは異なるので,スペクトルの比較などを適切に行うために,測定に用いた装置名,装置の周波数,測定溶媒,測定温度,試料濃度,基準物質,測定手法などの測定条件を記載する.
このうち 測定溶媒・測定温度・試料濃度の 3 つは、まさに試料調製で決まる量である。局方が「記載せよ」と言っているということは、これらが変われば結果も変わると認めているということだ。
2. 局方は「基準物質を入れなくてよい」と書いている
〈2.21〉は基準物質を具体的に指定している。有機溶媒なら TMS、重水なら DSS または TSP。ほかの核についても、15N はニトロメタン、19F はトリクロロフルオロメタン、31P はリン酸と決めている。
ところが、その直後にこう続く。
また,基準物質を入れずに,重水素化溶媒中の残留プロトンや測定溶媒の 13C の化学シフトを用いることもできる.
これは実務では当たり前の運用だが、条文として読むと重い。局方は、溶媒の不純物を基準点として使ってよいと認めている。つまり残留プロトンのシグナルは、避けるべき邪魔者ではなく、位置を知っていれば使える目印だということになる。
ただし前節で見たとおり、同じ〈2.21〉が「溶媒の種類、溶液の濃度、重水素イオン濃度などにより化学シフトが変化することがある」とも書いている。基準に使ってよいと言われているものが、条件で動く。この二つの文は同じページに並んでいる。
だから残留プロトンを基準に使うなら、その位置がどれくらい信頼できるのかを知っておく必要がある。それが 6 節から 9 節の話になる。
3. 同じ「99.8 %」でも、残る水素の量は 7 倍ちがう
ここが本記事の核である。
重水素化率(atom % D)は、重水素が入るべき位置のうち、実際に重水素が入っている割合である。99.8 % なら、0.2 % の位置には水素が残っている。
問題は、分子 1 個が持つ「重水素が入るべき位置」の数が溶媒ごとに違うことだ。クロロホルム-d(CDCl3)は 1 個しかない。DMSO-d6 は 6 個ある。同じ 99.8 % でも、分子あたりに残る水素の期待値は 6 倍ちがう。さらに分子量と密度が違うので、モル濃度に直すと差はもっと複雑になる。
そこで、メーカーが公表している分子量と密度から、残留する 1H のモル濃度を計算した。分子量と密度は Cambridge Isotope Laboratories の NMR Solvent Data Chart の値を用い、DMSO-d6 については Deutero GmbH の製品ページ(分子量 84.17 g/mol、密度 1.19 g/mL)とも一致することを確認している。
比較の基準として、分子量 300 の化合物 5 mg を 0.6 mL に溶かした「ふつうの試料」を置く。これは 27.8 mmol/L で、1H が 1 個だけのシグナルは、プロトン濃度にしてこの値に相当する。
同じ 99.80 % グレードで比べると、こうなる(いずれも筆者計算。残留“溶媒ピーク”に出るのは炭素上の重水素の分だけなので、メタノール-d4 は OD を除いた 3 個で数えている)。
| 溶媒 | 炭素上の D の数 | 残留 1H | 試料の 1 プロトンとの比 |
|---|---|---|---|
| クロロホルム-d (CDCl3) | 1 | 24.9 mmol/L | 0.9 倍 |
| アセトニトリル-d3 | 3 | 114.4 mmol/L | 4.1 倍 |
| ベンゼン-d6 | 6 | 135.5 mmol/L | 4.9 倍 |
| メタノール-d4 | 3 | 148.0 mmol/L | 5.3 倍 |
| アセトン-d6 | 6 | 162.8 mmol/L | 5.9 倍 |
| DMSO-d6 | 6 | 169.7 mmol/L | 6.1 倍 |
同じ「99.80 %」という表示でありながら、24.9 mmol/L から 169.7 mmol/L まで、約 6.8 倍の開きがある。
