NMRのトラブルシューティング ― 安定させるはずのロックが、信号が弱いと自分で磁場ノイズを作る【2026年版】
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NMRのトラブルシューティング ― 安定させるはずのロックが、信号が弱いと自分で磁場ノイズを作る【2026年版】

NMR で線が太い、形が歪む、S/N が出ない ―― そのときシムを回す前に確認すべきことがある。 重水素ロックは磁場を安定させるための機構だが、**入力が弱いと能動的に磁場ノイズを作り出す**。 オタワ大学 NMR 施設の実測では、CDCl₃ を 1 滴だけ加えた試料でロックをかけて測ったスペクトルは明らかに歪み、 同じ試料をロックを外して測ると正常だった。「弱いロックでシムだけ合わせ、測定はロックを外して行う」が正解になる。 本記事は、線形を数字で見る方法(1 % クロロホルム/アセトン-d6 で 50 %・0.55 %・0.11 % の 3 点。 0.55 % という半端な高さは ¹³C サテライトの高さである)、シムのずれが線形のどこに出るか、 シムでは直らない試料側の原因、受信ゲインと取り込み時間による FID のクリップと sinc ウィグル、 ラジエーションダンピングがパルス較正まで壊すこと、パルス幅が長いと一次位相誤差が増えることまでを、 査読論文と施設の実測データで追う。切り分けの原則は「その症状は全部のピークに出ているか」である。

NMR のスペクトルがおかしい。線が太い、形が歪んでいる、S/N が出ない。多くの人がまずシムを回し始める。

だが、シムを回す前に確認すべきことがある。そして、そもそもロックを外したほうが良い場合がある

重水素ロックは磁場を安定に保つための機構である。ところがオタワ大学 NMR 施設の Glenn Facey は、こう書いている。

ごく少量の重溶媒しか含まない試料 ―― したがって非常に弱いロック信号 ―― で NMR スペクトルを測りたい場合がある。反応をモニターするためにアリコートを取り、磁石のシム合わせを助けるために重溶媒を 1〜2 滴加えるような場合である。非常に弱いロック信号でも(苦労すれば)シムを合わせられるかもしれないが、ロックした状態でスペクトルを測るのは良い考えではないかもしれない。非常に弱い ²H 信号にロックしたままスペクトルを走らせると、スペクトルに歪みを生じうる。

実際に示された図では、CCl₄ にアセトンを 1 滴、CDCl₃ を 1 滴加えた試料のシングルスキャン ¹H スペクトルが 2 つ並んでいる。左はロックあり、右はロックなし。ロックした側だけが明らかに歪んでいる。

同じ記事へのコメントで、Stan Sykora が理由を端的に述べている。

ロック系はただの電子回路にすぎないことを、人はよく忘れる。それは ²H の NMR 信号を入力として受け取り、固定の目標周波数と比較し、シムアセンブリ内にある追加の B₀ 補正コイルを駆動する「エラー」信号を出力する。入力が低品質(S/N が悪い)であるか、回路が不良であるか、発振するか、その他の誤動作をすれば、それは能動的に磁場ノイズを作り出す。

安定させるための機構が、条件次第で不安定さの源になる。弱いロック信号でシムだけできるだけ合わせ、測定はロックを外して行う ―― これが Facey の勧めである。

本記事は、この種の「順番を間違えると直らない」問題を整理する。

この記事の読み方

  • 学生・入門者の方:「まず切り分ける」と「線形を数字で見る」の 2 節を先に読んでください。ここを飛ばすと、直らないものをシムで直そうとして時間を失います。
  • 現場の分析者・装置管理者の方:シムのずれの読み方、FID のクリップ、ラジエーションダンピング、位相誤差が中心です。
  • 液体クロマトグラフィー側の同種の記事としてHPLCトラブルシューティングがあります。切り分けの発想は共通です。
  • 数値はすべて原著(査読論文・施設の実測データ)にあたって確認しています。

