2D-NMR のスペクトルを前にして、いちばん危ないのは何かが見えたときではない。何も見えなかったときである。
「C-7 と H-12 のあいだに HMBC 相関が出ていないので、この二つは離れている」――この一文が、いくつの構造式を間違えてきたか。この記事は、その推論がなぜ成り立たないかを、結合定数と遅延時間の数値から追う。
この記事の読み方
前半(1〜3節)は4 つの実験がそれぞれ何を返しているかの整理で、入門者はここだけでも読む価値がある。要点は「相関」という同じ言葉で呼ばれている 4 つのものが、まったく違う物理量だということである。
中盤(4〜10節)が本題で、HMBC の相関が現れたり消えたりする仕組みを数値で見る。ここが実務でいちばん効く。
後半(11〜14節)は NOESY の落とし穴、実際に改訂された構造、そして計算で先回りする方法である。
装置側のトラブル(線形・シム・位相・感度)は NMRのトラブルシューティング に、定量は 定量NMR(qNMR) に分けてある。
1. 4つの実験は、それぞれ別の物理量を返している
まず整理しておく。
| 実験 | 何と何を結ぶか | 何を経由しているか |
|---|---|---|
| COSY | ¹H と ¹H | ³J(HH)(スピン結合) |
| HSQC | ¹H と、それが直接ついている ¹³C | ¹J(CH)(1 結合) |
| HMBC | ¹H と、離れた ¹³C | ⁿJ(CH)(多くは 2〜3 結合) |
| NOESY / ROESY | ¹H と ¹H | 空間の近さ(双極子-双極子緩和) |
重要なのは、COSY・HSQC・HMBC が返しているのは「結合の存在」ではなく「スピン結合定数の大きさ」だということである。結合定数がゼロに近ければ、原子どうしがどれだけ近くても交差ピークは出ない。逆に結合定数が十分あれば、想定より遠くても出る。
この一点が、以下すべての話の土台になる。
2. HSQC が信頼できるのは、結合定数が桁違いに大きいから
なぜ HSQC は安心して読めて、HMBC は読めないのか。答えは結合定数の大きさである。
University College London の NMR 施設は、こう整理している。
one-bond 13C-1H coupling constants (1JCH-couplings; ~120-250 Hz) those over 2-4 bonds (2-4JCH-couplings, typically < 10 Hz)
1 結合が 120〜250 Hz、2〜4 結合が 10 Hz 未満。桁がひとつ違うどころではない。しかも 1 結合のほうは、sp³ の C-H が 125 Hz 前後、sp² が 160 Hz 前後、末端アルキンが 250 Hz 前後というように、炭素の混成でほぼ決まる狭い範囲に固まっている。
HSQC の遅延はこの 1J(CH) に合わせて設定される。実際の値が 125 Hz なのに 145 Hz で最適化しても、後で見る強度の式に入れれば十分な信号が残る。だから HSQC の答えはほぼ二値的で、「この水素はこの炭素についている/ついていない」がはっきり出る。
いっぽう HMBC が拾おうとしている 10 Hz 未満の結合は、同じ 3 結合でも構造と立体配座で 0 から 10 まで動く。ここに、この記事のすべての問題がある。
なお HSQC には多重度編集(multiplicity-edited HSQC)という変種があり、DEPT-135 と同じ規約で CH と CH₃ が正、CH₂ が負の位相で出る。1 回の測定で「どの炭素にいくつ水素がついているか」まで返ってくるので、ルーチンではこちらを使うのが普通になっている。
3. COSY が示しているのは結合ではなく、結合定数である
COSY の交差ピークは、³J(HH) というスピン結合を経由している。隣り合った炭素についた水素どうしが結ばれる ―― という説明は、9 割方は正しい。
問題は残りの 1 割で、³J(HH) は Karplus 型の二面角依存性を持つ。Karplus の式が記述するとおり、
The magnitude of these couplings are generally smallest when the torsion angle is close to 90° and largest at angles of 0 and 180°
二面角が 90° 付近に固定されている隣接プロトンは、³J(HH) がほぼゼロになり、COSY に交差ピークが出ない。環系やかさ高い置換基で配座が固定された分子では、実際に起きる。
つまり COSY でも、すでに「相関が無いこと」は「隣り合っていないこと」を意味しない。この性質は 6 節で HMBC の ³J(CH) にそのまま引き継がれる。