そして右端の列が実務的な意味を持つ。DMSO-d6 で測ると、溶媒の残留ピークは、試料の 1 プロトンぶんのシグナルより 6 倍大きい。これは「小さな不純物ピーク」ではない。スペクトルの中で最も高い部類のピークである。
計算式そのものは一行で、次のとおり。
残留 1H のモル濃度 = (1 − 重水素化率) × 炭素上の D の数 × (密度 ÷ 分子量) × 1000 [mmol/L]
重水素化率も密度も分子量もメーカーの公表値なので、この計算は誰でも再現できる。
4. なぜクロロホルム-d だけが例外なのか
上の表でクロロホルム-d だけが飛び抜けて小さいのは、純度が高いからではない。実際に売られているグレードは他の溶媒と同じ 99.80 % である。
理由は単純で、分子あたりの重水素が 1 個しかないからだ。CDCl3 は炭素に 1 本しか水素を持たない。だから 0.2 % の残留が「1 個ぶん」にしか効かない。DMSO-d6 やアセトン-d6 は 6 個持っているので、同じ確率でも 6 倍の残留が出る。
加えて分子量が大きく(120.38)密度との兼ね合いでモル濃度そのものが 12.5 mol/L と、DMSO-d6 の 14.1 mol/L より小さい。この二つが重なって、CDCl3 の残留ピークは小さくなる。
CDCl3 が有機合成の現場で圧倒的に使われている理由は、溶解性と価格と揮発性(試料を回収しやすい)が主だが、残留ピークが小さいという性質も、実は分子構造の帰結として付いてきている。逆に言えば、DMSO-d6 に切り替えた瞬間に、この恩恵は失われる。
5. グレードを上げると、何分の 1 になるか
多くの溶媒は複数のグレードで売られている。ドイツの重溶媒メーカー Deutero GmbH の製品表から、実際に販売されているグレードを取り、最低グレードと最高グレードで残留 1H を比較した(筆者計算)。
| 溶媒 | グレードの幅 | 残留 1H の変化 | 何分の 1 になるか |
|---|---|---|---|
| クロロホルム-d | 99.80 % → 99.95 % | 24.9 → 6.2 mmol/L | 4 |
| DMSO-d6 | 99.80 % → 99.96 % | 169.7 → 33.9 mmol/L | 5 |
| 重水 (D2O) | 99.90 % → 99.98 % | 110.8 → 22.2 mmol/L | 5 |
| メタノール-d4 | 99.80 % → 99.95 % | 197.4 → 49.3 mmol/L | 4 |
| ベンゼン-d6 | 99.00 % → 99.95 % | 677.4 → 33.9 mmol/L | 20 |
| アセトニトリル-d3 | 99.00 % → 99.95 % | 571.8 → 28.6 mmol/L | 20 |
| アセトン-d6 | 99.00 % → 99.95 % | 814.1 → 40.7 mmol/L | 20 |
注目すべきは下の 3 つである。ベンゼン-d6・アセトニトリル-d3・アセトン-d6 には 99.00 % グレードが存在する。この安いグレードを使うと、残留 1H は 570〜810 mmol/L に達する。先ほどの「ふつうの試料」の 1 プロトンに対して 20〜29 倍である。
つまり「重溶媒を買う」という同じ行為の中に、残留ピークが 20 倍ちがう選択肢が並んでいる。カタログ上は同じ「アセトン-d6」で、値段だけが違って見える。
日本薬局方も、この方向を一言だけ認めている。ただし場所が意外なところにある。一般試験法 473 ページを全文検索すると、「重水素化率」という語が出てくるのは 1 か所だけで、それは〈2.21〉ではなく生薬試験法の定量NMR(qNMR)の注意事項である(p.214)。
また,重水素化率が高い重溶媒を使用する方が,若干ではあるが感度が向上する.