まず切り分ける ― その症状は全部のピークに出ているか

NMRトラブルの切り分けフロー。症状が全部のピークに出ているかを最初に判定し、Yesなら装置・磁場の不均一でシムを疑う、Noなら試料固有の原因でシムを回しても直らない。標準試料による切り分けも併記
図解:まず切り分ける ― 全部のピークに出ているか。出ていなければ試料側の問題で、シムでは直らない。

シムを触る前に、たった一つ確認することがある。

問題が全部のピークに出ているか。

磁場の不均一は試料全体にかかるので、その影響はスペクトル上のすべての共鳴に同じように現れる。逆に言えば、ある 1 本のピークだけが割れている、裾を引いている、太い ―― という場合、それはシムの問題ではない。シムを何回回しても直らない。

原因は試料の側にある。不純物、交換過程、常磁性種の近傍、あるいは単に別の化合物の共鳴が重なっているだけかもしれない。

もう一つの標準的な切り分けが、標準試料の差し替えである。密封済みの線形標準試料(後述の 1 % クロロホルム/アセトン-d6)を入れ、シムを合わせて仕様値に入るかを見る。入るなら装置とプローブは正常で、問題は試料に固有である ―― 高粘度、高塩濃度、微粒子、気泡、常磁性汚染といった原因が残る。

この 2 つで、装置の問題か試料の問題かはほぼ分かれる。

線形を数字で見る ― 0.55 % という半端な高さの意味

「シムが合っている」を感覚で判断していると、機差も経時変化も追えない。定量的な仕様がある。

Facey の説明が簡潔である。

NMR 分光家にとって、自分の磁石がどれだけよくシムされているか、プローブが線形と線幅に関してどれだけよく働いているかを知ることは重要である。ある磁石-分光計-プローブの構成を別のものと意味のある形で比較できるよう、定量的な仕様が必要である。我々はアセトン-d6 中 1 % クロロホルムの標準試料を使う。CHCl₃ の共鳴を調べる。線の幅(Hz)を、線の高さの 50 %、0.55 %、0.11 % で測る。

そして、この 0.55 % という半端な数字の理由が示されている。

0.55 % が選ばれたのは、それが ¹³C サテライトの高さだからである。

炭素は天然存在比で約 1.1 % が ¹³C である。¹³C に直接結合した ¹H は ¹³C とカップリングして左右 2 本に分裂するので、片側のサテライトはちょうど全体の 0.55 % になる。つまり 0.55 % での線幅は、「¹³C サテライトが現れるまさにその高さで、裾がどれだけ広がっているか」を測っていることになる。0.11 % はさらにその 1/5 で、より低いところの裾を見る。

仕様は x/y/z(50 % 幅/0.55 % 幅/0.11 % 幅)の形で書かれる。y/z だけ示されることも多い。回転あり・なしの両方で示されるのが普通である。

実測例として、Facey は自施設の Bruker AVANCE 400、非回転0.27 Hz / 5.28 Hz / 8.72 Hz という値を挙げている。

この 3 つの数字を定期的に記録しておくと、劣化が数字で見える。 半値幅は良いのに 0.11 % 幅だけ悪化していく、といった変化は感覚では捉えられない。

なお、同じ記事のコメント欄で読者がこう指摘している ――「線形は、これほど低い線幅まで見るなら、実際の試料管にも非常に強く依存しうる。研究室にある複数の 1 % クロロホルム/アセトン-d6 試料を比べてみるとよい。ばらつきに驚くはずだ」。標準試料そのものが劣化・変動することは覚えておきたい。

シムのずれは、線形のどこに出るか

どのシムがずれると、線のどこが崩れるのか。古典的な整理が Chmurny と Hoult による総説にある(Concepts in Magnetic Resonance 1990)。