4. HMBC の「2〜3結合」は、装置に入れた1つの数字が決めている
ここからが本題である。
HMBC は、長距離の C-H 結合を発展させるための待ち時間(長距離遅延、Δ₂)を持つ。Araya-Maturana らの解説によれば、この遅延は次の式で決まる。
Δ₂ = 1 ÷ (2 × ⁿJ(C,H))
つまり「何 Hz の結合を狙うか」を決めると、遅延が一意に決まる。逆に言えば、装置に入力した 1 つの数字が、そのスペクトルにどの相関が出るかを決めている。
同じ論文は、実務でどう設定されているかも書いている。
Since molecules have a range of nJC,H values, typically from 2 to 15 Hz, Δ₂ should be at least 100 ms. In practice, a delay shorter than the theoretical value is employed, in order to avoid the decay of the 1H magnetization during this delay, particularly for large molecules. For routine applications Δ₂ is usually set from 60 to 80 ms. This makes the cross-peaks arising from values of nJCH that are well removed from the average value to be significantly attenuated.
そして、この一文が実態を言い当てている。
The choice of Δ₂ is generally made on an arbitrary basis rather than from knowledge of the actual value of the couplings. (Δ₂ の選択は一般に、実際の結合定数を知ったうえでではなく、恣意的な根拠でなされている)
Chemistry LibreTexts の教材も、同じことを初学者向けに書いている。
Sometimes 3 bond correlations don't appear in the HMBC spectrum. The HMBC experiment is optimized for a particular coupling constant (~10 Hz). If the proton-carbon coupling constant is small, then the signal will be absent from the spectrum.
ここで、ひとつ断っておきたい。ⁿJ(C,H) の「典型的な範囲」は、文献によって食い違う。Araya-Maturana らは 2〜15 Hz、UCL は 10 Hz 未満、後で見る i-HMBC の論文は ²J と ³J について 0〜8 Hz と書いている。この不一致自体が、この量が一つの値に決まらないことを示している。
5. 遅延を変えると、相関は現れたり消えたりする
では、遅延を変えると具体的にどうなるのか。原典が与える関係だけを使って計算してみる。
交差ピークの強度は反位相への発展に比例するので、
強度 ∝ | sin(π × J × Δ₂) |
となる。この関数は J = 1/(2Δ₂) で最大になり、J = 1/Δ₂ でちょうどゼロになる。まず、遅延ごとの最大点とゼロ点を並べる(以下、筆者による計算)。
| Δ₂ [ms] | 最大になる ⁿJ = 1/(2Δ₂) [Hz] | 強度がゼロになる ⁿJ = 1/Δ₂ [Hz] |
|---|---|---|
| 60 | 8.3 | 16.7 |
| 65 | 7.7 | 15.4 |
| 80 | 6.2 | 12.5 |
| 100 | 5.0 | 10.0 |
| 200 | 2.5 | 5.0 |
そして、実際の結合定数ごとの相対強度(1.00 が最大)はこうなる。
| 実際の ⁿJ(C,H) [Hz] | Δ₂=60 ms | Δ₂=65 ms | Δ₂=80 ms | Δ₂=100 ms | Δ₂=200 ms |
|---|---|---|---|---|---|
| 1 | 0.19 | 0.20 | 0.25 | 0.31 | 0.59 |
| 2 | 0.37 | 0.40 | 0.48 | 0.59 | 0.95 |
| 3 | 0.54 | 0.58 | 0.68 | 0.81 | 0.95 |
| 5 | 0.81 | 0.85 | 0.95 | 1.00 | 0.00 |
| 8 | 1.00 | 1.00 | 0.90 | 0.59 | 0.95 |