「若干ではあるが」と書かれている。感度(SN 比)という観点ではそのとおりだろう。しかし残留ピークの大きさという観点では、上の表のとおり 4 分の 1 から 20 分の 1 まで変わる。局方の NMR の章そのもの(〈2.21〉、p.115-118)には、重水素化率への言及が一度もない(筆者による全文検索で確認)。
6. 残留ピークは 1 本ではない ― 五重線になる理由
残留プロトンのシグナルを基準に使うにせよ、無視するにせよ、その形を知らないと不純物と取り違える。
原著の定義は明快である。Gottlieb, Kotlyar, Nudelman(J. Org. Chem. 1997, 62, 7512)は注 2 でこう書いている。
the signal of the proton for the isotopomer with one less deuterium than the perdeuterated material, e.g., CHCl3 in CDCl3 or C6D5H in C6D6. (完全重水素体より重水素が 1 個少ない同位体異性体の、そのプロトンのシグナル)
つまり CDCl3 の中で見えている 7.26 ppm のピークは、CDCl3 ではなく CHCl3 である。そして重水素は核スピン I = 1 なので、隣に重水素があるとカップリングして分裂する。
Except for CHCl3, the splitting due to JHD is typically observed (to a good approximation, it is 1/6.5 of the value of the corresponding JHH). For CHD2 groups (deuterated acetone, DMSO, acetonitrile), this signal is a 1:2:3:2:1 quintet with a splitting of ca. 2 Hz.
ここから実務的な帰結が出る。
- CDCl3 の残留ピークだけが一重線である。CHCl3 には隣接する重水素が無いので分裂しない。
- DMSO-d6・アセトン-d6・アセトニトリル-d3 の残留ピークは五重線(1:2:3:2:1、間隔約 2 Hz)になる。見えているのは CHD2 基だからである。
- 13C スペクトルでは事情が逆で、同じ論文の注 3 が「13C では信号は完全重水素体由来で、1 結合の重水素カップリング(約 20〜30 Hz)が常に観測される」と書いている。CDCl3 の 77 ppm が三重線に見えるのはこのためである。
「DMSO-d6 の 2.50 ppm 付近に、間隔 2 Hz の細かい 5 本組がある」のは正常であって、不純物ではない。ここを知らないと、微量成分の帰属で必ず一度は迷う。
7. 水は必ず出る ― 0.15 mg で、試料の 1 プロトンに並ぶ
重溶媒に必ず入っているものがもう一つある。水である。
Cambridge Isotope Laboratories の NMR Solvent Data Chart は、はっきりこう書いている。
NMR spectra of "neat" deuterated solvent always exhibit a peak due to H2O in addition to the residual solvent peak. (「そのまま」の重水素化溶媒のスペクトルには、残留溶媒ピークに加えて必ず水のピークが現れる)
しかも、水は 1 本とは限らない。同チャートは続けて、H2O と HDO の交換が NMR の時間スケールで遅い場合、H2O の一重線と HDO の 1:1:1 三重線の 2 本に見えると書いている。Fulmer らも脚注 b で、DMSO-d6 では 3.30 ppm、アセトン-d6 では 2.81 ppm に HDO のシグナルが観測され、しばしば 2J(H,D) = 1 Hz の 1:1:1 三重線として見えると記している。
では、どれくらいの水が入ると問題になるのか。ここも算術で出る。
先ほどの「ふつうの試料」の 1 プロトンは 27.8 mmol/L だった。水は 1 分子に 1H を 2 個持つので、これと同じ大きさのピークを作る水の濃度は 13.9 mmol/L。0.6 mL に換算すると、
わずか 0.15 mg の水で、試料 5 mg の 1 プロトンぶんと同じ高さのピークが立つ(筆者計算)。試料の質量に対してわずか 3.0 % である。