大枠は次のとおりである。

  • 奇数次の軸シム(Z1, Z3, Z5) … 線形に対称な影響を与える
  • 偶数次の軸シム(Z2, Z4) … 線形に非対称な影響を与える

つまり裾が片側だけに伸びていたら偶数次、左右対称に広がっていたら奇数次、という当たりの付け方ができる。半値幅が悪ければ低次、半値幅は良いのに裾だけ広い(いわゆるハンプ)なら高次、という見方と組み合わせると、闇雲に回すより早い。

横方向のシム(X, Y や XZ, YZ)は、試料を回転させると別の形で現れる。スピニングサイドバンドである。

ここに Torres と Price による実測がある。10 %(v/v) 2-ブタノール/D₂O の HOD ピーク周辺を 400 MHz・20 Hz 回転で測り、X シムを意図的にずらした 3 条件を比較している。

条件 結果
完全に最適化 サイドバンドは見えない
X シムを最適値から約 2000 任意単位ずらす サイドバンドが出現
X シムを約 3000 任意単位ずらす サイドバンドがさらに大きくなる

論文は、この任意単位の典型的な値域が約 10,000 任意単位であることも書いている。つまり全可動域の 2〜3 割ずらすとサイドバンドがはっきり出るという感覚が得られる。

サイドバンドが見えたら、回転数を変えてみる。回転数に追随して位置が動けば、それは回転由来である。

シムでは直らないもの ― 試料の側の原因

シムでは補正できない試料側の3原因。気泡・微粒子・析出による局所的な磁場の乱れ、温度平衡不足による対流でスピンが移動して位相コヒーレンスが減ること、常磁性不純物による極端な緩和の加速
図解:シムでは直らないもの ― 気泡・析出、対流、常磁性不純物。いずれも磁化率か緩和の問題で、シム電流では補正できない。

Torres と Price は、そもそも線幅が何で決まるかを整理している。完全に均一な磁場なら、線幅はスピン本来の緩和機構だけで決まり、真の横緩和時間 T₂ からローレンツ型の半値幅 1/(πT₂) になる。

現実は違う。

実際には、磁石構造の限界のために磁場にはある程度の不均一があり、それはプローブと試料が磁場を乱すこと、およびその他の要因(例えば熱電対が試料に近すぎること)によってさらに悪化する。

熱電対の位置まで挙がっているのが実務的である。そして重要な但し書きが続く。

一般に、不均一の程度は試料全体で一定ではなく、観測される線形はローレンツ型ですらないかもしれない。

だからこそ、線形を 1 点(半値幅)だけで見るのは不十分で、前述の 3 点測定が要る。

試料側の対策で最も基本的なのが試料の長さと位置である。

通常、十分に長い試料(典型的には 4 cm 以上)を用い、RF コイル内で中心に置く。これは、磁化率差のために背景の磁場勾配を生じる試料/空気の界面が、RF コイルの十分外側に来ることを保証するためである。

液量が足りないと、液面や試料管底の曲面が検出領域に入り込む。そこで生じるのは磁化率差による勾配なので、シムでは補正しきれない。

同じ理屈で問題になるものが並ぶ。

  • 気泡・微粒子・析出物 … 周囲の溶媒と磁化率が違うので、局所的な磁場の乱れを作る。自動シムのアルゴリズムは、こうした局所的で非対称な乱れをモデル化できない。
  • 温度平衡と対流 … 試料を入れてすぐ測ると熱勾配が残る。溶媒の密度と化学シフトは温度依存なので、勾配は対流を生む。粘度の低い溶媒(アセトン-d6、クロロホルム-d など)では、対流がスピンを RF 場の異なる領域へ物理的に運び、位相のコヒーレンスを縮める。結果として広く非対称な線形と位相の歪みになる。
  • 常磁性不純物 … 溶存酸素、微量の鉄、洗浄由来のクロム酸残渣など。緩和が極端に速くなり、ピークは非常に広くなるか、まったく観測できなくなる

これらはすべて「シムを回しても直らない」種類の問題である。前節の切り分け ―― 全部のピークに出ているか、標準試料なら仕様に入るか ―― が効いてくるのはここである。