| 10 | 0.95 | 0.89 | 0.59 | 0.00 | 0.00 |
| 12 | 0.77 | 0.64 | 0.13 | 0.59 | 0.95 |
| 15 | 0.31 | 0.08 | 0.59 | 1.00 | 0.00 |
読み取れることが 3 つある。
第一に、ルーチンの 65 ms で 1 Hz の結合は強度 0.20 しか残らない。小さい結合は最初から不利である。
第二に、遅延を伸ばして小さい結合を拾おうとすると、大きい結合が死ぬ。Δ₂ = 200 ms は 1 Hz の相関を 0.59 まで持ち上げるが、5 Hz と 10 Hz をきれいにゼロにする。4 結合狙いで遅延を伸ばした結果、ごく普通の 3 結合相関が消える、ということが起こりうる。
第三に、そして最も重要なことに、同じ試料の同じ相関が、遅延だけで「見えない」から「最強」へ動く。Δ₂ を 65 ms から 100 ms に変えると、
- 10 Hz の相関:0.89 → 0.00(完全に消える)
- 15 Hz の相関:0.08 → 1.00(実質見えなかったものが最大になる)
同じ分子、同じ結合、同じ装置。変えたのは待ち時間ひとつだけである。
6. 3結合でも、二面角が 90° に近ければ消える
遅延の問題とは別に、もう一つ独立した消え方がある。
³J(C,H) もまた Karplus 型の二面角依存性を持つ。3 節で見た ³J(HH) と同じで、H-C-C-C の二面角が 90° 付近なら結合定数はゼロに近づく。
つまり 3 結合で確実につながっているのに、その配座では交差ピークが出ないという状況が、原理的に存在する。しかも 4 節の遅延の問題と重なるので、「小さい結合定数」×「その値から外れた遅延」で二重に弱められる。
配座が固定された環系、糖、ペプチドの構造決定では、これは例外的な事故ではなく日常的に起きる。
7. 4結合・5結合は「例外」ではない ― そして自己成就予言
ここまでは「出るべきものが出ない」話だった。逆方向、「出ないはずのものが出る」側も見ておく必要がある。
Araya-Maturana らの論文は、まさにこの点を主題にしている。
the belief remains that HMBC, in its standard form, is useful mainly to observe correlations across either two- or three-bond, and the observation of couplings at four-bond would be very exceptional, arising mainly when the method is tuned to observe these couplings. However, the early observation of a crucial four-bond C,H correlation in the HMBC spectrum of the antibiotic distamycin A and the several examples of this kind of correlation that we have reported refute this belief.
彼らが挙げる実例は、特殊な条件で無理に引き出したものではない。
- 4,4-ジメチルアントラセン-1,9,10(4H)-トリオンで、Δ₂ = 65 ms という完全にルーチンの設定で 5 結合相関
- 4,6-ジクロロキノリン-5,8-ジオンで、Δ₂ = 80 ms で複数の 4 結合と 2 本の 5 結合相関
- クロトン酸エチルという、これ以上ないほど単純な分子でも 5 結合相関(Δ₂ = 65 ms)
さらに彼らは、4,4-ジメチルアントラセントリオンで Δ₂ を 65 ms(7.7 Hz 相当)から 100 ms(5 Hz 相当)に変えても、観測される相関に差が出なかったと報告している。5 節の計算どおりなら 10 Hz の相関は消えるはずだが、この系では動かなかった。つまり、遅延を変えたときに何が起きるかは、事前には予測できない。
そして、この論文でいちばん鋭いのは技術的な指摘ではなく、人間についての指摘である。
In our opinion, the persistence of this belief is a consequence of a kind of self-fulfilling prophecy. If the HMBC method is learned in the form previously mentioned, then when a very long range correlation (ⁿJC,H n>3) appears, it will probably be discarded, unless the information that it provides is absolutely necessary. (この思い込みが生き延びているのは、一種の自己成就予言の結果だと我々は考える。HMBC を先の形で習えば、非常に長距離の相関が現れたとき、それは捨てられるだろう ―― その情報がどうしても必要でない限り)