0.15 mg の水は、目に見えない。開封した溶媒瓶を実験台に置いておく、湿った試料管を使う、吸湿した試料をそのまま溶かす。どれでも簡単に超える量である。DMSO-d6 のように吸湿性の高い溶媒では、なおさらだ。
8. 水の位置は、溶媒で 4.47 ppm 動く
水のピークが避けられないなら、せめて位置を知っておきたい。ところが、水の化学シフトは溶媒によって大きく動く。
Fulmer らの Organometallics 2010, 29, 2176 の Table 1 から、水(H2O)の化学シフトを並べる。
| 溶媒 | 水の δ (ppm) | 溶媒 | 水の δ (ppm) |
|---|---|---|---|
| ベンゼン-d6 | 0.40 | THF-d8 | 2.46 |
| トルエン-d8 | 0.43 | アセトン-d6 | 2.84 |
| クロロベンゼン-d5 | 1.03 | DMSO-d6 | 3.33 |
| 塩化メチレン-d2 | 1.52 | TFE-d3 | 3.66 |
| クロロホルム-d | 1.56 | 重水 (D2O) | 4.79 |
| アセトニトリル-d3 | 2.13 | メタノール-d4 | 4.87 |
同じ H2O という分子が、0.40 ppm から 4.87 ppm まで、4.47 ppm の幅で動く(筆者計算)。400 MHz の装置では 1788 Hz、600 MHz では 2682 Hz、800 MHz では 3576 Hz に相当する。
理由も原著が説明している。Gottlieb らは、水素結合の受容体があると水のシグナルは低磁場側にずれ、これは非極性溶媒でとくに顕著だと述べている。
any potential hydrogen-bond acceptor will tend to shift the water signal downfield; this is particularly true for nonpolar solvents. In contrast, in e.g. DMSO the water is already strongly hydrogen-bonded to the solvent, and solutes have only a negligible effect on its chemical shift.
ここに実務上の非対称がある。ベンゼン-d6 のような非極性溶媒では、試料そのものが水のピークを動かす。DMSO-d6 ではすでに水が溶媒と強く水素結合しているので、溶質を入れてもほとんど動かない。
Fulmer らの脚注 7 も同じことを言っている。
The chemical shift for H2O can vary depending on the temperature, [H2O], and the solutes present.
日本薬局方〈2.21〉が「溶媒の種類、溶液の濃度、重水素イオン濃度などにより化学シフトが変化することがある」と書いていたのは、まさにこのことである。公定書の一般論と、原著の実測値が、同じ現象を指している。
9. 重水の HDO は、温度計として使える
D2O で測る場合、残留 1H はすべて HDO として水のピークに集まる。99.90 % グレードで 110.8 mmol/L(筆者計算)。「ふつうの試料」の 1 プロトンの 4.0 倍である。
この HDO のピークについて、Gottlieb らは意外な性質を報告している。
the chemical shift of the residual HDO is very temperature-dependent but, maybe counterintuitively, remarkably solute (and pH) independent. (残留 HDO の化学シフトは温度に強く依存するが、直感に反して、溶質にも pH にも著しく依存しない)
つまり D2O 中の HDO は、他の溶媒の水とは逆に、温度だけで決まる。だから彼らは、これを二次基準として使うことを勧めている。
We suggest that the residual HDO peak be used as a secondary reference; we find that if the effects of temperature are taken into account, this is very reproducible.