FID を見る ― クリップと打ち切りは形が同じ

FIDのクリップと打ち切りの比較図。受信ゲインが高すぎると振幅方向でクリップされFIDの頭が平坦になる。取り込み時間が短すぎると時間方向で打ち切られる。どちらもスペクトル上では同じsinc関数状のウィグルとして現れる
図解:FID のクリップと打ち切り ― 原因は違うのに、スペクトル上では同じ sinc ウィグルになる。FID を見れば区別できる。

スペクトルだけを見ていると気づけない問題がある。FID を見ると一目で分かる。

Torres と Price は、症状が似ている 2 つの原因を並べて説明している。

受信ゲインが高すぎる(振幅方向のクリップ)

受信ゲインが高すぎると、大きな信号が「クリップ」される。FID の最初の最も強い部分が AD 変換器の能力を超えて切り取られ、FID の頭が指数減衰ではなく平坦(矩形状)になる。

フーリエ変換すると、滑らかなローレンツ型ではなく sinc 関数状のピークと、ベースラインの「ウィグル」が出る。

対策は、クリップが観測された受信ゲイン設定から 1〜2 dB 低く設定することである。

さらに実務的な注意がある ――2 次元実験では後のスキャンが最初のスキャンよりずっと大きくなりうるので、スキャン数を減らした短い予備実験で最適値を決めるか、実験の早い段階で FID を確認して処理するのがよい。

取り込み時間が短すぎる(時間方向のクリップ)

同じ sinc 状のピークが、振幅ではなく時間方向の打ち切りでも起きる。取り込み時間がピークの T₂* に対して短く、取り込み終了時点で信号が十分に減衰していない場合である。

一般に、多次元データセットでは、完全な FID を取り込むのに十分な取り込み時間は決して存在しない。

対策は指数減衰関数(アポダイゼーション)を掛けて FID を滑らかに 0 へ落とすこと。ウィグルは消えるが、ピークは広がる

そしてここに、見落とされやすい一文がある。

指数関数を掛けたことで 「S/N が増加した」ように見える(ノイズが見えにくくなる)が、それは見かけ上の増加にすぎない。

ノイズが見えなくなることと、S/N が良くなることは別である。線幅を犠牲にしてノイズを塗りつぶしているだけで、情報は増えていない。

ラジエーションダンピング ― パルス較正まで壊す

ラジエーションダンピングの因果ループ図。水の強大な磁化がコイルに誘導電流を発生させ、二次的なRF磁場を生み、スピンが緩和より速く強制的にZ軸へ戻される。結果としてパルス較正の基準が狂うため360度パルスでの較正が推奨される
図解:ラジエーションダンピング ― 強い水の磁化が自分自身に作用する。線幅だけでなくパルス較正の基準まで狂わせる。

水を含む試料で、水のピークが妙に広い。シムは合っているはずなのに。

これはラジエーションダンピングである可能性が高い。Facey の説明はこうである。

¹H NMR スペクトルにおける水の共鳴の幅は、存在する水の量に決定的に依存する。H₂O の濃度が非常に低いとき共鳴は非常に狭く、濃度が非常に高いとき幅は何倍にもなる。理由は、水の信号の強い磁化が NMR コイルに電流を誘起し、その電流が作る磁場が線を広げるからである。

Torres と Price は、これを分かりやすい比喩で説明している ―― 拡声装置でマイクをスピーカーの前に近づけたときに生じるハウリングと同じである。強い信号が自分自身に作用する実効 RF 場を作り、水の緩和を実質的に加速する。

問題は線幅だけではない。

これは強い信号の強度・位相・対称性も歪めるので、そのピークを使って RF パルスの較正を行うのが厄介になる。例えば、「真の」90° パルスを当てても実際には最大の信号強度を与えず、180° のはずのパルスでもかなりの信号が残る。

パルス較正という、装置の基準そのものが狂う。較正がおかしいと思ったら、まず水の量を疑う。同論文は、この状況では 360° パルス幅を求めるほうが適切だとしている。