「4 結合は出ない」と教わるから、出ても捨てる。捨てるから、出ないことになる。
計算機支援構造決定(CASE)の代表格である Structure Elucidator が、「2D NMR データには未知数の非常に長距離の相関が含まれている」ことを前提に設計されているという同論文の指摘は、この点を裏側から裏づけている。
8. だから「相関が無い」は証拠にならない
ここまでを整理する。HMBC に交差ピークが出ない理由は、少なくとも 4 つある。
- その結合定数が、設定した遅延から外れていた(5 節。極端な場合は正確にゼロ)
- 二面角が 90° 付近で、結合定数そのものが小さい(6 節)
- 等高線のしきい値より下だった(弱いピークは表示されていないだけかもしれない)
- 本当に結合が無い
4 番だと言い切るには、1〜3 を潰さなければならない。そして通常の 1 回の HMBC 測定では、1〜3 は潰せていない。
Araya-Maturana らが勧める対処は明快である。
a first approximation to observe a greater number of long-range correlations is to perform several HMBC experiments with different long-range delays combined with a deeper threshold in the contour plot. In this way, new correlations could be observed and some of those initially seen may disappear.
遅延を変えて複数回測り、等高線を深く取る。そうすれば新しい相関が現れ、そして最初に見えていた相関のいくつかは消える。この「消える」という一言が、単一の測定に構造を託すことの危うさを言い尽くしている。
9. 相関があっても、何結合かは分からない
「無い」側の話が終わったので、「有る」側を見る。
HMBC の交差ピークが出たとして、それが 2 結合なのか 3 結合なのかは、HMBC 自身には分からない。理由は 4 節と同じで、²J と ³J の大きさの範囲が重なっているからである。
i-HMBC の論文(Nature Communications 2023)は、こう書いている。
overlapping ranges of the magnitudes of ²JCH and ³JCH coupling constants: from 0 to 8 Hz
範囲が同じなら、強度からは区別できない。結果どうなるか。
For proton-deficient compounds, this limitation led to frequent "guesswork" to elucidate the carbon skeleton from HMBC correlations, frequently yielding inconclusive or misassigned structures.
そして具体例が挙がっている ―― クリプトスピロレピン(cryptospirolepine)の当初の構造は、2 結合 HMBC 相関の誤認によって誤っていた。
炭素が多く水素が少ない骨格(芳香族が縮環したアルカロイド、高度に置換されたテルペンなど)ほど、HMBC 相関 1 本あたりが背負う情報量が増える。そういう分子ほど、1 本の誤読が構造全体を変える。
10. 区別する実験 ― 1,1-ADEQUATE と i-HMBC
²J と ³J を分ける実験は存在する。1,1-ADEQUATE は、¹H-¹³C-¹³C という経路を使うことで、2 結合の相関だけを返す。
ただし、この実験には決定的な代償がある。隣り合う 2 つの炭素が両方 ¹³C でなければならない。¹³C の天然存在比は 1.1 % なので、その確率は
0.011 × 0.011 = 0.000121 = 約 0.012 %
およそ 8,300 分子に 1 個。(筆者による計算)1 結合の HSQC が使える 1.1 % に比べて、さらに 2 桁落ちる。
実測がどれほど厳しいかは、i-HMBC の論文が数字で示している。
| 試料量 | 測定時間 | 結果 | |
|---|---|---|---|
| 1,1-ADEQUATE(ホモジメリシン A) | 6 mg(13 µmol) | 41 時間 | ― |