温度依存性は式で与えられている。0〜50 ℃ の範囲なら次の簡易式が 10 ppb 以内で合う(T は摂氏)。
δ(HDO) = 5.051 − 0.0111 × T
より精密な式(1 ppb 以内)は δ = 5.060 − 0.0122T + 2.11×10⁻⁵ T² である。
簡易式で計算すると、こうなる(筆者計算)。
| 温度 | δ(HDO) |
|---|---|
| 5 ℃ | 4.995 ppm |
| 25 ℃ | 4.774 ppm |
| 37 ℃ | 4.640 ppm |
| 50 ℃ | 4.496 ppm |
係数は 11.1 ppb/℃。600 MHz では 6.7 Hz/℃ に相当する。室温(25 ℃)と体温(37 ℃)で 0.133 ppm、600 MHz では 79.9 Hz も動く(筆者計算)。
これは二つの意味を持つ。ひとつは警告で、温度が違えば水のピークの位置は違って当然だということ。もうひとつは道具で、HDO のピーク位置から、プローブ内の実際の温度を読み取れるということである。設定温度と実温度がずれる装置は珍しくない。
10. 局方が指定する DSS は、ピークを 3 本増やす
〈2.21〉は重水を使う場合の基準物質として DSS または TSP を指定している。しかし DSS には、原著が挙げている実務上の欠点がある。Gottlieb らはこう書いている。
This material has several disadvantages, however: it is not volatile, so it cannot be readily eliminated if the sample has to be recovered. In addition, unless one purchases it in the relatively expensive deuterated form, it adds three more signals to the spectrum(methylenes 1, 2, and 3 appear at 2.91, 1.76, and 0.63 ppm, respectively).
つまり、
- 揮発しないので、試料を回収したいときに取り除けない(TMS は揮発するので除ける)
- 重水素化していない DSS は、2.91・1.76・0.63 ppm に 3 本の余分なシグナルを足す
これは避けられる。日本薬局方も、別の場所ではその答えを書いている。生薬試験法の qNMR の項(p.214)は、qNMR 用の基準物質として、有機溶媒用に 1,4-ビス(トリメチルシリル)ベンゼン-d4(1,4-BTMSB-d4)、メタノール・DMSO・水系用に 3-(トリメチルシリル)-1-プロパンスルホン酸-d6-ナトリウム塩(DSS-d6)、マレイン酸、ジメチルスルホンを挙げている。
d6 体を使えばメチレンの 3 本は消える。〈2.21〉が「DSS」としか書いていないのに対し、qNMR の項は「DSS-d6」と明記している。同じ局方の中で、精度を要求する場面のほうが具体的である。
11. 局方が書いていないもの① 試料管には「何 MHz 用か」という等級がある
〈2.21〉に「NMR試料管」という語は出てくるが、その精度についての規定は無い。内部基準法・外部基準法の説明に出てくるだけである。
しかし実際の製品には、はっきりした等級がある。Deutero GmbH の 5 mm 精密 NMR 試料管(Boro 5.1 ホウケイ酸ガラス、肉厚 0.43 mm)の規格表を、そのまま引く。
| 品番 | 外径 (mm) | 同心度 (µm) | 曲がり camber (µm) | 参考価格 (€/本) |
|---|---|---|---|---|
| Boroeco-5-7 | 4.950 ± 0.030 | 25 | 75 | 0.97 |
| Boro300-5-7 | 4.950 ± 0.020 | 7 | 25 | 2.40 |
| Boro400-5-7 | 4.950 ± 0.015 | 7 | 13 | 3.30 |
| Boro500-5-7 | 4.950 ± 0.015 | 5 | 13 | 4.70 |
| Boro600-5-7 | 4.950 ± 0.010 | 4 | 4 | 7.00 |
| Boro800-5-7 | 4.950 ± 0.005 | 3 | 3 | 11.60 |
品番の数字が示すとおり、等級は装置の共鳴周波数に対応している。300 MHz 用、400 MHz 用、…800 MHz 用、というかたちで並んでいる。
曲がりの許容は 75 µm から 3 µm まで 25 倍、外径の許容は ±0.030 mm から ±0.005 mm まで 6 倍、価格は 0.97 € から 11.60 € まで 12 倍の開きがある(筆者計算)。
600 MHz の装置に、いちばん安い試料管を挿していないか。曲がりの許容が 75 µm の管と 4 µm の管では、回転させたときに試料が描く軌跡が違う。局方は書いていないが、メーカーは装置の周波数ごとに等級を分けている。これは「シムを回す前に確認すべきこと」の側にある。
なお、シムやロックが合わない・線形が出ないといった測定を始めたあとの症状については、NMRのトラブルシューティング ― 安定させるはずのロックが、信号が弱いと自分で磁場ノイズを作る【2026年版】で扱っている。本記事はその手前、磁石に入れる前の話である。
12. 局方が書いていないもの② 脱気と溶存酸素
〈2.21〉の該当ページを全文検索すると、「脱気」も「酸素」も出現数は 0 である(筆者確認)。しかし溶存酸素は NMR に効く。酸素分子は常磁性だからである。
Picard らの J. Biomol. NMR 2025, 79 の報告は、この効果を定量的に示している。抄録から引く。
Dioxygen (O2) is a well-known paramagnetic species whose short electronic spin-lattice relaxation time (7.5 ps) contributes to effective spin-lattice relaxation of high gamma nuclei.