対策も挙がっているが、いずれも代償がある。

対策 代償
溶媒抑制 (感度低下なし)
試料容量を小さくする 全体の感度が下がる
プローブをデチューンする 全体の感度が下がる
受信ゲインを下げる 全体の感度が下がる
Q スイッチング 最良の選択だが、対応する分光計はほとんどない

なお Facey は、逆の誤解にも釘を刺している。希薄な有機化合物を重溶媒で測るとき、水の不純物ピークが化合物より何倍も大きくても鋭いままでありうる(DMSO-d6 はとくに水を含みやすい)。ラジエーションダンピングによる広がりが問題になるのは、水が試料のかなりの割合を占めるときだけである。

位相が合わない ― パルス幅が長いほど一次位相誤差は増える

一次位相誤差とパルス幅の関係を示すグラフ。横軸が周波数オフセット、縦軸が一次位相シフトで、パルス長が長いほど直線の傾きが急になる。パルス長Tは実効的に2T/πの遅延として働く
図解:一次位相誤差 ― パルス長 T は実効的に 2T/π の遅延として働くため、パルスが長いほどオフセットに比例した位相ずれが大きくなる。

位相補正で、ゼロ次だけでは合わず一次補正を大きくかけている ―― これも原因を辿れる。

Facey は実験で示している。クロロホルムとアセトンの混合物を用意し、クロロホルムをオンレゾナンスに置く。10 µs から 320 µs まで 6 通りの 90° パルスを異なる出力で較正し、すべてのスペクトルにゼロ次補正だけを(クロロホルムが同位相になるように)かけ、一次補正はかけない。

結果は明快で、オフレゾナンスであるアセトン信号の位相誤差が、パルス幅の関数として増大する。同時に、励起プロファイルの幅が狭くなるため、アセトン信号の強度もクロロホルムに対して落ちていく。

理屈は、記事へのコメントで Jean-Marc Nuzillard が簡潔に述べている ―― 長さ T の実際の矩形パルスは、一次近似では「長さゼロの完全なパルス+ 2T/π の遅延」としてモデル化できる。この遅延が、オフセットと位相ずれの直線関係を生む。

つまり「一次位相補正が大きい」は、しばしば「90° パルスが長すぎる(出力が足りない)」の別の顔である。プローブのチューニング不良や出力設定の誤りを疑う手がかりになる。

感度が出ない ― 濃度より先に、試料の長さと位置

感度を決める物理的・時間的制約の図。液面がコイルの磁場内に入るとNGで最低4 cmの試料長が必要なこと、およびT2*減衰以降の取り込みは信号ではなくノイズだけを蓄積するため「長く取れば安全」は誤りであること
図解:感度の制約 ― 試料長は 4 cm 以上。そして T2* が減衰しきったあとの取り込みは、ノイズだけを積む。

S/N が足りないとき、まず思いつくのは「濃くする」「積算する」である。だが、その前に効く要因がある。

Torres と Price は、感度が何に比例するかを正確に書いている。

NMR の感度は、より正確にはプローブの有効検出領域内にある試料の量に比例し、それは 5 mm プローブでは長さにして約 1.6 cm に相当する。典型的な実験では標準 5 mm 管に 0.5〜0.6 mL の試料を調製し、これは約 4〜5 cm の試料長を与える ―― 有効検出長よりはるかに大きい(すなわち NMR 試料は RF コイルの外まで伸びている)。この大きな容量は、シム合わせを容易にするために試料の磁気的均一性を確保するのに必要である。

つまり 0.5 mL のうち、実際に信号を出しているのは 1.6 cm 分だけで、残りはシムのために存在している。前節で「4 cm 以上」と書いた理由がここにある。

では試料が少ないときはどうするか。論文は 2 つの解を挙げる。Doty の磁化率プラグ(ねじ込み式で位置を動かせる)と、日本の NMR 管メーカー Shigemi の管(溶媒の磁化率に整合させた特殊ガラスのプランジャーと底を持つ)である。どちらも短い液体試料を磁化率整合の固体で上下から挟み、検出領域内に収める。