| 1,1-ADEQUATE(ホモジメリシン B) | ― | 90 時間 | 弱い相関が 9 本のみ |
| i-HMBC(ホモジメリシン B) | 0.47 mg(1.0 µmol) | 6 時間(3 時間でも十分) | 同等の情報 |
| i-HMBC(クリプトスピロレピン) | 0.14 mg(0.28 µmol) | ― | ― |
論文は i-HMBC が「essentially the same structural information but is significantly more sensitive」であり、1,1-ADEQUATE の 7 % の測定時間で同等の炭素骨格情報を与えると述べている。
90 時間かけて 9 本しか出ない実験と、6 時間で同じ情報が出る実験。これが 2023 年の到達点である。
なお、²J と ³J を分ける別の手段として HSQC-TOCSY もある。こちらは同じスピン系の中を伝播させるので、HMBC とは違う切り口で骨格をつなぐ。同じ答えに別経路で到達することが、単一実験への依存を減らす最も現実的な方法である。
11. NOESY は距離を返さない ― 分子量と磁場でゼロを通る
立体配置を決める段になると NOESY / ROESY を使う。ここにも固有の落とし穴がある。
NOE の大きさは、プロトン間距離の 1/r⁶、ラーモア周波数、そして相関時間 τc(分子の回転の遅さ)で決まる。τc は粘度・温度・分子の大きさの関数である。そして NOE は、ある分子サイズでちょうどゼロを通る。
University of Alberta の NMR 施設が公開している「Zero-NOE estimation guide」というチャートは、この零点を分子量・磁場・温度の関数として描いている。298 K(25 ℃、標準的な測定温度)でチャートを読むと、おおよそ次のようになる。
| 磁場 | NOE がゼロになる分子量(298 K, 概算) |
|---|---|
| 800 MHz | 約 650 |
| 600 MHz | 約 830 |
| 500 MHz | 約 970 |
| 400 MHz | 約 1050 |
| 300 MHz | 約 1130 |
注意すべきは向きである。高磁場に行くほど、零点は小さい分子量側に降りてくる。800 MHz の装置で分子量 650 前後の化合物を測ると、どれだけプロトンが近くても NOE が出ないという事態が起こる。天然物や中分子創薬の対象は、まさにこの帯にいる。
対処は ROESY で、回転座標系では相関時間への依存性が違い、符号が反転しないため分子量によらず使える。「NOESY で相関が出ないから遠い」も、また証拠にならない。
12. 構造は改訂されてきた
以上の性質が積み重なると何が起きるか。天然物化学の歴史がそれを記録している。
2005 年、Nicolaou と Snyder は Angewandte Chemie に「Chasing Molecules That Were Never There(存在しなかった分子を追いかけて)」という総説を発表した。誤って帰属された天然物と、それを正した全合成の役割を扱った 33 ページの論文である。
その 20 年後、de Albuquerque らは Frontiers in Natural Products に「Are we still chasing molecules that were never there?(我々はまだ、存在しなかった分子を追いかけているのか)」と題した総説を書いた。問いの形が示すとおり、問題は終わっていない。
Elyashberg らは Molecules 誌(2023)で、誤帰属の原因を 5 つに整理している。
ambiguity of the standard length correlations (2 to 3 bonds) in HMBC and COSY spectra, which are difficult to differentiate one from the other without additional experiments; incomplete spectral information due to missing correlations; the existence of longer correlations (more than 3 bonds) that are difficult to confirm without additional DFT analysis; signal overlap in 1D and 2D spectra; and subjectivity in the specialist's interpretation.