そして効果の大きさについて、
at O2 partial pressures of ~10 bar, 1H and 19F spin-lattice relaxation rates (R1) typically reach 3-5 Hz (versus rates of 0.7-1.0 Hz without oxygen) with comparable line-broadening in protein NMR spectra.
この論文は面白いことに、酸素を除くのではなく積極的に加圧して入れている。9 bar で 24 時間酸素化することで、1H-15N HSQC と 19F NMR の測定時間を 3 分の 1 にできたと報告している。緩和が速くなれば繰り返し待ち時間を短くできるからだ。
ただし 10 bar は常圧ではない。常圧で溶けている酸素の効果はこれよりずっと小さい。それでも方向は同じで、溶存酸素は T1 を短くし、線幅を広げる。だから、
- T1 が結果に効く測定(定量NMR、NOE の定量、緩和時間そのものの測定)では、脱気の有無が結果を動かす
- 逆に構造解析だけが目的なら、常圧の溶存酸素をわざわざ除く実益は小さい
Fulmer らが気体の測定をした際は、J. Young 型試料管で freeze-pump-thaw を 3 サイクル行ってから目的のガスを 1 atm 導入している。脱気が必要な場面での標準的な手順はこれである。
定量NMR で何を揃えるべきかについては、定量NMR(qNMR)入門 ― 1つの標準物質で純度を測る「絶対定量」【2026年版】で扱っている。
13. では、何を記録すればよいか
局方の 7 項目に戻る。〈2.21〉は「装置名、装置の周波数、測定溶媒、測定温度、試料濃度、基準物質、測定手法」を記載せよと書いている。本記事で見てきたことを踏まえて、実務的に書き下すとこうなる。
溶媒については、名前だけでは足りない。「DMSO-d6」ではなく「DMSO-d6(99.8 %)」と書く。5 節で見たとおり、グレードが変われば残留ピークの大きさが 5 倍変わる。ロット番号まで残せればなお良い。
温度は設定値ではなく、確認した値を書く。9 節のとおり、D2O なら HDO のピーク位置から実温度が読める。600 MHz では 1 ℃ が 6.7 Hz である。
濃度は「何 mg を何 mL に」の形で書く。「約 5 mg」ではなく質量と体積の両方を書けば、あとから残留ピークとの比が計算できる。局方が挙げる 7 項目のうち「試料濃度」が入っているのは、これが結果を動かすからである。
基準物質は、何を使ったかだけでなく、重水素化体かどうかを書く。10 節のとおり、DSS と DSS-d6 ではスペクトルに出る本数が違う。残留プロトンを基準にした場合は、そのことを明記する(〈2.21〉が認めている運用である)。
試料管の等級を記録に残す。局方は求めていないが、11 節のとおり製品には周波数に対応した等級がある。装置と管が釣り合っているかは、あとから検証できるようにしておく価値がある。
分析者の視点
日常の判断として、次の順に考えると迷いが減る。
- 溶媒はまず「溶けるか」「反応しないか」「重ならないか」の 3 条件で決める。これは局方が明示している基準であり、残留ピークの大小はその次の問題である。溶けないものをきれいに測ることはできない。
- 溶媒が決まったら、グレードを意識的に選ぶ。アセトン-d6・アセトニトリル-d3・ベンゼン-d6 には 99.00 % グレードがあり、残留 1H は最高グレードの 20 倍になる。微量成分を見たい測定に、この安いグレードを使わない。
- 残留ピークの形をあらかじめ知っておく。CDCl3 は一重線、CHD2 を持つ溶媒(DMSO-d6・アセトン-d6・アセトニトリル-d3)は間隔約 2 Hz の 1:2:3:2:1 五重線。これを不純物と読まない。
- 水のピークは「出るかどうか」ではなく「どこに出るか」で考える。メーカー自身が「必ず出る」と書いている。位置は溶媒で 0.40〜4.87 ppm と動く。