これら 2 つの試料構成の優れた点は、シム合わせの手順が磁気的に長い試料の場合とまったく同じであることだ。

試料の長さは 90° パルス幅を変える

見落とされやすい副作用がある。

NMR 試料の長さは 90° パルス幅に実質的な影響を与えうることに注意することが重要である。これは、RF コイルが比較的短く、プローブ内の固定された「最適」位置に中心を置いているために、試料内で RF 場が不均一だからである。適切に中心を合わせた短い試料は、長い試料よりも RF 場の相対的に均一な領域に位置する。したがって、90°(および 180°)パルス幅は短い試料のほうが短くなると予想される。

実測が添えられている。Shigemi 管に入れた D₂O の 2.4 cm 試料と 1.0 cm 試料で、残留 HOD 信号のパルス較正プロファイルを比べると ――

  • 18 µs で、長い 2.4 cm 試料の信号はほぼ無視できるほど小さくなる(=この試料の 180° パルス長)
  • 同じ 18 µs で、短い 1.0 cm 試料の HOD 信号はより大きく、しかも反転している(= 1.0 cm 試料の 180° は 18 µs より短い)

試料の量を変えたらパルス較正もやり直す、ということである。Shigemi 管と通常管を混用している現場では、これを知らないと定量がずれる。

取り込み時間は長ければ良いわけではない

もう一つ、直感に反する事実がある。前節では「取り込み時間が短すぎる」と sinc ウィグルが出る話をした。では長ければ長いほど良いのかというと、そうではない。

論文の図では、10 %(v/v) 2-ブタノール/D₂O を 400 MHz で測り、溶質信号がノイズと同程度になるよう意図的に弱く励起している。

  • (A) FID が完全に減衰しきるのに十分な長さの取り込み時間 → ノイズの見えるスペクトル
  • (B) 取り込み時間が長すぎるノイズがより強くなり、その結果 S/N が下がる

信号がすでに消えた区間を取り込み続けても、入ってくるのはノイズだけである。「長く取れば安全」ではない。T₂* に見合った長さにするのが正しい。

積分が合わない・見覚えのないピークがある

定量したいときに効く問題を 2 つ。

繰り返し時間とダミースキャン

積分が合わない最大の原因は、緩和が終わらないうちに次のパルスを打っていることである。論文の実測が分かりやすい。10 %(v/v) 2-ブタノール/D₂O では、HOD 信号の T₁ が最も遅く約 14 秒である。

  • (A) 完全緩和条件、1 スキャン、ダミースキャンなし
  • (B) 繰り返し時間を HOD の T₁ の約 0.04 倍に設定、4 スキャン、ダミースキャンなし
  • (C) 同じ繰り返し時間、4 スキャン、ダミースキャン 4 回

短い繰り返し時間そのものが積分をゆがめるのに加えて、最初の数スキャンは定常状態に達していないぶんだけ余計に狂う。ダミースキャン(捨てスキャン)はこの立ち上がりを捨てるための仕組みである。

定量するなら、最も遅い T₁ を基準に繰り返し時間を決め、ダミースキャンを入れる。qNMR の詳細は定量NMR(qNMR)入門にある。

折り返し(フォールディング/エイリアシング)

スペクトル幅(SW)が全ピークを含まないと、範囲外のピークがスペクトル内に「折り返して」現れる。サンプリング定理から、サンプリング速度は SW の 2 倍必要である(1/DW = 2 × SW、DW はサンプリング点の間隔)。

見分け方が実務的である。

これら人工的なピークは通常、他のピークと区別できる。位相を合わせるのがより難しく、送信器のオフセットを変えると非線形で一見不合理な動き方をするからである。

送信器オフセットを少し動かして、動き方が他と違うピークがあれば折り返しを疑う。

なお論文は、新しい装置では通常この問題は出ないとも書いている ―― オーバーサンプリングとデジタルフィルタが導入されているため、¹H のような一般的な核では範囲外のピークは普通は現れない。古い装置、あるいは広い化学シフト範囲を持つ核を測るときに残る問題である。