読み返してほしい。この 5 つのうち 3 つは、この記事の 4〜9 節でそのまま扱ってきたものである ―― 2 結合か 3 結合か区別できないこと、相関が欠けること、3 結合を超える相関が存在すること。残る 2 つは信号の重なりと、解釈する人間の主観である。
13. 計算で先回りする ― DP4 と CASE
救いは、いまや測る前でも後でも、計算で確かめられることである。
DP4 は Smith と Goodman が 2010 年に JACS で提案した確率的手法で、候補構造ごとに計算した化学シフトと実測値の誤差から、ベイズの定理で「その構造が正しい確率」を返す。元論文は 117 分子・最大 64 のジアステレオマーに対して検証されている。
その後の展開を、de Albuquerque らの総説が数字で追っている。
| 手法 | 検証対象 | 正解率 |
|---|---|---|
| DP4 | 69 化合物 | 75 % |
| dJ-DP4(結合定数も使う) | 同じ 69 化合物 | 96 % |
| DP4+ | 48 化合物 | DP4 より高精度(具体的な率は記載なし) |
| DIP(絶対配置向け) | 114 のキラルアルコール・アミン | 96 % |
元の DP4 の正解率が 75 % だという事実は、そのまま受け止めたほうがよい。4 つに 1 つは外す。だからこそ、結合定数の情報を足した dJ-DP4 が 96 % まで上がったことに意味がある ―― 化学シフトだけでは足りず、結合の情報が要るという、この記事の主題と同じ結論である。
もう一方の系統が CASE(計算機支援構造決定)で、2D NMR の相関表から可能な構造をすべて列挙する。7 節で触れたとおり、CASE は最初から「非標準の長距離相関が未知数だけ混じっている」前提で作られている。Elyashberg らは 12 件の構造改訂事例を再検討し、「in each of these cases, the correct structures were established within minutes」(いずれの場合も、正しい構造は数分で決まった)と報告している。何年もかかった全合成による改訂が、である。
人間が「この相関が無いから」と切り捨てる選択肢を、CASE は切り捨てない。これが、人間と機械の差の本質である。
14. 実務の手順 ― どの順に読むか
以上を、手を動かす順序に落とす。
第一に、HSQC から読む。1J(CH) が 120〜250 Hz と桁違いに大きいので、ここが最も確実である。多重度編集を使って CH / CH₂ / CH₃ を確定させ、まずこれを動かない土台にする。
第二に、COSY でスピン系をつなぐ。ただし 3 節のとおり、二面角 90° 付近では出ない。「つながらなかった」を「隣接していない」と読まない。
第三に、HMBC は 1 回で済ませない。遅延を変えて複数回測る。ルーチンの 65〜80 ms に加えて、100 ms 前後をもう 1 本。そして等高線のしきい値を下げて見る。5 節の表を思い出せば、この 1 回の追加測定で見える世界が変わることは分かる。
第四に、HMBC 相関を数えるとき、「何結合か」を決め打ちしない。2 結合か 3 結合かが構造を分ける場面では、HSQC-TOCSY を当てるか、試料が十分あるなら 1,1-ADEQUATE を、無いなら i-HMBC を検討する。
第五に、NOESY を使う前に、分子量と磁場を確認する。11 節の表の帯に入っているなら ROESY にする。
第六に、構造が決まったら計算で確かめる。DP4 / DP4+ か CASE。「決まった」と思ったあとに回すのがコツで、自分の答えを支持するかどうかではなく、自分が捨てた候補を機械も捨てるかを見る。
分析者の視点
三つだけ書いておきたい。
第一に、報告書とスペクトル表に「無かった相関」を書かないこと。書くべきは「観測された相関」と「測定条件(遅延・しきい値)」である。「H-12 と C-7 の相関は観測されなかった」と書いた瞬間、読み手はそれを陰性の証拠として使う。しかし 8 節のとおり、それは陰性の証拠ではない。どうしても書くなら、遅延を何通り試したかを併記する。
第二に、この構図は NMR に限らない。このブログでは、粉末X線回折 で「定量限界は相ごとに違う」、SEM-EDS で「像は nm、分析は µm」、異物分析 で「局方は個数までしか決めていない」と書いてきた。共通するのは、装置が返さなかったものを「無い」と読み替える瞬間に誤りが入るという点である。HMBC の空白は、そのなかでも最も見えにくい。空白はスペクトル上で目立たないからである。
第三に、自己成就予言から出る唯一の方法は、想定と違うものが出たときに捨てないこと。Araya-Maturana らの指摘は、装置の問題ではなく訓練の問題を突いている。4 結合相関が出たとき、それを「ノイズ」と呼んで消すか、「4 結合だ」と認めるかは、すでに持っている構造の仮説が決めている。仮説が判断を汚染しているという自覚だけが、この循環を切る。だから CASE のような、仮説を持たない手続きを一度は通す価値がある。