- 測りたいシグナルが水や残留ピークと重なるなら、溶媒を変えるのがいちばん早い。分離できないピークを処理で救うより、4.47 ppm の可動域を使うほうが確実である。
- T1 が結果に効く測定では、脱気を検討する。構造解析だけなら常圧の溶存酸素は無視してよい。
- 試料管の等級を装置の磁場に合わせる。曲がりの許容は 75 µm から 3 µm まで 25 倍の幅がある。
- 記録は局方の 7 項目を最低線とし、溶媒はグレードまで書く。あとから再現できない条件は、条件を書いていないのと同じである。
まとめ
- 日本薬局方〈2.21〉は試料調製を明示的に扱い、溶媒選択の 3 条件(重ならない・溶かす・反応しない)と、記載すべき 7 項目(装置名・周波数・測定溶媒・測定温度・試料濃度・基準物質・測定手法)を定めている。
- 局方は残留プロトンを基準物質の代わりに使ってよいと明記する一方、同じページで化学シフトは溶媒・濃度・重水素イオン濃度で変わるとも書いている。
- 「99.8 %」は溶媒ごとに意味が違う。同じ表示でも残留 1H はクロロホルム-d の 24.9 mmol/L から DMSO-d6 の 169.7 mmol/L まで約 6.8 倍ちがう(筆者計算)。原因は分子あたりの重水素の数である。
- 99.00 % グレードが存在する溶媒がある(アセトン-d6・アセトニトリル-d3・ベンゼン-d6)。最高グレードとの差は 20 倍。
- 局方一般試験法 473 ページで「重水素化率」が現れるのは 1 か所だけで、NMR の章ではなく生薬試験法の qNMR の項である(筆者確認)。
- 水は必ず出る(メーカーの明記)。0.15 mg で試料 5 mg の 1 プロトンに並ぶ(筆者計算)。位置は溶媒で 4.47 ppm(600 MHz で 2682 Hz)動く。
- D2O の HDO は温度だけで決まり、11.1 ppb/℃ で動く(600 MHz で 6.7 Hz/℃)。二次基準にも温度計にもなる。
- 試料管には周波数に対応した等級がある(曲がり 75 µm 〜 3 µm、25 倍)。局方は規定していない。
- 脱気・酸素は〈2.21〉に 0 件。溶存酸素は常磁性で T1 を短くする。T1 が効く測定でだけ考えればよい。
用語集
- 重水素化率(atom % D):重水素が入るべき位置のうち、実際に重水素が入っている割合。質量比でも体積比でもない。
- 残留プロトン(residual protium):重水素化しきれずに残った水素。1H スペクトルでは、完全重水素体より重水素が 1 個少ない同位体異性体のシグナルとして見える。
- 同位体異性体(isotopomer):同じ分子式で、同位体の配置だけが異なる分子。CDCl3 に対する CHCl3 など。
- HDO:重水素と水素が 1 個ずつ結合した水。D2O 中の水のピークの正体。
- camber(曲がり):試料管の軸のたわみ。回転させたときの振れに直結する。
- 同心度(concentricity):管の外径の中心と内径の中心のずれ。
- freeze-pump-thaw:試料を凍結 → 真空引き → 融解 と繰り返して溶存気体を除く脱気法。
- DSS / TSP:重水中で用いる化学シフト基準物質。DSS は 3-トリメチルシリルプロパンスルホン酸ナトリウム、TSP は 3-トリメチルシリルプロピオン酸ナトリウム-d4。
- J(H,D):水素と重水素のスピン結合定数。対応する J(H,H) のおよそ 1/6.5。
出典
- 厚生労働省「第十九改正日本薬局方」一般試験法〈2.21〉核磁気共鳴スペクトル測定法(p.115-118)、および生薬試験法の定量NMR の項(p.214)。全文 PDF:https://www.mhlw.go.jp/content/11120000/001689414.pdf
- H. E. Gottlieb, V. Kotlyar, A. Nudelman, "NMR Chemical Shifts of Common Laboratory Solvents as Trace Impurities", J. Org. Chem. 1997, 62, 7512-7515. DOI: 10.1021/jo971176v(本文 PDF:UT Southwestern NMR Core Facility)