分析者の視点 ― 触る順番

NMRトラブルシューティングで触る順番の一覧。1.全ピークに出ているか 2.FID波形の確認 3.標準試料でのテスト 4.シムの対称性 5.試料長と水濃度。禁止事項として弱いロックのまま測定しない、1本のピークのためにシムを回さない、アポダイゼーションによる見かけのS/N向上に騙されない
図解:触る順番と禁止事項 ― シムを触るのは 4 番目。弱いロックのまま測らない、が最初の禁止事項。

トラブルシューティングは順番が命である。私なら次の順に見る。

1. 症状は全部のピークに出ているか。 出ていなければシムの問題ではない。試料を疑う。ここで判断を誤ると、以降の作業がすべて無駄になる。

2. FID を見る。 頭が平坦なら受信ゲイン過大、末尾が減衰しきっていなければ取り込み時間不足。どちらも sinc ウィグルという同じ症状を出すので、スペクトルだけでは区別できない

3. 試料そのものを確認する。 液量は 4 cm 以上あるか、気泡や析出はないか、入れてから何分経ったか。低粘度溶媒なら対流も疑う。

4. 標準試料に差し替える。 仕様に入るなら装置は正常。3 点(50 %/0.55 %/0.11 %)で記録しておくと、次回以降の判断が速くなる。

5. そこで初めてシムを触る。 裾の対称性を見て、対称なら奇数次、非対称なら偶数次に当たりを付ける。回転しているならサイドバンドの有無で横方向シムを見る。

6. 水が多い試料なら、ラジエーションダンピングを疑う。 パルス較正がおかしいときも同じ。

やってはいけないことを 3 つ。

  • 弱いロック信号のままロックして測る。 ロック回路は入力が悪いと能動的に磁場ノイズを作る。シムだけ合わせてロックを外すほうが良い。
  • 1 本のピークだけが変なのにシムを回し続ける。 直らない。
  • アポダイゼーションで「S/N が良くなった」と考える。 見かけ上の増加にすぎず、線幅を犠牲にしているだけである。

まとめ

NMR のトラブルシューティングで最初にやることは、シムを回すことではない。その症状が全部のピークに出ているかを見ることである。出ていなければ、原因は試料にあり、シムでは直らない。

線形は感覚ではなく数字で管理できる。1 % クロロホルム/アセトン-d6 を使い、50 %・0.55 %・0.11 % の 3 点で線幅を測る。0.55 % という半端な高さは ¹³C サテライトの高さであり(¹³C の天然存在比 1.1 % が左右 2 本に分かれる)、サテライトが現れるまさにその高さで裾を評価している。3 点を記録しておけば、半値幅は良いのに裾だけ悪化するといった変化が見える。

シムのずれは形に出る。奇数次の軸シムは対称に、偶数次は非対称に効く。回転している試料で横方向シムがずれれば、サイドバンドになる ―― 全可動域の 2〜3 割ずらすとはっきり見えるという実測がある。

一方、試料の長さ不足(4 cm 以上が必要)、気泡、析出、温度平衡不足による対流、常磁性不純物は、磁化率や緩和の問題なのでシムでは補正できない

FID を見る習慣は効率が良い。受信ゲイン過大(振幅方向のクリップ)と取り込み時間不足(時間方向の打ち切り)は、スペクトル上では同じ sinc ウィグルとして現れるが、FID を見れば一目で区別できる。そしてアポダイゼーションによる「S/N 向上」は見かけ上のものである。

水が多い試料ではラジエーションダンピングが効く。これは線幅だけでなくパルス較正まで壊す ―― 真の 90° パルスが最大信号を与えず、180° でも信号が残る。この状況では 360° で較正するほうが適切である。