まとめ
- COSY・HSQC・HMBC が返しているのは結合の存在ではなく、スピン結合定数の大きさである。
- HSQC が信頼できるのは 1J(CH) が 120〜250 Hz と大きく、混成でほぼ決まる狭い範囲に固まっているから。HMBC が信頼できないのは ⁿJ(C,H) が 10 Hz 前後に散らばっているから。
- HMBC の交差ピーク強度は | sin(π·J·Δ₂) | に従い、J = 1/Δ₂ でちょうどゼロになる。Δ₂ を 65 ms から 100 ms に変えるだけで、10 Hz の相関は 0.89 → 0.00 に消え、15 Hz の相関は 0.08 → 1.00 に現れる。
- ³J(C,H) は二面角 90° 付近でゼロに近づくので、3 結合でも消える。
- 4 結合・5 結合の相関は例外ではない。ルーチンの Δ₂ = 65〜80 ms で、クロトン酸エチルのような単純な分子でも出る。出ないと教わるから捨てられる、という自己成就予言が指摘されている。
- ²J と ³J は 0〜8 Hz で範囲が重なるため、出た相関が何結合かも HMBC 単独では決まらない。クリプトスピロレピンは2 結合相関の誤認で構造を誤った。
- 分ける実験はあるが代償がある。1,1-ADEQUATE は隣接 ¹³C 対(約 0.012 %)に依存し、90 時間かけて弱い相関 9 本ということもある。i-HMBC は 0.47 mg・6 時間で同等の情報を返す。
- NOE は分子量と磁場でゼロを通る(298 K で 500 MHz なら分子量約 1000、800 MHz なら約 650)。高磁場ほど零点は小さい分子量に降りる。
- 誤帰属の原因 5 つのうち 3 つは HMBC の性質そのもので、残る 2 つは信号の重なりと解釈者の主観である。DP4 の正解率は 75 %、結合定数を足した dJ-DP4 で 96 %。
用語集
- COSY:¹H-¹H 相関。³J(HH) のスピン結合を経由する。
- HSQC:¹H と、それが直接ついている ¹³C の相関。¹J(CH) を経由する。
- 多重度編集 HSQC:CH・CH₃ が正、CH₂ が負の位相で出る変種。DEPT-135 と同じ規約。
- HMBC:¹H と離れた ¹³C の相関。ⁿJ(C,H)(多くは 2〜3 結合)を経由する。
- 長距離遅延 Δ₂:HMBC で長距離結合を発展させる待ち時間。Δ₂ = 1/(2ⁿJ)。何 Hz を狙うかで一意に決まる。
- Karplus 型依存性:³J が二面角の関数として変わる関係。90° 付近で最小、0° と 180° で最大。
- 1,1-ADEQUATE:2 結合相関だけを返す実験。隣接する ¹³C 対が必要で、感度が極端に低い。
- i-HMBC:2023 年に報告された、2 結合相関を高感度に同定する実験。
- HSQC-TOCSY:スピン系内を伝播させて骨格をつなぐ実験。HMBC と別経路の確認手段。
- NOESY / ROESY:空間的な近さを見る実験。NOE は分子量と磁場に依存し、ある大きさでゼロを通る。ROESY は零点を持たない。
- CASE:計算機支援構造決定。2D NMR の相関表から可能な構造を列挙する。非標準の長距離相関が混じる前提で作られている。
- DP4 / DP4+:計算化学シフトと実測の誤差から、候補構造の確率を返すベイズ的手法。
出典
- R. Araya-Maturana, H. Pessoa-Mahana, B. Weiss-López, "Very Long-Range Correlations (nJC,H n > 3) in HMBC Spectra", Natural Product Communications 3(3), 445-450 (2008), DOI 10.1177/1934578X0800300321
- Y. Wang, A. Fan, R. D. Cohen, et al., "Unequivocal identification of two-bond heteronuclear correlations in natural products at nanomole scale by i-HMBC", Nature Communications 14, 1842 (2023), DOI 10.1038/s41467-023-37289-z ― PMC10070429
- M. Elyashberg, S. Tyagarajan, M. Mandal, A. V. Buevich, "Enhancing Efficiency of Natural Product Structure Revision: Leveraging CASE and DFT over Total Synthesis", Molecules 28(9), 3796 (2023), DOI 10.3390/molecules28093796 ― PMC10180399