- G. R. Fulmer, A. J. M. Miller, N. H. Sherden, H. E. Gottlieb, A. Nudelman, B. M. Stoltz, J. E. Bercaw, K. I. Goldberg, "NMR Chemical Shifts of Trace Impurities: Common Laboratory Solvents, Organics, and Gases in Deuterated Solvents Relevant to the Organometallic Chemist", Organometallics 2010, 29, 2176-2179. DOI: 10.1021/om100106e(本文 PDF:Stoltz 研究室(Caltech))
- Cambridge Isotope Laboratories, Inc., "NMR Solvent Data Chart"(分子量・密度・残留ピークと水のシフト・多重度)。ワシントン大学化学科が公開している版
- Deutero GmbH 製品規格。NMR 溶媒(重水素化度・分子量・密度)、5 mm 精密 NMR 試料管(外径・同心度・camber)
- L.-P. Picard, D. Pichugin, S. K. Huang, M. Suleiman, R. S. Prosser, "Reducing experimental time through spin-lattice relaxation enhancement via dissolved oxygen", J. Biomol. NMR 2025, 79. DOI: 10.1007/s10858-024-00457-4(抄録を Europe PMC で確認)
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未確認・限界
- 重溶媒の水分含量の規格値は入手できなかった。Deutero GmbH の製品ページにも Cambridge Isotope Laboratories のデータチャートにも、水分含量の数値規格は掲載されていない。7 節の 0.15 mg は「どれだけ入ると試料の 1 プロトンに並ぶか」という筆者の計算であって、実際の製品に含まれる水の量ではない。
- 残留 1H の計算は理想化である。重水素化率が全ての位置で一様であること、残留水素がすべて重水素が 1 個少ない同位体異性体に入ること(2 個以上残る確率は無視できる)を仮定している。実際の製品では位置による重水素化率の偏りがありうる。
- 価格は Deutero GmbH の 2026 年 9 月時点の公表値であり、他社・他国では異なる。等級の傾向を示す目的で引用しており、価格そのものの比較を意図していない。
- 溶存酸素の常圧での定量的な効果は示していない。引用した Picard らの数値は 9〜10 bar の加圧条件のものである。常圧での T1 短縮・線幅増大の大きさは本記事では扱っていない。また同論文は本文が有料で、確認したのは抄録である。
- 試料管の規格は 1 社のものである。Wilmad・Norell など他社の等級区分や許容値は確認していない。
- 本記事は溶液 NMR を対象としている。固体 NMR の試料調製(ローターへの充填、MAS 速度と試料密度)は扱っていない。
- 重水素イオン濃度(pD)の影響は、局方が言及している一方で本記事では数値を示していない。pD 測定の補正についても扱っていない。
制作メモ:ディープリサーチで周辺情報を収集したうえで、日本薬局方の全文検索、Gottlieb 1997・Fulmer 2010 の原著 PDF、メーカー 2 社の公表規格を編集側で直接開いて検証し、数値計算は自前のスクリプトで再現可能な形にして執筆した。