そして、この記事の出発点に戻る。重水素ロックは磁場を安定させる機構だが、電子回路である以上、入力が悪ければ能動的にノイズを作る。弱いロックで測るくらいなら、シムだけ合わせて外したほうが良い。安定化装置を切ることが安定につながる ―― この逆説を知っているかどうかで、反応追跡のような場面での結果が変わる。

用語集

  • シム(shim):磁場の空間的な不均一を補正するためのコイル群、およびその調整作業。軸方向(Z1, Z2, …)と横方向(X, Y, XZ, …)がある。
  • 重水素ロック:溶媒の ²H 信号を基準に磁場のドリフトを補正する機構。入力の S/N が悪いと磁場ノイズ源になりうる。
  • 線形試験(lineshape test):1 % クロロホルム/アセトン-d6 の CHCl₃ 線幅を 50 %・0.55 %・0.11 % の高さで測る標準試験。
  • ハンプ:半値幅は良いのに裾が広がった状態。高次シムのずれで生じやすい。
  • T₂*:磁場不均一を含めた見かけの横緩和時間。観測される線幅を決める。
  • スピニングサイドバンド:試料回転時に、横方向シムのずれが回転周波数の整数倍の位置に作る対称なピーク対。
  • クリップ:受信ゲイン過大で FID の頭が AD 変換器の上限に切り取られること。sinc ウィグルの原因。
  • アポダイゼーション:FID に減衰関数を掛けて打ち切りを滑らかにする処理。ウィグルは消えるが線幅は広がる。
  • ラジエーションダンピング:強い信号(多くは水)がコイルに誘起する電流が作る磁場によって、その信号自身が広がる現象。パルス較正も狂わせる。
  • 一次位相誤差:オフセットに比例した位相ずれ。実効的にはパルス長 T が 2T/π の遅延として働くために生じる。

出典

  • Torres, A. M.; Price, W. S. "Common problems and artifacts encountered in solution-state NMR experiments." Nanoscale Organization and Dynamics Group, School of Science and Health, Western Sydney University. https://bpb-us-w2.wpmucdn.com/sites.gsu.edu/dist/c/2414/files/2020/07/SolutionNMR_CommonProblems.pdf
  • Facey, G. "Measuring 1H Line Shape - The Line Shape Sample." University of Ottawa NMR Facility Blog, 2007-10-23. http://u-of-o-nmr-facility.blogspot.com/2007/10/measuring-1h-line-shape-line-shape.html
  • Facey, G. "Weak Lock Signals and Distorted NMR Spectra." University of Ottawa NMR Facility Blog, 2012-04-20. http://u-of-o-nmr-facility.blogspot.com/2012/04/weak-lock-signals-and-distorted-nmr.html
  • Facey, G. "The Width of Your Water Line - Radiation Damping." University of Ottawa NMR Facility Blog, 2007-10-05. http://u-of-o-nmr-facility.blogspot.com/2007/10/width-of-your-water-line-radiation.html
  • Facey, G. "First-Order Phase Errors." University of Ottawa NMR Facility Blog, 2011-01. http://u-of-o-nmr-facility.blogspot.com/2011/01/first-order-phase-errors.html
  • Chmurny, G. N.; Hoult, D. I. "The Ancient and Honourable Art of Shimming." Concepts in Magnetic Resonance 1990, 2, 131-149. doi:10.1002/cmr.1820020303

制作メモ:ディープリサーチで 111 件のソースを収集したうえで執筆した。Torres と Price の論文(PDF 全文)とオタワ大学 NMR 施設の 4 記事は、自分で取得して本文を確認している。 Chmurny と Hoult の総説は書誌のみ検索で確認し、奇数次/偶数次シムの一般則として引いた(原著本文は購読制のため未確認)。ディープリサーチの回答には、URL を持たない合成文書("Technical Reference Manual")に帰属する数値が多数含まれていたため、それらは採用していない ―― とくにメーカー別の線形仕様値の一覧は、ベンチトップ機の値がベンチトップNMRの選び方で自分が原典確認した値と食い違っていたため、全面的に不採用とした。