- A. C. F. de Albuquerque, L. H. Martorano, F. M. dos Santos Jr, "Are we still chasing molecules that were never there? The role of quantum chemical simulations of NMR parameters in structural reassignment of natural products", Frontiers in Natural Products 2, 1321043 (2024), DOI 10.3389/fntpr.2023.1321043 ― 全文
- K. C. Nicolaou, S. A. Snyder, "Chasing Molecules That Were Never There: Misassigned Natural Products and the Role of Chemical Synthesis in Modern Structure Elucidation", Angewandte Chemie International Edition 44, 1012-1044 (2005), DOI 10.1002/anie.200460864
- S. G. Smith, J. M. Goodman, "Assigning Stereochemistry to Single Diastereoisomers by GIAO NMR Calculation: The DP4 Probability", Journal of the American Chemical Society 132, 12946-12959 (2010), DOI 10.1021/ja105035r
- University College London NMR Facility, "Measurements of J(C,H)-couplings" ― 解説ページ
- University of Alberta NMR Facility, "Zero-NOE estimation guide" ― チャート PDF
- Chemistry LibreTexts, Spectroscopy Worksheets 19: HMBC
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未確認・限界
- Nicolaou & Snyder の 2005 年総説(Angew. Chem. Int. Ed. 44, 1012-1044)の本文は取得できていない。Wiley は購読者限定である。本記事での言及は、題名・巻号頁と、de Albuquerque らの総説がこの論文を引用している事実にとどめており、「何件の構造が誤帰属されたか」という具体的な数字は本記事に書いていない(二次資料には「1990〜2004 年に約 1000 件」という記述があるが、原典で確認できなかったため採用しなかった)。
- 5 節の強度計算は、原典(Araya-Maturana ら)が与える Δ₂ = 1/(2ⁿJ) という関係と、反位相発展という原理から筆者が計算したものである。原典にこの表が載っているわけではない。実際のスペクトルでは、この式に加えて緩和による減衰・パルスの不完全性・LPJF フィルターの効き方などが重なるので、表の数値は「傾向」であって「予測値」ではない。
- 10 節の隣接 ¹³C 対の確率 0.012 % も筆者の計算(0.011 × 0.011)で、天然存在比を 1.1 % としたときの単純な積である。実際の分子では ¹³C の位置に偏りは無いと仮定している。
- 11 節の分子量の値は、University of Alberta の公開チャートを目視で読み取った概算である。チャートには具体的な数値の表は付いておらず、±100 程度の読み取り誤差を見込む必要がある。温度依存性も大きい(298 K で読んだ)。
- ⁿJ(C,H) の典型的な範囲は、参照した文献のあいだで一致していない(UCL は 10 Hz 未満、i-HMBC 論文は ²J・³J について 0〜8 Hz、Araya-Maturana らは 2〜15 Hz)。本文ではこの不一致をそのまま提示した。どの範囲を採るかで 5 節の表の解釈は変わるが、「遅延が相関の見え方を決める」という結論は範囲によらない。
- i-HMBC のデータは原典(Nature Communications, オープンアクセス)で確認したが、追試の報告は本記事では確認していない。2023 年の報告であり、ルーチン化の程度は不明である。
- 本記事は ¹H-¹³C の系のみを扱った。¹⁵N HMBC、¹⁹F、³¹P などの系にも同じ議論が成り立つが、結合定数の範囲は異なる。
制作メモ:ディープリサーチで収集(100件、うち URL を持たない生成文書1件は不採用)→ 編集側で原著論文・大学 NMR 施設の公開資料を直接開いて検証のうえ執筆。交差ピーク強度と ¹³C 対の確率は原典の関係式から筆者が計算した。